見出し画像

 俺は俺が為した行為と作品の単なる作者であって、その行為自体でもなければ作品そのものでもない。俺は人であり、人間であり、行為と作品を造り上げた張本人であることは間違いないが、その行為や作品そのものになることはできない。
 俺は出来事でもなければ小説や映画でもない。しかしそれらは独自かつ唯一無二の人格を有してこの世界に存在している。
 俺は俺だが、そもそも俺は自分が誰だかわかっていない。哲学的な議論をしようというのではない。形而上学や存在論の、そんな類いの話ではない。第一そんな議論は到底俺にはできない。小難しい言葉を並べる方が簡単なのはわかっている。それが甘美な陶酔を誘い、発言する者の自尊心を満たすことも知っている。
 それ自体を否定するわけではないが、俺が言いたいのは極めてシンプルで、つまりは、単に俺は自分の生をうまく生きられないというだけのことで、要は、なぜ自分が生きているのか、生き続けているのか、生に意味を見出せないにもかかわらず、なぜ自らで死を選ばないのか、自殺しないのかという、そんなことを考えることは不毛だと周囲が嘲笑するような、そんなことを日々考えているだけのことだった。
 俺は自己診断によるところの不感症であって、これまで何に対しても関心を持ったことがなかった。俺は心底笑ったこともなければ泣いたこともなく、誰かに対して、何か対して腹を立てたこともない。
 俺は俺が生きてきた軌跡を通して自らを理解しようとしているが、それらが俺に何かを語りかけてきたことはない。
 俺はそうした軌跡、つまりは自らが為した行動とそれに基づく結果に対して責任を負っているが、行動や結果そのものが俺に対して責任を負っているわけではない。それらは独立独歩、俺とは関係なく世界を渡り歩いている。俺がどれだけ地に堕ちようともそれらは俺とは関係なしにその存在を主張している。
 しかし、そこが、いい。
 俺は俺の行動と結果、つまりは行為と作品が俺とは関係なく存続するであろうことに、そして俺がどんな輩に転落しようともそれが自身が自律してこの世界で生き続けることに興奮を覚えている。
 人と行為とは別である。
 一見、人と行為、つまりは、作者と作品は密接に重なり合っている、というよりも、一体となっている。それらはべっとりと密着し、本来は別のものであることなど見る影もない。しかしそれは一過性のことだ。誰もがすぐに忘れる世の中なのだ。誰も他人のことなど、ましてや俺のことなど覚え続けていられるわけがない。時間が経てばペリペリと乾いた音を立て、接着部分が剥がれ出すのは明らかなのだ。やがてそれらが一体となっていたことすら忘れ去られてしまう。
 作者は死によってこの世界から消え失せ、そして作品だけが永遠に生きる。退屈極まりなく、不甲斐ない俺の生など知られることなく、それが作品の中に溶け込む。俺はそこで生まれ変わり、そしてそこで永遠に生きる。俺は自分で自分の生を生きることなく、俺以外の他人によってこの世界に存続し続ける。もはや作者は俺ではなく、俺である必要がなく、俺以外の人間が想像した架空の人物だった。それが俺だということを知っているのは俺だけで、そして、それで充分だった。
 いずれにしても強固な作品が必要だった。作者など、吹けば消えてなくなるような、その存在すら誰もが考慮に入れないほどの強烈な作品が必要だった。そうすれば俺がどこで何をしようと、というよりも、何をするわけでもなく、何もしなくても、作品が勝手にこの世界を生き延び続ける。俺の生を刻み続ける。
 俺はうまく自らの生を生きることができない。器用にそれを扱うことが俺にはできなかった。俺は俺の作品が生き続けることに一筋に光を見出し、完全な規則と規律の中、塀の中で解放された。俺は今、新たな物語の中でその自由を謳歌している。5時43分。自由時間はまだ、ある。

いいなと思ったら応援しよう!

石鹸師
サポート頂ければ幸いです。