ジョン・コットンとロジャー・ウィリアムズ(2)(2006)

第2章 ロジャー・ウィリアムズ
 ウィリアムズが処刑ではなく、追放という処分になったのは政治的理由からです。マサチューセッツ湾植民地は先住民族との抗争が絶えません。そこで、ウィンスロップは敵との間の緩衝地帯の役割を果たさせるため、彼をその地に追放したというわけです。

 ウィリアムズは、『信仰の大儀を掲げて迫害を説く血塗れの教義』(1644)や『コットン氏が神の子羊の血で洗い清めようとしたため一層血塗れになった教義』(1652)などにおいて、コットンの予型論に基づく神学を厳しく批判します。彼によれば、イエスの誕生により、旧約聖書の役目は終わったのであり、それに依拠して現実の出来事を根拠付けることはとんでもない間違いだということになります。

 その上で、ウィリアムズは、儀式や制度に拘束されることなく、信者は個人の救済を追及できるようになったと主張します。これは心の内と外の分離を意味します。この内面の自由は近代的な政教分離や信仰の自由につながっていきます。ウィリアムズは83年に亡くなるまでこれを熱心に説き続けます。

 彼のような人を先駆者であるという見方を示すことには慎重にならなければなりません。と言うのも、その人物に焦点が当たりすぎることで、彼の時代の本質を見失わせたり、根本的には違うものを安易に連ねて進歩主義的に歴史を整理したりしてしまいかねないからです。

 この信念に従い、ウィリアムズは、バプテストだけに限らず、信教の自由を認めます。クエーカー教徒やカトリック教徒、ユダヤ教徒などマサチューセッツ湾植民地などで門前払いされる人たちも受け入れ、完全な信仰の自由を保障しています。それを認めたのは、当時、この植民地だけです。ユダヤ教徒にも門戸を開いたため、この小さな植民地は商業が非常に発展します。1652年には、北米大陸で最初に奴隷を禁止する法律を制定しています。

 ウィリアムズの攻勢にもかかわらず、コットンの権威は揺るぎません。しかし、コットンにも政治的にその立場を危うくする時期があります。それは反律法主義論争です。

 マサチューセッツ湾植民地のピューリタンは神に選ばれた者でのみ教会を組織しようとします。ウィンスロップら指導者たちは厳しい審査を実施し、それに合格した人だけを受け入れています。彼らの社会に住むには、信仰に目覚めた回心体験を会衆の前で告白して、確かに神の恩寵を受けた選民の一人であると認めてもらわなければなりません。

 しかし、それが真実であるかどうかは「神のみぞ知る」です。それを善行によって判断する傾向が強まります。実際、共同体秩序の維持にはその方が好都合です。けれども、救済には、信仰ではなく、善行の方が重要であると転倒した考えに対し、異論を唱える者が現われ、反律法主義論争が始まります。

 律法の遵守ではなく、信仰のみが救済を保障するというのが反律法主義で、その急先鋒がアン・ハチンソンです。彼女はジョン・コットンの説教を聞いて、ピューリタンの信仰に目覚め、34年、彼の後を追って、一家で移住しています。彼女はコットンの教えを急進化し、彼以外の指導者をことごとく批判します。しかし、コットンは最終的に彼女の側に立たず、政治的に振舞います。2年間に及ぶ論争の末、38年、アンの一家は追放され、事態は収拾されます。

 これを凌いだコットンは。1653年に亡くなるまで、ピューリタンの間で絶大な影響リョウを振るうことになります。

 アンの一家と数人の信奉者はプロヴィデンスへ向かいましたが、彼女の信仰は受け入れられません。そこで、ロードアイランドへ渡り、現在のポーツマス町を開きます。その後、ニューヨークに移り住み、43年、先住民の襲撃に遭い、命を落としています。

