【『逃げ上手の若君』全力応援!】(185)タイトル「孫臏」はどこに登場している!? ……ほか、弧次郎の父のこと、推しのモブキャラ再登場に複雑なファン心理!?など
前線での太鼓の謎も解け、土岐頼遠を迎え撃つ準備も整った『逃げ上手の若君』の第185話でしたが、私は冒頭の香坂高宗の様子がとても印象に残りました。
「数年後にはまた殿下をお迎えします 俺に出世の機会をもう一度!」
「めげない男だ」
笑みをたたえてそのように高宗を評する宗義親王と時行との間に築かれた信頼関係もさることながら、高宗のポジティブさにはっとさせられました。
読者の私は〝高宗はこんな青年だったのだろうな〟と納得し、純粋に応援したい気持ちでいっぱいになります。現代において、香坂高宗は北条時行にも増してマイナーもマイナーな歴史上の人物だと思います。そうでありながら、何百年も後に超人気漫画雑誌の登場人物となって多くの人々に知られたことは、実際の本人も驚き……いや、それ以上に嬉しいだろうなと思ったりもします。
わずかに残る史的事実や伝承、そして大河原の地形などを総合的にとらえて、「めげない」高宗のキャラクターを創造した松井先生の才能には恐れ入るばかりです。
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今回は、ストーリーの順を追って気づいたことや調べたことなどを記していきたいと思います。
「皇族ともなれば一通りの楽器はたしなんでいるものだが 和歌にかまけて怠ったか宗良親王」
時行と宗良親王の太鼓のへっぽこぶりに、小笠原貞宗と兵たちは大爆笑!
皇族と楽器については、本郷和人先生の「解説上手の若君」に譲りますが、宗良親王と言えば和歌!!(……というのは、南北朝時代を楽しむ会の代表の受け売りです)というのを逆手にとって、してやったりの感があります。個性は大事ですね。そのあたりを十分考慮しての雫の策だったのかもしれません。恥ずかしがる宗良親王の姿には、太鼓の腕前以前に皇族らしい品が感じられてほっこりです。「策と知れば陛下への嘲笑は感嘆に変わります」という雫のフォローも素晴らしいですね。
「不規則な太鼓で絶妙に眠れん 兵を寝不足にさせる策か?」
貞宗さん、病み上がりなのに目が冴えちゃってかわいそう……。ここまで計算した雫の策だとしたら大したものですが、私は少しばかり違う思いも抱きました。
かつては、戦場のわずかの異変にも気づいて瀕死の瘴奸を発見する(第23話「臣従」参照)ような鋭さのある貞宗でした。しかしながら、今の貞宗にはその鋭さがありません。眠ることができず見開いた目の大きさとは裏腹に、貞宗の眼力は老いとともに確実に衰え、そして時行たちは成長した……そのような時の流れを思わずにはいられません。
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「おみやげがたくさんできました! 家に氷室を作ったのでたっぷり楽しみます!」
「まあ」
ゴツゴツした何かを血に染まった布に包んで担ぐ、キュートな僧形の結城三十郎さん。それを笑顔で見守るシイナ。
「氷室」とは、「冬の氷を夏までたくわえておくために、山かげに穴をあけてつくった室。」〔全訳古語辞典〕のことで、現代であれば冷蔵庫といったところです。氷室に何を蓄えて「楽しみ」とするのかは言わずもがなですが、彼が父・宗広と違うのは、戦場とそこでの「おみやげ」限定で「趣味」にふける点でしょうか。
三十郎は、父同様に登場からずっと自分が自分であることを貫いてきましたが、シイナもだんだんと自然体で地が出てきているような……。
第185話には、私の推しの「自分が自分であることを貫いて」いるモブキャラがもう一人登場しています。ーー土岐頼遠の配下の〝下がり眉〟くんです。
「すごい! 善四郎殿は五郎坊殿の生まれ変わりです!」
青野原で幸運にも〝不発弾〟で終わり、捕虜になったけれども解放されて生きていたからこその再登場は嬉しいのですが……デジャヴが起きています(笑)。
主君の「人間爆弾」にされ、北畠顕家と奥州武士たちの「祭り」を見たにもかかわらず、懲りてないんだなというネガティブな思いと、彼は彼で、モブキャラとしての自分を生き抜いているのだなという、まったく正反対の思いが私の中で交錯します。
彼が彼自身で自覚する個性は、もしかしたら、〝死にぞこない〟といった奇妙な類のものかもしれません。だから、土岐軍に戻って同じことをくり返しつつも、生き延びるような気がします。そんな個性があってもいい。だから、〝下がり眉〟くんの選択を私は支持したいと思います。
