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一発屋転校生、透明人間になる。

この文章は、パナソニックがnoteで開催する「 #あの失敗があったから 」コンテストの参考作品として主催者の依頼により書いたものです

「僕が旅に出る理由はだいたい100個ぐらいあって」とくるりは歌った。

一方、僕が「パリのイギリス人学校」に転校する理由はだいたいほとんどなかった

小学6年生のとき、フランスのパリに住んでいた。そして「パリの日本人学校」に通っていた。日本人のクラスメイトたちと机を並べ、日本人の先生から日本語や日本の歴史について学ぶ。帰宅したら、日本語の教材を使って、日本の宿題をやる。うん。

日本だこれ。

自宅の窓からはエッフェル塔が見えたので、かろうじてパリ感はある。だけど、渡仏するまで住んでいた日本(千葉県)と同じ生活スタイルのままだ。

直感的に思った。「もったいない」と。そして決断した。

よし、学校を変えよう。

「そうだ、京都いこう」みたいなテンションで転校を決めていいのだろうか?いいわけがない。当時の自分に会う機会があるならば、バックドロップを決めたい。

フランス語よりも、より汎用性のある英語を学びたいという気持ちが湧いてきた。そうなると選択肢は、アメリカンスクールか、インターナショナルスクールである。

でも、僕は風の噂で「両校とも日本人が多いから、結局日本人でかたまる傾向がある」と聞いていたので、別の学校を探すことにした。

風の噂を、転校の判断材料にしていいのだろうか?いいわけがない。エビデンスとして心許なすぎる。エルボー・ドロップをくらわせたい。

運命の学校はほどなくして見つかった。「パリのイギリス人学校」だ。調べると日本人は在学していないと言う。

これだ。

この過酷な環境でこそ、僕は半ば強制的に英語を学ぶことができるに違いない。入学手続きを進め、中学1年生のときに転校した。

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通学初日、パリのイギリス人学校の校門に降り立った。右手には、英和辞典。左手には、和英辞典。ときは1993年。世界は果てしなくアナログだった。

分厚い物体を両手に抱えて、急に現れた異質の転校生に対してあなたならどう反応するだろうか。遠巻きに観察する?それとも石を投げる?

イギリス人のクラスメイトたちは、ワッと集まってきたのである。「何それ?」「君だれ?」と次々質問をぶつけてくる。

英語を話せない僕が立てていた作戦は2つ。

"I Can't Speak English"を連呼すること。そして、辞書を指さすことだ。この2点において、コミュニケーションは成立するはずだと仮説を立てていた。

狙いは的中。クラスメイトたちは要領をつかみ、英和辞典で銘々の英単語を選び、「これ日本語でなんていうの?」と尋ねてきた。僕は彼らが選択したスラングを日本語に翻訳して口にした。ドッと笑いが起きた。

次第に、"I Can't Speak English"というだけでも笑いが起きるようになった。笑いの無限ループに入ったのだろう。

このとき僕が、"I Can't Speak England"(私はイギリスが話せない)と言い間違えていたことが判明するのはずっと後のことだ。いずれにせよ、僕は「私はイギリスが話せない!」という一発ギャグを期せずして手に入れたのだった。

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それから3日間、無双状態はつづいた。下校時間まで僕を囲みつづけるクラスメイトたち。"I Can't Speak England!"と言うたびに巻き起こる笑い。なんだ楽勝じゃないか。これはもう数週間で英語をマスターできるんじゃないかしらん?僕はほくほく顔になった。

そんな焼き芋フェイスは、あっという間に氷った芋になった。3日もすると、みんながサーっと音を立てて周りからいなくなったのだ。

そりゃそうだ。転校生の日本人(僕)は何を喋るわけでもなくニコニコしているだけ。辞書を介したコミュニケーションなんて面倒くさい。そもそもクラスメイトたちは日本人に接し慣れていなく、これ以上どう距離を詰めていいかがわからなかった。