 セイラムは、その後、アメリカの歴史に残る宗教禍に見舞われます。悪名高きセイラムの魔女狩りです。それは1692年3月に始まり、その秋頃に沈静化するまで、200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑、1名が拷問中に圧死、5名が獄死するという凄惨な状況をもたらします。お互いに疑心難儀に陥った村人は保身から隣人を告発し合い、その果てに、個人的な怨恨を晴らす手段と化しています。

 この魔女裁判を正当化した一人がコットン・マザーです。彼はジョン・コットンの孫に当たり、魔術問題の権威です。彼は、赤狩りのジョセフ・マッカーシーよろしく、魔女狩りに反対する者を容赦なく叩いています。

 反律法主義論争とセイラムの魔女裁判をモチーフにしたのがナサニエル・ホーソーンの『緋文字』です。ヒロインのへスター・プリンのモデルがアン・ハチンソンだと言われ、
魔女裁判の審理に当たった判事はホーソーンの先祖です。

 こうしたアメリカ建国前の歴史を辿って見ると、移住自体に二面性が認められることがわかります。過去から断絶し、信仰の場を求めた未来へ向かう楽観的姿勢でありながら、その一方で、人間の本性は悪であるというピューリタンの悲観的認識が同時にそこにあるのです。ピューリタンはアイデンティティを欧州の伝統、すなわち郷土や身分、言語などではなく、信仰と(キリスト教全般ではなく)その共同体に求めることになります。そのため、政治と宗教の関係が近いのです。

 とは言うものの、彼らは神政政治を実施することはありません。政治を担うのは聖職者ではなく、総督などの世俗の執政官です。聖職者は聖書に根拠を求めた道徳や法を体系立てたり、説教を通じてあるべき政治を説いたりします。頭は手足に命令をするものであって、手足の役割を果たす必要はないのです。

 景気がよくなり、世俗的な関心が世の中で強まり、宗教的厳格さが緩和されると、信仰の危機だとしてリバイバル運動が何度も起きています。日本では不況になると右傾化するのに対し、アメリカが好況期に保守化するのはそのためです。けれども、その復古運動は概して、流行病のように、急激に沸き起こったかと思うと、急速に廃れていきます。

第3章 二つのアメリカ
 神の死の近代において、アイデンティティあるいは帰属意識を信仰に基づいた同質的な共同体に求めるとしたら、それはつねに不安定にならざるをえません。アイデンティティの危機に恒常的に悩まされている精神状態となり、被害者意識から敵をつくりださずにいられないのです。

 また、閉鎖性によりその同質性を維持しようとしても、社会的・時代的変化によって、アイデンティティ危機が生じると、それは純化せずにはいられなくなり、必然的に、分派していきます。分派すれば、その中で反論もありません。自分たちは正しいと思えるわけです。

 アイデンティティを信仰や教会に求めること自体に問題はありません。ただ、他との違いを絶対視し、克服可能と非寛容になることが摩擦や対立、衝突を招くことをq認知しておくべきです。

 結果、その後、アメリカには膨大な数のキリスト教宗派が生まれ、さらに、同じ宗派でありながらも、地域や人種によって事実上分離しているという状態になっています。

 ロードアイランドは、13州の独立には参加したものの、中央集権化に反対し、1787年の合衆国憲法制定会議への参加を見合わせています。これまでの宗派対立の歴史が尾を引いています。合衆国成立後も憲法の批准に応じませんでしたが、他州との交易品に外国並みの関税が課せられることを危惧し、1790年5月29日にようやく批准します。

 言うまでもなく、ジョン・コットン流の狭量な原理主義に対し、寛容さや政教分離を訴えるロジャー・ウィリアムズのような動きがつねに生まれてきたこともまた確かです。独立に尽力したベンジャミン・フランクリンやトマス・ペイン、トマス・ジェファソンらは信仰以上に理性を重んじています。

 アメリカの文芸批評家マルカム・カウリー(Malcolm Cowley)はアメリカの文学者に二つの伝統の流れがあると指摘します。それは無限の進歩を信じ、明るく開放的なベンジャミン・フランクリンのような作家と厭世的で、人間の本性を暗く捉え、内向的なジョナサン・エドワーズに連なる文学者です。

