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天罰としての天災(2015)

天罰としての天災
Saven Satow
Jun. 18, 2015

「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」。
『ローマ人への手紙』12:19

 2015年6月7日、石原慎太郎元東京都知事は、突然、「頭が重い」と体調不良を訴えています。緊急搬送されて入院しましたが、異常なしとすぐに退院しています。まるでキツネにつままれたような話です。

 3・11の際、その石原元都知事は「津波は天罰だ」と発言しています。津波は「我欲」に呆ける日本人への天罰だというわけです。未曾有鵜の大災害に対して現職の政治家がこのような言い草はあまりにも不謹慎かつ無神経だと非難の声が寄せられています。

 石原元都知事は過去に何度も舌禍事件を起こしています。それらは、全般的に、生半可な知識に基づく恣意的な意見です。彼が傲慢な自惚れ屋だという印象を与えてくれます。暴言を聞く度に、「何様だ?」と思わずにいられないのです。

 3・11が天罰としての天災でないことは昔ばなしからもわかることです。実は、そういう民話があります。被災地の福島県に伝わる『宝の川』がそれです。しかし、この昔ばなしを知るならば、石原慎太郎元都知事の主張がいかに恣意的であるかがわかります。

 昔々、福島県の西会津の鬼光頭川(きこうずがわ)沿いのある村に、木こりの父娘が住んでいます。娘の名はおゆきといいます。母は5年前に他界しています。

 ある日、おゆきの父が木の下敷きなった仲間を助けようとして亡くなってしまいます。村人は、仲間の救助のために命を落とした父に代わって、幼いおゆきの面倒を必ず見ると葬儀の際に誓います。

 ところが、記憶が風化し、村人は次第におゆきに目をかけなくなります。貧しい村のことですから、自分たちの生活で手いっぱいという事情もあります。おゆきは川でシジミを採って宿場で売り一人で暮らしていきます。

 ある夜、この辺りの村々の世話役の男がおゆきの家を訪ねてきます。おゆきに会津の街で子守りの仕事を紹介すると言います。けれども、おゆきは両親の墓があるこの土地を離れたくないと断ります。すると、世話役はここは元々自分の土地だから10日以内に出て行ってもらうと命じます。実は、世話役の目的は土地開発です。それにはおゆきの家が邪魔なので、小森の件は追い出す口実です。10日経ったら家を取り壊すつもりです。

 なす術もないおゆきは不動明王の祠に毎日お参りし、祈願します。とうとう10日目の期日がやってきます。いつものように、お不動様にお参りをすると、祠の中から声がします。おゆきが顔を上げると、炎を背景に不動明王が現われます。

 不動明王は案ずることなどないと言います。これからも川で採れるものを売るがよいとと語った後、こう断じます。「裁きをつけるは我にあり」。

 おゆきはこの出来事を誰にも話しません。翌朝早くにおゆきは、お不動様の言った通り、シジミを採りに川に行きます。

 朝日が昇る頃、村を突然大きな地震が襲います。山津波が発生、村の家々を押し流し、土砂の下に埋め、世話役は呑まれてしまいます。けれども、おゆきの家一軒だけは山津波の被害に遭いません。

 その後、おゆきが川に行くと、シジミの代わりにきらきらと光る石があるのを見つけます。これを宿場に持って行くと、高値で売れます。おかげでおゆきは裕福になり、そこで後幸せに暮らしていきます。光る石が採れたことからこの川を「宝川《ほうかわ》」と呼ぶようになったそうです。

 これが天罰としての天災を描いた物語です。この不動明王の言動は、宗教に関する体系的な知識をわかっていないと、十分に理解できません。社会的強者が実定法を盾にして弱者を虐げています。それに対して不動明王が裁くのは自分であると天災による天罰を下しています。

 宗教の法は人為的ではありません。世界宗教ないし歴史宗教の場合、それは神仏から人間に与えられたものです。宗教の法は実定法を相対化します。実定法を根拠に、すなわち法に従っていれば、あるいは法に記されていなければ、何をしてもいいことにはなりません。それを超える宗教上の法がその行いを判断するからです。

 世界宗教では、現世と来世の間に審判ないし裁きの場があります。日本仏教は、一般的に、閻魔大王が生きている間の行いを審査死後の行先を極楽か地獄かを裁きます。

 他方、共同体に内在している宗教においてはこの世とあの世は直線的にあるいは連続的につながっています。先住民族の宗教に見られる特徴です。仏教が浸透している日本社会ですが、あの世からこの世にご先祖様が帰ってくるというお盆にこうした世界観が残っています。

 宗教の法で人間を裁けるのは神仏です。人間ではありません。その罰も神仏が決め、下します。人間にはできません。

 実定法を利用して社会的強者が弱者を虐げることは宗教の法では許されません。神仏がそれを裁き、天罰を下さねばなりません。その際に地震が選ばれたのは、悪徳が土地をめぐって行われているからです。人間の法では世話役の土地でしょう。しかし、宗教の法ではそうではありません。そこには不動明王の祠があります。これが不動明王の言動の真意です。

 天罰としての天災は宗教的な体系に則った発想です。3・11が天罰でないことは宗教思想からも説明できます。津波が天罰だなどと言うのは宗教に関する知識が浜繁華だと吐露しているだけです。石原元知事は社会的強者です。実定法を盾に弱者を虐げたことがなかったか胸に手を当てて考えるべきでしょう。

 天災に見舞われると、信心を忘れて我欲に囚われたことへの天罰だと騒ぎ立てる人は昔からいます。災害天啓説の流行は関東大震災の後にも起きています。しかし、それらが恣意的主張であることは明らかでしょう。むしろ、その人がいかに自惚れているかを示しています。人間が誰かに向かって天災を天罰など口にすべきではないのです。
〈了〉

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