【メモ】noteでコンテンツを作る型
こんにちは。西武鉄道の駅に設置されるベンチの調査を進めているサヴィーと申します。
西武鉄道を中心とした鉄道関連の動画をつくったり、本を執筆しています。
普段、noteを利用しているわけですが、他の方の記事を読ませていただく中で興味深い発見が多くあります。
発見の蓄積を目的に、記事として残しておきます。
新たな発見を与えてくれた感謝、感謝の記事
お名前:Mr.homeさん
不動産会社の店長を務められている方のようです。
なぜnoteで記事を公開しているのか?
noteでコンテンツを作る際、困る点があります。それは、なぜnoteで公開するのか?という点です。
誰向けに、どんな行動変容を期待して、あるいは便益を期待して書けばよいのでしょうか。(共感できる方いらっしゃいますでしょうか)
そもそも、質の高いコンテンツが溢れる現代において、私のような無名の人間が書いた記事に時間を使って読みたいと思うシーンがなかなか思い浮かびません。
そうなってくると、自分のために書くという側面が強くなります。
酪農の会社を経営されている木野ミサさんも、70%は自分のために書いているとおっしゃっています。同じような方が多いのではと思います。
自分のために書く、楽しいから書くということは「書くこと」の理由にはなります。
「noteで」書くことの理由としては完全には応えていません。
特に、自分の楽しみで書いている内容を、誰かに読んでほしいという期待を前提とした「公開」という形で残す理由が見つかりません。
「あなたの残した記事のおかげでこんなに楽しめました(or 力をもらいました or 学びが得られました)」と感じて欲しいから公開しているのでしょうか。
それくらい相手のことを想い、ニーズに沿ったコンテンツだけを残していきたいのでしょうか。誰にも見せずに調査と推敲を繰り返して文章を磨き続けるべきでしょうか。
結局、書くのは自分のためでしょうか、誰かのためでしょうか。誰かとはだれでしょうか。
田中さんは、自分を読者として文章を書くといいよといってくれる
「読みたいことを、書けばいい。(2019, ダイヤモンド社)」の著作で知られる田中泰延さんは、自分ひとりのために料理をつくるように、自分のために文章を書けばよいと教えてくれます。
自分がおもしろがれることが、結果として誰かの役に立つ、それを証明したい
-読みたいことを、書けばいい。 p.237-
「誰かのため」は結果であって、書く理由ではない。しかし、自分の楽しさのために書いた文章は、誰かのためになる、だから公開する、ということでした。
田中さんの論理は明快です。自分が面白いと思う文章を書く、という指針を与えてくれます。
1点だけ疑問をあげるとすると、「結果として誰かの役に立つ」は田中さんの実力があってこそでは?という点です。
私を含めnoteを書いている人の多くは、「結果として誰かの役に立つ」を信じ切れぬまま、また、実際に読まれないという現実をつきつけられながら公開し続けることになります。
上記の田中さんの著作の引用に省略されている文章をつけるとすると、(田中さんのように実力がある人が文章を書くいうことを前提とすれば)自分がおもしろがれることが〜(以下略)ということになります。
裏を返せば、実力のない人は自分のためにローカル環境で書くだけでよく、公開しなくてよい、ということです。
書く→読まれないという現実を認識する→受け入れて工夫を積み重ねる→成長する
文章を書き、自分の足りないところを認識し改良する。このプロセスなくしてよいコンテンツは生み出せません。
しかし、実力のない人は公開しなくてよいとなると、客観的に自分の作っているコンテンツがどれくらい(自分以外の人にとって)価値がないかを知ることができません。
読まれないという現実を知覚するためには「公開」するしかありません。
順をおって整理すると以下のように整理されます。
1.自分がおもしろがるために、書く
2.(実力がつけば)おもしろがって書いたものは誰かの役に立つ
3.自分はおもしろいけど(実力がないために)誰かの役に立たない状況を脱するためには、実力のなさを理解する過程が必要
4.実力のなさは公開によって認識できる
5.だからnoteに記事を公開する
まだ、誰かの役には立たないけど、読んでもらう文章を書く必然性をどこに求めるか
前置きが長くなりました。
Mr.homeさんの記事の中で得た発見について書きます。
ご本人様を存じ上げないので、本当のところ、どのような意図でnoteを書かれているかはわかりません。
