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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(89)馬好きの好青年だった今川範満にびっくり! 人の才はいかにして使うべきなのかについて考えた

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2022年12月11日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「弧次郎 そいつは俺に任せろ!
 「図に乗るな! 相手の力量を図ってから戦をしろ!!

 長尾景忠に挑むも劣勢となる弧次郎に対して、保科弥三郎は「ゴン」と一発、弧次郎の頭に刀の柄をくらわせます。
 初陣はおおよそ十代前半だった当時ですが、子どもたちはただただ大人に付き従っていただけなのか。そんなことに思いを致した『逃げ上手の若君』第89話です。
 作品中で「一対一の太刀打ちならば 信濃屈指の使い手だ」として四宮が弥三郎を評していますが、そこまでになるのに彼らも年長者から「志があればこそ大人を頼れ」と言われ、戦場で経験を積んできたのでしょう。

 「渋川の時は明神様の幾重もの策があり 海野様や御使い様 皆のお膳立てがあった事を忘れるな!

 技術や知識は平時の鍛錬や座学で身に着けることができますが、戦場や現実生活でそれを生かすためには、実際の場で使うといった体験を重ねる必要があります。そのために、大人が個々の子どもに対して必要な時に必要な形でサポートをする、放任でもなく過保護でもなく適切な頃合いと程合いで……というのは、現代の日本の教育には失われてしまった側面である気がします。

 弥三郎が景忠に一太刀浴びせている姿と同時に、しっかりと戦況を見極めて年少者に引き際を伝えて正しく成長をさせようとする姿は、ただの血の気の多いオッサンではなかったのがわかりますね。

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愛馬の瑪瑙を失い涙にくれる今川範満

 さて、場面が暗転して、物語は今川範満の回想となります。ーー範満、好青年なイケメンではないですか! いや、びっくりです。
 そしてもっとびっくりしたのは、松井先生が歴史上残る記録を『逃げ上手の若君』の中で大胆に解釈して範満のキャラクターを作っていたことです。

 「瑪瑙が射殺されてもう二月ふたつき」「心の病は悪化の一途… 何度も自害を御止めしました

 「病」は病でも心の病だったとは……。
 第84話のラストで「「足利一門・今川範満は 馬の鞍に足をしばりつけて出陣したという」「「病」を患っていたというのが理由だそうだが」という説明がありました。
 今川了俊という南北朝時代の足利一門でもトップクラスの有名人(どんな活躍をした人物であるかは、また別の機会に紹介できればと思います)が記した『難太平記』という記録に残っているそうです。了俊にとって範満は叔父にあたるということですが、そうなると「」を含めた詳細な事情をわざと伏せていた可能性だってあるよね……などと妄想してしまいます。
 そしてさらに、「馬の鞍に足をしばりつけて出陣した」というのも、範満が「自分で馬に乗っていられないほどの重病人」(鈴木由美『中先代の乱』)だったからではなく、「お前ほどの馬術の腕」と『逃げ上手の若君』で足利直義が評価する、駄馬の能力を最大限に引き出すための手段として松井先生はとらえたのだというのに気づかされます。
 今川範満に関するたったこれだけの記録から、「瑪瑙」という愛馬を失って「病」となり、かえってそれによって「馬の鞍に足をしばりつけ」といった常識離れの馬術で戦場を駆けたキャラクターを作り出してしまうなんて(しかも伏線はじわじわと張ってあった!)、本当に驚かされました。
 
 ちなみに、範満は「幼少の頃より馬が好きで仕方なくてな 今では馬の才が一目でわかる」と瑪瑙に語りかけています。これについては、少年漫画にありがちな設定でしょうと思われてしまいそうですが、『徒然草』には次のようなエピソードがあります。
 「そうなき馬乗」であった安達泰盛は、従者が馬を引き出して来た時の馬の歩く様子だけで、〝この馬は気性が荒い〟〝この馬は鈍くさい〟と瞬時に見抜き、危ないからと言ってそれらの馬には乗らなかったということです。
 ※そうなき…比べるものがない。並ぶものがないくらい優れている。
 安達泰盛のエピソード(第百八十五段)に続いて、「吉田と申す馬乗」が次の段(第百八十六段)に登場して、〝これから乗る馬をよく観察しなさい〟〝馬具の状態にもよくよく注意を払いなさい〟とし、これらができる者が「馬乗」であると言う資格があると述べていたことが記されています。
 範満と一緒にいる瑪瑙も嬉しそうにしているので、瑪瑙の死後、範満が常軌を逸した状態となってしまったこと(ひらがなの発話しかしていないのもそのせいだったのですね)に胸が痛みました。
 瑪瑙の墓は「五輪塔」と称される供養塔に似ています。五輪塔とは、仏教で物質を構成するとされている「五大」を、下から順に方(地輪)、円(水輪)、三角(火輪)、半円(風輪)、宝珠(空輪)で象徴しています。範満が瑪瑙を葬ったであろう墓塔は、五輪塔であれば円(水輪)の部分が立派な瑪瑙であるのがわかります。ーー範満が瑪瑙をどれだけ大事にしていたのかが伺い知れます。範満はその出会いから瑪瑙が名馬となるであることを見抜き、何気ない毎日でも、戦場でも、技能を高め合っていたであろうことが想像されるのです。

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 最後に気になったのは、足利直義の冷酷さです。
 時行は、襲われたその一瞬で今川範満の「涙」に秘められた悲しみに気づいたようです。一方の直義は、ニか月経っても「心の病は悪化の一途」という範満がもっと壊れてしまったとしても、足利のためのコマとして働く強い戦力として使おうといるのが明確です。「瑪瑙」との関係を利用して残虐な策を範満に授けているわけです。馬の脳を吸う武具も、直義の発案で憲顕が制作したのではないかとまで勘ぐってしまいます。
 これまで『逃げ上手の若君』では、頭脳が際立つ登場人物が何人か登場しました。ーー諏訪頼重、清原信濃守、佐々木道誉、上杉憲顕、そして足利直義。 
 清原信濃守は野心と尊氏の邪悪な神力で良心が喰いやられたとはいえ、最後は「人の道を外れて」しまいました。そして、彼にいしゆみを渡した道誉、「人造武士」を増産する憲顕と同じものを、直義にも感じます。
 頭脳は「人の道」とともに用いられなければならないものであると私は考えます。弥三郎が言った「明神様の幾重もの策」は、時行や弧次郎を成長させるためであり、それがとりもなおさず女影原の戦いに勝利するためのものでもありました。正直なところ、勝つためであれば子どもの動きを組み込む策は効率が悪いことは否めないのですが、頼重はそういう頭脳の使い方をしないのだと思われます。
 人にはそれぞれ与えられた「才」があります。範満も語るとおり馬もまたそうです。その才を何のためにどのように使うのか……。私は、範満にその才を見出してもらえた瑪瑙は幸せだったと思うのですが、果たして範満はそれに気づくことができるのでしょうか。

〔鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)、今泉忠義訳註『改訂 徒然草』(角川文庫)を参照しています。〕


 いつも記事を読んでくださっている皆さま、ありがとうございます。興味がございましたら、「逃げ若を撫でる会」においでください! 次回は2023年1月12日(木)開催です。

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