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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(182)法と政治の北条氏にはなかった足利将軍たちの「華」を知る魅摩はやはり時行のお嫁さんにふさわしい都会のお嬢さん!?(それよりも「カブトムシ」が謎過ぎる……?)
南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2024年12月1日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕
御柱最強!! ……いや、カブトムシ最強!? 今回は珍しく私よりも妹の方が先に『逃げ上手の若君』を読んでいて、魅摩のエピソードなどを聞かされた最後に〝市河の「カブトムシ捕りに行く約束」って何?〟と聞かれ、新田義貞のごとく「?」フラグの立った第182話でした。「?」フラグと言えば、「いらないと思ったら言ってね 籠城の間に出ていくから」という魅摩の言葉を聞いた時行の左上に出現していますね。これは時行がまったくその意味を解していないとうことになります。つまり、魅摩のことを「いらない」と思ったことなどまるでないということです。
「君が必要だ魅摩 私たちの生活を豊かに彩ってくれないか」
このやり取り、どこがで覚えがあります。ーー北畠顕家と声を失った松姫との出会い(第169話)の場面です。私はその時の顕家のふるまいについて、「松姫の置かれた立場に単に同情するのでも突き放すのでもなく、可憐な少女であることに「敬意」を払い、彼女が彼女であることをすべて肯定した」ことに心を打たれ、顕家を「真の貴族男性でありナイト(騎士)だと思いました」と評しました。
「私も顕家卿の華に憧れがある」
時行が、自分には不足していると考える部分ーーここでは「華」と称される都の文化ーーについて、それを熟知している(かつ、もともと父譲りの〝ファッションセンス〟のある)魅摩に任せるというのは、顕家が目指した「必要とされていない人がいないこと、誰一人欠けることがないこと」という国作りの精神を立派に受け継いでいると感じました。人と人をつなげる大切な何か、顕家にとってそれは「敬意」であったのですが、目に見えないそれを行動で示すとこのような形になることをあらためて感じました。
「綺麗な仕事するの楽しー!」と言って笑顔を見せる魅摩を見て、魅摩本人が最も自分自身を見誤っていたのだろうなと思いました(もしかしたら、道誉パパが大好きだったから、自分でも気づかないうちに父が望む行動を先取りしてしまっていたのかもしれません)。魅摩は「神力」などなくても魅力にあふれ、多くの人の役に立つことのできる女の子なのです(そしてやはり、時行のお嫁さんにふさわしい、都会の「良家」の娘なのだなというのを実感……)。
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「だけど俺は田舎の下級武士 どんな屋敷なら殿下にご満足いただけるのか 家具や飾りやお召し物も正解がわからず」
香坂高宗のこの悩みを解決するために、京育ちの魅摩が活躍するのですが、私もこれについてはずっと疑問を抱いていました。信濃の山深い場所で親王をお迎えして、果たして満足な生活ができたのだろうかという点です。ーーそうですよね、宗良親王は信濃に最も長く滞在していたとされ、長生きもしていますので、魅摩のようなブレインがいて、しっかりした待遇で迎えられていたと想像して構わない気がしました。
「寝殿造」と「書院造」は、日本史の授業の重要項目として必ず登場しますね。
書院造(しょいんづくり)
近世初期に完成した和風住宅様式。平安時代に公家 (くげ) の住宅様式であった寝殿造が、武家の台頭によって武家住宅にも取り入れられ、時代が進むにつれて変化して、室町時代末から桃山時代にかけて書院造として大成した。
足利義満 (あしかがよしみつ) が1378年(天授4・永和4)に造営した彼の住宅である花御所室町殿は、寝殿が公的な行事を行う場所で、二棟廊 (ふたむねろう) 、中門廊、中門があって、将軍家も大臣家の伝統的住居の形態を踏襲している。そして遊興など社交的な会合のために会所 (かいしょ) が別に設けられた。やがて代々の将軍家では会所内を飾るようになり、付 (つけ) 書院や違い棚が造り付けられ、そこには文具や食籠 (じきろう) 、茶具などが置かれ、また、押板 (おしいた) がつけられて画幅、花瓶、香炉などが飾られるようになった。押板、違棚、付書院に飾られる置物は唐絵 (からえ) 、唐物 (からもの) が珍重された。こうして、足利義政 (よしまさ) のころからは座敷飾りが定着した。そして桃山時代になって武将の邸宅にも応用され、近世武家大名の邸宅では建物の規模が大きくなるとともに、建物内の座敷飾りも床 (とこ) 、棚、書院、帳台構 (ちょうだいがまえ) と発展して豪華になる。初期の座敷飾りとしては慈照寺(銀閣寺)東求堂 (とうぐどう) の同仁斎 (どうじんさい) の付書院や違い棚が有名である。〔日本大百科全書(ニッポニカ)〕
