【『逃げ上手の若君』全力応援!】(62)御柱だったのか! 祭りの時期に合わせての展開にプラスして小ネタも満載の中先代の乱序盤
前話、大鎧に身を包んだ〝大将〟の時行。亜也子も思わず「若様鎧兜似合ってるぅ!」と頬を赤らめてその姿を見ていましたね。
……一転、「もうダメです 一日着ただけで疲労で死にそうです」と、疲労困憊の時行に、「若様 非力だから…」と亜也子までげんなりで始まった『逃げ上手の若君』第62話でした。
「日本国語大辞典」の「大鎧」の項目には、補足的に以下の三点が記されていました。
(1)中世の甲冑の主なものは、大鎧・胴丸・腹巻・腹当の四種類である。源平の合戦頃は、鎧といえば大形の甲冑の意で、他の甲冑は腹巻といわれ、「大鎧」という呼び方はなかった。また、雑兵の用いる胴丸、腹当の類とも異なっていた。
(2)南北朝頃には、騎馬戦から徒歩集団戦に移行したため、武将も腹巻に袖をつけることが多くなり、重い大鎧は進退に不便なため、次第に用いられなくなった。
(3)(2)※の同義語に挙げた「式正の鎧」というのは、室町時代における武家故実の形式化とともに、その完備された点から式正のものとされたもので、江戸時代でも、本式の鎧と称された。
※(胴丸、腹巻などに比し、大きめに製作されたための称)中世の騎射戦用の鎧。弓を射るために両脇を大きくとり、上部の胸背部を高くし、胸部に弦走があり、また、馬上において大腿部を完全に覆うべく、草摺は大きく四枚からなる。右脇に引合せを設け、壺板で塞ぎ、常に大袖を左右の肩につける。着背長(きせなが)。式正(しきしょう)の鎧。
「胴丸・腹巻・腹当」は、胸から腰のあたりだけをスポッと覆うような形をしていて、辞書の絵を見たところ、胴丸→腹巻→腹当の順で、だんだんと身体を覆う面積が狭くなっていました。確かに、機動力は増しますね。
ただ、上記の(3)を見る限り、鎧を脱ぎたいという時行に対して頼重が、「大将の威厳も無くなるし」と悩んでいるその部分と一致するかと思います(ここ追い打ちをかけるかのように、「全裸逃亡ド変態稚児」のネタがからんできたのには、笑いが止まりませんでした)。
一方で、「いやでも鎧は脱ぐと当然危ないし…」という頼重自身が、あくまで神官の格好を貫いているところも個人的には気になります。あえて鎧など着ないことが、現人神としての「威厳」なのかなと推測していますが、真相はいかに……!?
鎧に関して言えば、雫が時行の庇護者である父・頼重以上に、しっかりと郎党として執事の働きをしているのに興味を覚えました。
大鎧=威厳ではなく、「兄様専用の… 逃げ特化の鎧」が、時行のとっては〝らしさ〟と「覇気」につながるというのは、今話でのクライマックス「逃若兵法」にも通じる、まさに楠木殿が時行に最も伝えたかったこと(もちろんそれは、作者の松井先生が作品に込めた重要なテーマのひとつでもあります)ではないでしょうか。
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「他にも問題あるんスよ 若直属兵の鎌倉党なんだけど…」「全然やる気無いんです」
「全員もれなく鼻ほじってる!」
三浦八郎は言います。
「なんか全然覇気も無いしあの子」
頼重は「なんの話だよ!」とあわてていますが、人間の気持ちや動作はシンクロするというのを、皆さんは聞いたことはないでしょうか。
私がかつて教員だった時、ある格闘技の部活動がさかんな学校で教えていたことがあります。良い雰囲気でチームがまとまっていた時に、一人が坊主頭にしたら、一人、また一人と坊主にして、その学年の部員は全員坊主頭にしてしまったということがありました。理由を聞くと、別にない、みんながしているし…といったあいまいな返答であったのも不思議でした(ゲン担ぎとか、気合入れるためというわけではなかったのです)。
私の体験はポジティブなシンクロの例ですが、ネガティブのシンクロもまた然りだと、呆けた面で左の小指を鼻の穴に突っ込み続ける三浦八郎を見て、そう思いました。
その三浦八郎以下、百人の兵たちが、鼻の穴に入れた指を戻さないわけにはいかない「火焔御柱の計!」ーー思わず身震いしました。
変態の記憶でない記憶(笑)をたぐりよせ、たどりついた「頼継殿との鬼ごっこで目印」にした大きな柱ーー折しも、現代でもたった今、諏訪で行われている《《あの祭》》りに合わせてくるとは、松井先生の計算は足利直義をはるかに超えています……。
御柱祭(おんばしらまつり)
長野県諏訪市の諏訪大社上社本宮・前宮、同県諏訪郡下諏訪町の諏訪大社下社の春宮・秋宮では、七年目の寅・申の年五月に御柱祭を行う。山から切り出した樅の大木合計十六本を延べ何万人もの氏子の手で、二か月かけて山から引き下ろしてくる。この御神木をそれぞれ四本ずつ、神社の四隅の延長上に立てる祭り。二年前から御柱を見立てて薙鎌を打ち込む神事を行い、手順を踏んで御柱祭に至る。〔神道辞典〕
「信濃國一之宮 諏訪大社」公式Webサイトより「御柱大祭」のページのリンクです。祭りのビジュアルはこれでわかるかと思います。
そこには、「勇壮さと熱狂的ぶりで、天下の大祭としても全国に知らている御柱祭は、古く、804年桓武天皇の御代から、信濃国一国をあげて奉仕がなされ盛大に行われる様になり、現在でも諏訪地方の氏子20万人以上と訪れる親戚、観光客がこぞって参加し、熱中するお祭です。」とあり、これによれば、時行たちの時代にもあったお祭りということになりますが、もちろん、夜に、火をつけてではありませんよ!
「げえぇっ!」「火のついた何かが沢山下って来やがる!」
瘴奸はこの襲撃を「|火牛《かぎゅう》の計」ではないかと思いますが、すぐに否定します。
火牛の計
火をつけた牛を敵陣に追いやる戦術。中国の戦国時代、斉(せい)の将軍田単(でんたん)が、敵のかこみを破るため千頭あまりの牛の尾に葦などをしばり、それに火をつけて敵に放って、そのあとから兵を進めて燕の軍を破ったという「史記‐田単伝」の故事による。木曽義仲が砺波山(となみやま)で牛の角にたいまつをつけて平家の軍に放ったのも、田単をまねた火牛の計のひとつである。〔故事俗信ことわざ大辞典〕
兵が総崩れになる中での時行との再会にも、瘴奸の表情は軽く笑みを浮かべてるような不敵さをたたえていて、ゾクッとしました。ーーいよいよ、吹雪が時行に新たに授けた「二牙白刃」もその禁を解きます。
〔國學院大學日本文化研究所編『神道事典』(弘文館)を参照しています。〕