パンデミックを書く(4)(2021)
第4章 生理の貧困と権利としての物語
すでに述べた通り、実際のパンデミックは小説にしにくい。けれども、早速それを扱った作品も登場している。ただ、出来は必ずしもよくない。その一例が金原ひとみの『アンソーシャル・ディスタンス』(2021)である。パンデミックにより希望であり、生き甲斐だったバンドのライブ中止を知り、主人公の男女二人は心中することを決意、「ソーシャル・ディスタンス」に背を向け、世界を拒絶し手旅をする。こういう内容で、とても考えて書いたとは思えない作品だ。
若い二人はパンデミックによって追いつめられたことになっている。バンド活動が二人にとって希望だったことは理解しよう。しかし、パンデミックによって追いつめられた心理状態から自死に向かうとしたら、抑うつ状態に陥り、食欲不振や睡眠不足になり、疲労困憊、現実検討能力が損なわれ、希死念慮に囚われてしまうという過程をたどるだろう。しかも、若者が心中しようとする設定だ。それは二人の恋愛関係が周囲の反対等によって追いつ寝られて継続不可能と当事者が判断した際に向かう傾向がある。けれども、そういった様子は見られない。
主人公は、心理的に追いつめられたと言うよりも、たんに自死を思いついただけである。ろくに考えてもいない人物なので、パンデミック下の読者には感情移入するところがない。このような人物がかりにいるとしても、それが小説の主人公にする社会的意義はない。作者と読者はパンデミックを共通基盤として作品を創作・鑑賞することがこの場合前提になっている。コロナ禍による自死を始め苦境に陥った人たちのニュースを見聞きしている読者にとって、この小説宇は作者の想像力のぬるさを感じるだけで、感情移入はできない。
ちなみに、嘉幡久敬記者は、『朝日新聞』2021年7月22日 13時00分更新「コロナ禍で自殺者3200人増、今後も増加か 東大試算」において、パンデミックによる自死の増加について次のように報じている。
コロナ禍によって国内の自殺者は約3200人増えたとする試算を、東京大学の仲田泰祐准教授(経済学)らのグループがまとめ、公表した。計算上は今後も増える見通し。
警察庁のまとめによると、新型コロナウイルス感染症が広がった昨年3月~今年5月、国内で自殺した人は約2万7千人。日本では失業率と自殺の数に強い相関が知られており、グループは、コロナ禍以前に複数の民間機関が公表していた失業率の予測をもとに自殺者数を推計し、実際の自殺者数との差を計算したところ、約3200人になったという。
また、最新の失業率予測をもとに今後の自殺者数を試算すると、今年6月から2024年末までに、コロナ禍以前の予測と比べて2100人増える結果になった。失業率以外のさまざまな要因が自殺に関係している可能性を考えると、増加分が5千人になることもありうるという。コロナ感染による死亡はこれまで1万5千人が確認されている
『アンソーシャル・ディスタンス』はあまりにも安易な作品だ。小説家でなくても、もっとましな設定くらい浮かぶものだ。希望だったバンド活動がパンデミックにより中止に追いこまれたことで、ネットでCOVID-19のことを調べ、陰謀論にはまってしまい、そうした情報や意見を拡散、ソーシャル・ディスタンスも拒否、人間関係も壊れ、さらに追い詰められていくような人物の方がもっともらしい。その際、二人の関係はマクベスと夫人のようになる。
パンデミックのニュースに触れるが、自分の周りに感染者はいないので、実感がない。しかし、社会の変化に直面して、困惑、不満を募らせ、不安になる。自分にとってのパンデミックを書いたところで、それが社会と重なり合っているか自信がない。どう捉えていいのかわからない。『アンソーシャル・ディスタンス』にはそんな印象を抱く。
パンデミックはすべての世代に変化を敷いている。それは「ニュー・ノーマル」と要約して呼ばれる。直接見聞きして実感することもあるが、率直に言って、日々報じられるニュースの方がこうした小説より驚きがある。影響がきわめて広範囲で、想像力を超えている。そのようなニュースに接すると、しばしば考えが及ばなかったことに恥ずかしささえ覚えるほどだ。
パンデミックによる影響の中で最もハッとさせられたものの一つに、「生理の貧困」を挙げることができる。『NHK』は、2021年3月8日55時03分更新「コロナ禍 米女性の5人に1人が生理用品入手に苦労 NGOなど調査」において、「生理の貧困」について次のように伝えている。
国際女性デーの8日、国際的なNGOなどがアメリカで実施した生理に関する調査の結果を発表し、コロナ禍で女性の5人に1人が生理用品を手に入れるのに苦労したと答えたことがわかりました。
これは、女性や子どもの権利向上などを支援している国際NGO「プラン・インターナショナル」などが全米で行った生理に関する複数のアンケート調査の結果をまとめて公表したものです。
それによりますと、コロナ禍の去年4月から5月にかけて全米の18歳から70歳までの1007人に行った調査では、女性のおよそ5人に1人が生理用品を手に入れるのに苦労したと答えています。
また、およそ4人に1人が生理用品をこの先継続して購入できるか不安を抱いていて、このうち4割以上はコロナ禍で以前よりも不安が大きくなったと答えています。
これについて、プラン・インターナショナルUSAのジャスティン・ヒューグルさんは「コロナ禍における失業なども影響しているとみられる」と分析しています。