 この二つの流れは、文学に限らず、政治・経済・文化などの領域でアメリカ全般に見られる傾向でしょう。合衆国の外交政策にしても、孤立主義を守りつつも、自由と民主主義を掲げて各地に干渉するイデオロギー外交の二面性があります。

 そこにはジョン・コットンとロジャー・ウィリアムズの姿が見えるのです。この二人の同時代人の鬩ぎ合いがアメリカ社会を彩っています。どちらかが前にせり出し、もう一つは後に退きます。しかし、両者のいずれか一方が完全に消えることはありません。彼らの相反する閉鎖性と開放性のどちらもアメリカのアイデンティティの源泉です。

 1950年代、経済的には未曾有の豊かな社会を謳歌しつつも、政治的にはマッカーシズムの嵐が吹き荒れます。アーサー・ミラーはセイラムの魔女狩りを題材に戯曲『るつぼ』を発表し、赤狩りを批判しています。それは、確かに、ジョン・コットンのアメリカです。

 マッカーシズムの時代は、「平和」を口にすることが悲米敵とみなされたのですから、アメリカ社会はくるっていたと言わざるを得ません。黒人の歌手にして俳優のポール・ロブソンは『ここに私は立つ』において「平和--何よりも大切なものである。平和が保証されれば、すべての国民、すべての人種が、花のように美しく栄えるであろう」と言っています。このロブソンは、1949年、パリの世界平和会議での演説により、非米活動委員会の喚問を受けています。翌年、国務省が彼の旅券を無効としたのに対し、8年に渡る法廷闘争にのぞみ、自由を勝ちとっています。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(『マタイによる福音書』22章37~40節)。

 けれども、その直後にロジャー・ウィリアムズのアメリカが現われます。1960年代、公民権運動や反戦運動、女性解放運動が本格化します。ウィリアムズがコットンと論争したように、全米中でその是非をめぐる議論が沸騰します。

 その60年代後半、ポール・サイモンは、『アメリカ』の中で、「僕はアメリカを探しに来たんだ(I’ve come to look for America)」と歌います。しかし、フランス人が「僕はフランスを探しに来たんだ」と歌わないに違いありませんし、中国人にしても、ブラジル人にしても、ニュージーランド人にしても同様でしょう。

 おそらくアメリカ人は、閉鎖性と開放性の相克の中で、アメリカのアイデンティティを探さずにはいられないのです。そのため、政治と宗教あるいは理性と信仰は、依然として、アメリカにおいて最も重要な問題としてあり続けています。

 閉鎖性と開放性の調停は、これまでも、ある領域の中で時代に応じて揺れ動きます。両者の境界がさらに曖昧となり、決定不能に陥ったことで、それを明確化しようという反動的な動きが先鋭的になります。しかし、アイデンティティはその揺れ動き自体に求められるべきものであって、それがアメリカにほかなりません。ジョン・コットン対ロジャー・ウィリアムズのディベートはまだまだ続いていくのです。

 連邦議会は、宗教の護持にかかわる法律、宗教の自由な活動を禁じる法律、言論または出版の自由を制約する法律、国民が平穏に集会する権利を制約する法律、国民が苦痛の救済を政府に請願する権利を制約する法律の、いずれも作ってはならない。
(『合衆国憲法』修正第1条)

 Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the government for a redress of grievances.
(“The United States Constitution” Amendment I)
〈了〉
参照文献
飛田茂雄、『アメリカ合衆国憲法を英文で読む』、中公新書、1998年
安武秀岳、『新書アメリカ合衆国史〈1〉大陸国家の夢』、講談社現代新書、1988年
油井大三郎、『新訂版アメリカの歴史』、放送大学教育振興会、2004年
『世界の文学』32・33、朝日新聞社、2003年

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