僕という流行が去ったのだ。それはもう見事なまでに。一発屋転校生の栄枯盛衰のなんと儚いことか。

そして、僕は透明人間になった。誰も話しかけにこない。目も合わせてくれない。僕もみんなに話しかけることができない。存在感がまるでない。高知県の仁淀川のように透明度の高い透明人間だ。スケスケのスケルトンだ。

世界中の、「透明人間になるための薬」を開発している研究者たちに伝えたい。必要なのは薬じゃない。パリのイギリス人学校に転校することだ。

学校の教室は、すべて二人がけの席で構成されていた。クラスの人数は奇数。必然的に、僕は必ず一人で座ることになった。

みんな隣に誰かがいるのに、僕の隣だけ誰もいない。しかも、授業毎に教室が代わり、自由に席を選ぶことになっていた。つまり教室を移動するたびに僕はひとりで座り、「自分は孤独だ」ということを確認することになるのである。単なる地獄だ。

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転校して半年が経ったころ、追い討ちをかける事件が起きた。そのころ僕は「ペン」「ボール」など、「カタカナそのまま読めばなんとなく通じる英単語」を手がかりに、「pen」「ball」と辿々しくもイギリス人たちとコミュニケーションをとり始めていた。それは一筋の光明であった。

ところが理科の授業でのこと。ワインか何かの瓶を持った先生から「What is this?」と聞かれ、僕は「It's a bin」と答えた。

ポカンとする先生とクラスメイトたち。聞こえていないのだろうか。「bin! bin!」。いくら連呼しても伝わらない。真っ赤な顔で、喉がちぎれそうになるぐらい声を張り上げながら「bin!!!」と叫んでも「What?」と無情に聞き返されてしまう。僕はボロボロの和英辞典を引いた。「瓶」の英訳はこう書かれていた。

Bottle.

頭が真っ白になった。僕はてっきり「ビン」は英語だと思いこんでいたのだ。その日以来、カタコトのカタカナを通じた会話にすら恐怖を覚え、一層無口になった。そして僕は、ロシアのバイカル湖顔負けの透明度を誇る透明人間にレベルアップした。

転校してから一年が経った。僕が学校で発する言葉はせいぜい「Hello」「Thank You」ぐらい。透明人間状態は続いていた。しかし、人生において春は急に訪れるものである。

パキスタン人のアディール君が転校してきたのだ。

転校初日。彼は両脇に、辞書を抱えていた。これは…ひょっとして…。意を決して話しかけた。

「ハ…ハロー」
「I can't speak Enligsh」

後輩ができた瞬間だった。戸惑う彼を、僕はアテンドした。下手くそな英語で学校を案内した。教室ではアディールが一人にならないように(と装いながら僕が一人にならないように)隣に座った。

英和辞典、和英辞典、英パキ辞典、パキ英辞典、4冊の辞典を介したコミュニケーションが始まった。はたから見れば不恰好だけど、僕らは必死だった。発音も文法もめちゃくちゃだったけど、「英語を話す」というバッターボックスに来る日も来る日も立った。一年後、僕らは英語が上達していた。成長に必要なのは、「思い切り空振りできる環境」だったのだ。

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それから18年の月日が経ち、今僕は広告とスポーツと福祉と音楽と漫画の仕事をしている。特に福祉の仕事では、いわゆるマイノリティの方と向き合うことが少なくない。そんなとき、想像する。僕がパリのイギリス人学校で経験した孤独感、あるいは透明人間のような気持ちを、この方も味わっているかもしれない。だとすれば、全力で力になりたい。福祉の仕事にのめりこんでいった。

大失敗だと思っていた、パリのイギリス人学校への転校。今振り返るとその経験は、今の自分を支えてくれている。あの失敗があったから、今の働き方がある。でも、時を戻せるなら12歳の自分に「転校するならちゃんと考えろ」と言いたい。そしてモンゴリアン・チョップをくらわせたい。

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