最近の住宅は欧米の様式になってしまいましたが、江戸時代に建てた家が基本になっていた父親の実家には、「押板 (おしいた) がつけられて画幅、花瓶、香炉などが飾られる」場所、いわゆる〝床の間〟があります。南北朝時代を経て室町時代に流行したスタイルが現代まで残っているのはすごいと、日本史で「書院造」を習った時から思っていました。
余談にはなりますが、私は法や政治経済などの分野に興味があるので圧倒的に北条推しであるのに対して、南北朝時代を楽しむ会の女性会員に足利推しが多いのは、文化の面、まさに〝ファッションリーダー〟としての彼らに魅力を感じるからなのかなと思ったりします。
その点について、樋口清之先生が面白いことを述べられています。
頼朝亡きあと、二代将軍頼家、三代将軍実朝、そして源氏の血筋の公暁はいずれも非業の死をとげるが、そういうことができるのは、ドライで実利的な人間たちだ。
北条一族にとって、源氏の血筋を根絶することは必要行為であり、そして、必要行為しかしなかった。
樋口先生、北条氏に対して厳しい(汗)。一方で、「南北朝時代の動乱以後、足利幕府の時代に北山文化、東山文化の花が開いた」として、足利義満や義政らの「風雅」の精神を評価しています。
確かに、法や政治においては、「ドライで実利的」であり、節制(=規律正しく、行動に節度があること。放縦に流れないよう欲望を理性によって統御すること。〔広辞苑〕)することが大事だと私は考えます。
でも、それだけでは世の中が息苦しくなってしまう……。雫が魅摩の使っている「香を知りたがっていた」というように、「華」を求めることも人の(特に女性)の生活や人生にとっては大事なことですね。
私はこれまで、足利将軍たちの家族関係や政治的な面ばかりを見てネガティブな評価しかできませんでしたが、顕家や時行のように「敬意」を持って素敵な部分も見てあげる必要がありますね(反省)。
ちなみに、仏像の話題のところで名前が出て来た「円派」とは「仏師の流派の一つ」です。「長勢を祖とし、平安後期に京都の三条仏所で活躍。円勢、長円、賢円、明円など名前に円がつくものが多いところから、後世、院派・慶派に対していう。穏健で伝統的古様を作風とする。」〔日本国語大辞典〕という説明からも、今の感覚で言えば〝老舗ブランド〟ゆえに「バカ高い」わけです。
仏像が純粋に信仰のためのものであるのならば、「腕の確かな仏師」が「死ぬ気で彫」ったそれの方が価値があるとも言えますね。動乱期には、歴史に名が残ることはないとしても、このような形で力を発揮した人たちも多く存在したものと考えられます。
魅摩が、伊勢の嵐のことで自分を恨んでいる人間がいるだろうことを時行に伝えた時、時行が「南朝の武士もその大半が北条皆殺しに関わっている」ことを魅摩に思い出させ、「安易に人を恨まない」と答えています。ーーこの発言は本当に重いです。
現代の日本は、南北朝時代のような戦乱の世ではありませんが、産業や経済の構造、社会的・文化的な価値観が変化したことによる、〝勝者〟と〝敗者〟の出現や交代のようなことが起きていると考えられなくもありません。そして、その中で南北朝時代よりも複雑な「恨み」が蔓延していることを私は感じます(例えばSNS上で、そうした思いが集積した〝魔窟〟の存在を見聞きします)。
過去の出来事が〝歴史〟となり、未来の人間がそこを見通した時に、破壊の中から新しい変化が希望とともに生じていることに気づきます。独占されていた分野に、これまでならば締め出されていた集団や人間が参加できた歴史的事実は、『逃げ上手の若君』の香坂高宗や今回の「仏師」として描かれていると私は考えます。しかしながら、ミクロな視点による歴史、つまり、激変する時代を生きた一人一人がどのように生きて死んだかということは、教科書には書かれていません。
実際、現代の日本人の多くが本当に知りたいと思っているのは、〝敗者〟となった人間はいかにして「恨み」を手放すことができるのか、あるいは、〝勝者〟となった人間がどのように〝敗者〟と向き合うべきであるのかといった問題の具体的な解決法ではないかと思うのです。ーー文学や創作作品の役割はそこにあると言えるでしょう。そして、『逃げ上手の若君』は、その重苦しい問題に対して、登場人物たちがそれぞれの立場で答えを出そうと必死に生きる姿が描かれているゆえに優れた作品であると、私は考えるのです。
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『逃げ上手の若君』が優れた作品なのは、深いテーマに斬り込んでいるからというだけではありません。やはりギャグが秀逸です。
保科党のオッサンたち顔負けの弧次郎好きな時行と祢津小次郎にほっこりさせられましたし、市河助房の「カブトムシ捕りに行く約束」に「なにぬ!?」な小笠原貞宗で、意味はわからないのに爆笑です。ーー助房は「馬鹿だな 拙者がいるよ」(第13話「地獄耳1333」)の時の貞宗との関係はすでに解消ですか!? 以前、理由をつけて出兵には応じないという助房の書状を見たことはあるのですが、「カブトムシを捕りに行く約束」ではありませんでした(笑)。
第1話の吹雪の回想シーンで、「カブトムシ食います?」「ゆでい」という会話を交わす助房と貞宗が描かれていましたが、助房はたくさんカブトムシ食べたいのかしら……といった憶測をしたところで真相が明かされるのを待とうと思います。
〔樋口清之『遊びと日本人 日本の歴史 第5巻』(講談社文庫)を参照しています。〕