記事を読んで私がうけた印象をもとに話を進めます。
「【マーケティング】3分でわかる正解よりもプロセスに価値があるわけ」の記事をベースにします。
ポテトサラダをおかずにして、ご飯を食べられる店舗リーダーです。
-【マーケティング】3分でわかる正解よりもプロセスに価値があるわけ, 2021, Mr.home-
書き出しです。主題であるマーケティングとは関係ながいポテトサラダの話で始まります。
炭水化物(デンプン)が豊富な芋を、ザ・炭水化物のご飯のお供にしてよいのか?という普遍的な問いです。Mr.home店長は問題ないときっぱり回答します。
冒頭で、身近な話題で興味をひきつつ、人となりを開示して親近感を抱かせてくれます。
山口周さんや尾原和啓さん、西野亮廣さんやメンタリストDaiGoさん、その他多数の方々は口を揃えてこう言います。
-【マーケティング】3分でわかる正解よりもプロセスに価値があるわけ, 2021, Mr.home-
この記事の主張の根拠は、業界の著名人がこういう話をしている、という点です。あの結果を出している方々がいうのだから、正しいこととして論を進めようとしています。
「正解」と「プロセス」を対比させつつ、「正解」にこそ価値があるという一般的な思い込みを覆し、新たな視点を提供しようという記事です。
この文章を書くに至った背景に思いを寄せました。おそらくですが、Mr. homeさんは、安易に答え(正解)を求めるビジネス現場の行動様式に継承を鳴らすことを目的にこの記事を書いたのではないと推察します。
山口周さんや尾原和啓さん、西野亮廣さんといった著名な方々からのインプットをもとに学習した内容をアウトプットする場としてnoteを使っているのでは?と考えています。
つまり、学習の一環です。
なぜ、個人的な学習の足跡を文章として残す必要があるのか?この問いに対し、答えが用意されています。
この投稿は私が働いている現場のスタッフへ届けているメッセージです。
-【マーケティング】3分でわかる正解よりもプロセスに価値があるわけ, 2021, Mr.home-
現場スタッフ向けのメッセージなので、文章にして伝える必要があるということです。納得できます。
しかし、noteで「公開」している理由にはなりません。
仮に、現場スタッフ向けが唯一の目的であれば、社内メーリスで完結です。そのほうがセキュリティが保たれ、競合他社に手の内を明かす危険性もありません。
では、なぜ「現場スタッフ向け」という形を保ちながらnoteに公開するのか?この辺りにおもしろさを感じます。
私の推察はこうです。
Mr. homeさんは、学習結果の蓄積と知見があるという評価の獲得を目指し、アウトプットの場を検討しました。
それがnoteでした。
しかし、学習者としての自分を位置づけてしまうと、コンテンツを発信する大義がありません。
そこで、編み出されたのが「現場スタッフ向け」という型です。
学習し、学習した結果を公開することで知見がある人との評価を得るという目的は前面には出されていません。現場を思うリーダーという形で、コンテンツは生み出され、noteの読者は不動産会社の内部のやりとりを覗きみているような構図で読み進めることになります。
・学習結果をアウトプットして知識の定着が図れる
・学習成果を公開することで、一定の評価を得る機会となる
・想定読者としてスタッフが想定でき、書きやすい
・読者から見て、「なぜこの文章をかいているの?」という問いに応えられる
・内容に誤りがあっても、読者のニーズに応えていなくても、現場スタッフ向けのメッセージなので、批判をうけにくい
noteを発信するうえでとても利点の多い型だと思います。
繰り返しになって恐縮ですが、私の受けた印象に基づく推察ですので、実際とのことろはわかりません。この点は認識いただければと思います。
他のnoterの型も調べてみると
Mr. homeさんのおかげで、noteで文章を書くうえでの型の存在を意識することができました。
自分が達成したいこと、(外から見える)大義のそれぞれを分けて定義することが必要でした。
これらを混同したがために、当初感じていた困りごとにぶつかっていたと思います。
Mr. homeさんのおかげで、型の存在に気づいた今、他のnoterさんの型が気になってしかたありません。類型を整理し、それぞれの特性を明らかにしたい動機が沸き起こっています。
Mr. homeさん、ありがとうございました。
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