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「君の父の名は工藤高景」「右衛門太郎という君の兄と共に東慶寺で自害したそうだ」
父・頼直からの「伝言」が祢津小次郎から告げられ、弧次郎の父の名が明かされました。「工藤」氏は、これまで何度もこのシリーズで扱ってきた「御内人(みうちびと)」の代表格として、長崎氏や諏訪氏とともに挙げられてきました。
「工藤高景」の名は、「世界大百科事典」の「軍奉行」の項目で見つけました。
軍奉行(いくさぶぎょう)
中世に大将軍のもとにあって,軍勢の着到をつけ,実戦を指揮し,味方の手負い・死人を実検し,合戦の記録を作成し,軍功の判定にあたるなど,おもに合戦の実務面をつかさどる重職。臨時の職。〈《吾妻鏡》〉文治元年(1185)4月21日条に,源頼朝が平家追討のことによって義経・範頼を西海に派遣したとき,〈軍士等のことを奉行せしめんがため〉侍所の別当の和田義盛を範頼に,同所司(次官)の梶原景時を義経につけたとあるのが,実例としては早いほうであろう。以後軍奉行は職務の内容上,幕府侍所の高級職員をもってあてるのを慣例とした。そして執権北条氏が侍所別当を独占し,得宗(北条氏嫡流)の譜代の家人中有力者が事実上の侍所長官たる所司の地位につくようになると,後者が軍奉行を務めるようになった。元弘の乱のときには六波羅検断(関東の侍所にあたる)の隅田(すだ)・高橋両氏が,千早城攻めのときには長崎高貞・工藤高景・安東円光らが,これに任ぜられている。
「軍奉行」のような「重職」に就ける家柄や立場に恥じることなく、主君に恩義に報いて最期を遂げていたということなのですね‥‥…。弧次郎の想像はまったく異なる美人の母に対して、得宗の御内人を笠に着て彼のしたことは許されることではありません。しかし、子の弧次郎は生まれ、たくましく成長しています。
「生まれも育ちもとっくに満足しているんで」
自らの存在を否定する誰かを許すことには、非情な困難がともないます。しかしながら、それがなければ自らを受け入れることもできません。弧次郎は、周囲の支えもあり、出会いに恵まれたという幸運はあったものの、自らの境遇を恨んだりすることなく、一途に信じる道を進んできました。その自負と出会った人々(恵まれていたこと、幸運であったこと)への感謝がなければ、この一言は決して出てこなかったと思います。
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最後になりますが、第185回のタイトルは「孫臏」です。〝え、そんな単語どこにも出てきてないよね!?〟と思われた方も多いのではないかと思います。ーー「孫臏」とは、中国の戦国時代の兵法家の名前です。
孫臏(そんぴん)
中国、戦国時代斉の武将。孫武の子孫。魏将の龐涓(ほうけん)にその才をねたまれ、刑(両足を断つ刑)に処せられたが、威王の軍師となり、前三五三年に涓の率いる魏軍を破り、恥をそそいだ。生没年不詳。〔日本国語大辞典〕
上記の引用中の「孫武」の著書が、日本でも有名な兵法書の『孫子』です。孫武も孫臏もともに〝孫子〟と尊称されますが、孫臏の「臏」とは、彼が受けた「両足を断つ刑」という意味です。「名の臏はおそらくこの事実に由来し、実名ではない。」〔岩波 世界人名大辞典〕ということです。
この屈辱は、孫臏の同門であった龐涓の策略により受けたものでした。龐涓は、孫嬪より先に魏に仕えて将軍となったもののの、孫臏の才能を妬み、将来、自分の前に敵軍の将となって孫臏が立ちはだかることに不安を覚えていました。そこで、彼を罠にかけて罪人として処罰し、表舞台に出られないように仕向けたのでした。
しかし、孫臏は龐涓に復讐を果たすべく、斉の将軍の田忌(でんき)の食客を経て、斉の威王の軍師となります。龐涓の策むなしく、孫臏と対決の時が訪 れました。ーー馬陵の戦いです。
龐涓の心理の裏をかく孫臏の術中に陥り、馬陵までやって来た魏軍は、一本の大木の前で立ち止まります。幹を削った白い肌に何かが記されているのに気づいた兵が、龐涓にそれを報告しました。時は夕暮れ、記された文字を読もうとして明かりを灯した龐涓に向けて、一斉に矢が放たれました。ーー孫臏は、弓にすぐれた伏兵一万を潜ませ、灯がともったら一斉に射撃するよう命じていたのです。
木の幹には何が記されていたのか。
「龐涓、この木のもとに死す」
ーーそうです、土岐頼遠がそのバカでかい背をガラ空きにしてのぞき込む太鼓に記された文字は、「孫臏」が馬陵の戦いで大木に記した文言をなぞらえたものだったのです。
〔永井義男『二人の兵法 孫子ー孫武と孫臏の謎』(明治書院)、宮城谷昌光『戦国名臣列伝』(文藝春秋)を参照しています。〕