いわゆる「生理の貧困」が社会的な問題として関心を集め始めている中、アメリカのいくつかの州では生理用品を非課税にする動きが広がっていて、こうした変化についてヒューグルさんは「アメリカで議員や知事などの女性政治家が増えてきたことによって、これまで注意が払われていなかった問題への意識が高まってきたのではないか」と話しています。
「生理の貧困」をめぐっては、日本でも民間の団体が行ったアンケート調査で、生理用品を買うのに苦労した経験がある学生がおよそ2割に上るという結果が出ています。
NGOが活動しているのだから、すでに社会的問題として取り組まれていたが、NHKが報道している通り、一般にはあまり知られていない。生理用品は生活必需品に含まれる。災害時の避難所でも今や配慮されている。その際、女性が手渡すことも常識である。それが日常生活で手に入らないというニュースは衝撃的である。
パンデミックが悪化させたけれども、そのはるか以前からこの問題は起きている。記事によると、女性の政治家が増えたことで、注意が払われ、顕在化している。生理の貧困はパターナリズムが抑圧してきたと言える。ただ、社会的に話題になれば、たとえ女性の政治家が少ない日本であったとしても、議会や行政が動かざるを得ない。『NHK』は、2021年8月4日 5時42分更新「『生理の貧困』全国の30%余りの自治体で無料配布などの支援策」において、自治体の動きについて次のように報じている。
内閣府は全国の自治体がいわゆる「生理の貧困」への支援に取り組んでいる状況を先月20日時点で調査した結果を公表しました。
それによりますと、学校や公共施設のトイレで生理用品を無料で配布するなどの支援策を講じているのは581の自治体で、全体のおよそ32%となり、前回、5月時点での初めての調査に比べて、およそ18ポイント高くなりました。
支援物資の調達方法としては防災用の備蓄を活用している自治体が最も多く、独自に予算措置を講じたり企業や住民から寄付を受けたりしている自治体もありました。
また都道府県別でみると、支援策の実施率が最も高かったのが広島の79%で、次いで東京の76%、神奈川の74%などとなりました。
政治は公的問題を扱う。公共性は近代においてコミュニケーションによって形成されるとユルゲン・ハーバーマスは説く。言語化されなければ公的問題として存在しない。貧困以前にこの話題が大っぴらに語られることが少ないことは確かである。女性の社会進出が進んだことから、コミュニケーションが多様化し、パターナリズム的常識が揺らぎ、知らなかった問題が顕在化する。
「隠喩としての病」も話すことによってその問題が解消される。ソンタグは病の決定的治療法の発見に解決を見出しているが、それは違う。隠喩は一見異なっていると思われるものが本質において類似しているとすることだ。コミュニケーションによって共通理解が形成される時、両者が別物と明らかになるなら、隠喩は成立しない。だからこそ、知るためには話す必要がある。
『NHK』は、2021年7月5日 4時15分更新「生理を語る国連のイベント『話すところから始まる』」において、それをテーマにしたイベントについて次のように伝えている。
「生理」など女性のからだに関して公の場で話しにくい話題について議論する国連のイベントが4日都内で開かれました。
このイベントは、UNFPA=国連人口基金などが女性のからだに関して公の場で話しづらいとされる話題について、対話を通じて理解を広めてもらおうと、4日開いたもので、都内の会場にはおよそ200人が集まりました。
この中で、オンラインで参加した生理などをテーマにした作品を発表するアーティストの「スプツニ子!」さんは「目が悪かったり病気になったりしたら手術をするのに、生理や妊娠・出産の痛みは我慢するのが当たり前というのはおかしいと感じる」と問題を提起しました。
またメーキャップ・アーティストで僧侶の西村宏堂さんは女性の生理について知ろうとみずから生理用品を購入して着けた体験を語り、「男性は恥ずかしいと思っても知ろうとすることが大切だ」と話しました。
UNFPA東京事務所の佐藤摩利子所長は「多様性やジェンダー平等は話すところから始まる。さまざまな人たちが意見を出し合うことが大切で、これからも活動を通じて議論を深めていきたい」と話していました。
大手メディアが報道する前にこういう問題に鋭敏に反応し、メッセージを発信している表現者が要る。しかし、記事に文学者の名前はない。もちろん、触れられていないだけで作家もそれに取り組んだり、執筆したりしているかもしれない。かつて文学者はこうした話すきっかけを提供したものである。有吉佐和子は『硬骨の人』(1972)において従来当然視されていた家庭内の高齢者介護を社会的議論にしている。文学者は新たな公的問題の口火を切ることもあったが、近年、そうした社会的感度が弱まっているように思える。
近代の文学者たちはしばしば支配的な価値観や常識を相対化する見方を提示する。それにより見過ごされている問題を発見できる。そうした作家たちによる小説における重要な現代的意義の一つに「権利としての物語」がある。それは、従来そうおった機会がなかった主観による語りである。これは抑圧されてきた主観に限らない。語ることを思いつかなかった主観も含まれる。「権利としての物語」は社会の中の文学という認識から生じる。その権利の行使は社会という共の場において私的であると同時に公的なものとなる。「生理の貧困」はまさにそれである。
