松下政経塾連中、あるいは存在の耐えられない古さ(2012)
松下政経塾連中、あるいは存在の耐えられない古さ
Saven Satow
Jul. 10, 2012
「実のない穂は頭を高々と上げる」。
ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク
金曜夜の官邸デモは松下政経塾政治の失敗を告げている。
1990年代前半、松下政経塾連中が日本新党を中心に国政に加わった時、新鮮に映った有権者も少なくなかっただろう。その政治的デオロギーのアナクロはさておき、しがらみのない政治を訴える非世襲議員の姿に期待した有権者も見受けられる。
けれども、90年代後半に入ると、塾連は反時代的存在と化している。阪神・淡路大震災をきっかけに、市民の政治参加の機運が高まる。そうした意識を持った市民の組織化が重要な政治的課題の一つに浮上する。ところが、塾連はこれにまったく寄与しない。
大学の落研の連中をプロの落語家は「天狗連」と揶揄する。松下政経塾出身者も、それに倣い、「塾連」と呼ぶことがふさわしい。
塾連の有望株の一人とされる野田佳彦は毎日のように駅前に立って演説し、これを新たな政治家の姿だと言わんばかりだ。しかし、それは商店街の宣伝スピーカーと同じである。日本のコミュニケーションにおける悪癖としてしばしば挙げられる「一方通行」そのものだ。
政治家は社会の不安や不満、期待、意欲といった漠然とした気分を捉え、市民の声に耳を傾け、それを政治に反映する必要がある。政治家は「話す」前に「聞く」ことが求められる。自分のために政治をするわけではないからだ。新たな政党で活動するのであれば、市民の政治参加への意識を汲み取るべきである。
そういう姿が明らかにしているのは、結局、塾連は自分にしか関心がないということだ。自民党でも構わなかったが、ただ選挙事情のため他党から立候補したにすぎない。当選する目的で、政党を選んでいるだけだ。もちろん、彼らは、票として見ているのであって、市民の政治参加を望んでなどいない。
だから、塾連が民主党の代表選挙に立候補すると、自分の半生を語り出す。社会に関する将来ヴィジョンもろくになく、たんなる「青年の主張」である。通常、一国の大統領や首相になろうとするものが勝負の演説で自分の半生を話すことなどあり得ない。これからその人物がしようとするのは自己実現ではないからだ。
塾連が党代表の時にいわゆる偽メール問題が発覚する。メディア・リテラシーの基本も持っていない未塾さを露呈し、民主党への期待もしぼんでしまう。
紆余曲折を経て、塾連の影の薄かった総選挙の結果、政権交代が実現し、2009年に鳩山由紀夫政権が発足する。この内閣には市民の組織化への意欲が感じられる。湯浅誠年越し派遣村村長を内閣府参与に迎え入れたのはその象徴である。政権交代に伴い、市民の組織化が進むかに見えたが、鳩山政権は翌年には総辞職してしまう。
ただ、その後の菅直人首相の誕生は塾連の登場意義を一気に失わせている。彼は市民運動出身で、自民党にも社会党にも属したことのない非世襲議員である。こういう経歴の首相は1955年以来初めてである。
菅首相の在職中、画期的な光景が見られている。3・11後、福島県の避難所を訪れた際、菅首相はある夫婦の避難者から行動を非難される。彼は傍により、面と向かって自分をなじる市民に直接謝罪している。伊藤博文から鳩山由紀夫に至るまでの歴代総理大臣で、目の前で自分を責めたてる市民にその場で謝った現役首相はいない。憲政史上初めての出来事である。市民がおまかせと諦めで政治を捉えていたときには、こんな光景はあり得ない。また、首相も、上手下手はともかく、市民と対話することの重要性を認識している必要がある。彼は、市民が自分と同じ目の高さを感じ、それに応えた初の首相である。さまざまな見方があるだろうが、これは評価すべきであろう。
日本の民主主義が新たな段階に入った以上、次期首相はこの新しさを踏まえていなければならない。塾連は理念的には出馬資格を失っている。ところが、選ばれたのはその塾連の一人である。おまけに、今回も「青年の主張」を行っている。
塾連首相は90年代後半からの政治潮流をことごとく無視する。市民の組織化に興味も示していない。謝るどころか、テレビ会見で国民を脅す有様だ。その結果、官邸は毎週金曜日に辞任を要求する市民に包囲されるようになってしまう。
政権関係者は大飯原発の再稼働の後には官邸デモが沈静化すると見ている。既成事実を積み上げて泣き寝入りを狙う。これこそ従来の行政の手法である。自分たちが反動政権であることを認めたようなものだ。
過去の亡霊がとりついている政権である。全国各地で従来型の政治家と政治スタイルが蘇り、「ゾンビ政権」と揶揄する声さえある。この総理は野田佳彦首相と名前で呼ぶのに値しない。「現首相」で十分だ。
政策を実施したかどうかが重要であり、新しさなど必要ないと反論するとしたら、塾連は自己否定したことになる。古くていいのなら、世襲の自民党議員で構わないのであって、彼らの登場する意義などないからだ。塾連は、愚かにも、自分のしていることが自己否定だということを理解していない。
政治を後退させるだけの塾連が永田町に引き続き棲息できるのは、公明党と共産党を除く、政党が事実上新人育成システムを持っていないからである。両党の方法論を参考にするのかと思えば、各政党ともそういう動きはない。永田町の古さに助けられていると言える。
現政権を要約するなら、「存在の耐えられない古さ」だろう。ただ古いのではない。存在するのが耐えられないほど古いのだ。塾連はやることなすことが古い。しかも、彼らが永田町に棲息できるのは、環境の古さである。けれども、それは自分たちの登場意義の否定につながる。存在すること自体がパラドックスである。
しかし、そんな政治はたまったものではない。だから、市民は金曜の夜に官邸を包囲し、現首相に辞任を迫っている。
〈了〉