ただ、その際、しばしば形式はレディメードを踏襲する。語る主観に新奇ささはあるが、物語の形式は因習的である。この形式はジャンルだけを意味しない。アメリカにおいて小説は長編を指す。他地域で中短篇が主流であったとしても、それは英訳されにくい。しかし、中短篇によってしか語り得ぬ者があっても、その支配的認識にさほどの変化はない。今の「権利としての物語」もそうした異議申し立てを無視しており、それは改善されなければならない。
伝えられる日々のニュースが物語るように、パンデミックは影響の膨大さが人々を圧倒する。この経験はこれまでにない。文学はそれを描く必要があるだろう。パンデミックは風景の変化を通じて既存の諸問題を増幅してあらわにしている。大半は新しいと言うより、目立たず見過ごしてきた問題である。作家に必要なのはそうした情報に圧倒され、無知でいたことを羞恥し、社会の中の文学を念頭に、権利としての物語の執筆に取り組むことだ。SNSの発信だけでなく、作品にそれが具現していなければ、作家である存在意義はない。パンデミックを書くとはそういうことだ。
〈了〉
参照文献
アリストテレス、『詩学』、光文社古典新訳文庫、三浦洋訳、2019年
金原ひとみ、『アンソーシャル・ディスタンス』、新潮社、2021年
アルベール・カミュ、『ペスト』、宮崎嶺雄訳、新潮文庫、1969年
菊池寛、『マスク スペイン風邪をめぐる小説集』、文春文庫、2020年
小松左京、『復活の日』、角川文庫、2018年
スーザン・ソンタグ、『隠喩としての病/エイズとその隠喩』、富山太佳夫訳、2012年、みすず書房
田城孝雄他、『感染症と生体防御』、放送大学教育振興会、2018年
内務省衛生局編、『流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録』、平凡社、2008年
森津太子、『現代社会心理学特論』、放送大学教育振興会、2011年
森毅、『ひとりで渡ればあぶなくない』、ちくま文庫、1993年
「伝染病とマスクの歴史、20世紀満州でのペスト流行で注目」、『AFP』、2020年6月7日9時00分更新
https://www.afpbb.com/articles/-/3284745
「コロナ禍 米女性の5人に1人が生理用品入手に苦労 NGOなど調査」、『NHK』、2021年3月8日 5時03分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210308/k10012902841000.html?fbclid=IwAR3MoqjHd7g0qb78xSm3uOldEANVN5RA-FOEaF59v5_RGFfVE1rkUkHDXrc
斎藤太郎、「新型コロナへの過剰反応をいつまで続けるのか 感染者や死者が少ない日本で弊害のほうが拡大」、『東洋経済オンライン』、2021年4月16日4時30分更新
https://toyokeizai.net/articles/-/422794?page=2
「WHO、変異株にギリシャ文字を使用へ 国名による偏見を回避」、『BBC』、2021年6月1日更新
https://www.bbc.com/japanese/57312112.amp
「WHO、コロナ死者『既に1千万人超えた可能性』」、『日本経済新聞』、2021年6月22日2時34分更新
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR21F6C0R20C21A5000000/
「生理を語る国連のイベント『話すところから始まる』」、『NHK』、2021年7月5日4時15分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210705/k10013119761000.html?fbclid=IwAR1KnAY7kn4Ib69uMcMGIpbGOkEMEhXBl9UzxAeJVs6S3h2ZfdWTdElT4zE
嘉幡久敬、「コロナ禍で自殺者3200人増、今後も増加か 東大試算」、『朝日新聞』、2021年7月22日 13時00分更新
https://www.asahi.com/articles/ASP7P7K7XP7PULBJ009.html
「『生理の貧困』全国の30%余りの自治体で無料配布などの支援策」、『NHK』、2021年8月4日55時42分更新
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210804/k10013179201000.html?fbclid=IwAR3Yuu1Mn_VZdcyFriE7FCfkQBT64XronhxVYK0wRD4AyLI_nbO4j0Zih6U
「首相、コロナの危険度分類引き下げに慎重『対策、十分に必要』」、『毎日新聞』、2021年8月18日00時17分更新
https://mainichi.jp/articles/20210818/k00/00m/010/001000c.amp?fbclid=IwAR0jJ5nmyreYCvNJpM9E6cgbwNq1RADRE1SEQs3aUhlbYTZsHxn0UwrJeq8
厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/index.html