ネットで文字は売れるか(2012)
ネットで文字は売れるか
Saven Satow
Nov. 05, 2012
「商品は、一見したところでは自明で平凡な物のように見える。が、分析してみると、それは、形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さに満ちた極めて奇怪なものであることがわかる」。
カール・マルクス『資本論』
インターネットによる文字配信のビジネス・モデルは、ラジオのそれに近接していく。ラジオ放送はロハで聴ける。短波ともなれば、世界中の放送もリスニング可能である。ラジオ放送の運営は公的資金や寄付、広告収入によって支えられている。インターネットは出自から言って、公共財であり、協力には強い。文字配信も公的利活用では、重大な課題もなく、さらに浸透していくに違いない。問題は既存産業の経済活動への拡張である。有料が難しければ、ネットによる文字の配信もラジオ同様のビジネス・モデルにならざるを得ない。
インターネットは政治・経済・社会を替えつつある。けれども、ネットをめぐる問題は、ならではと言うよりも、それなしでも起きることが増幅されているのが実情である。
「サイバー・カスケード」と呼ばれる現象がネット上で起きている。人々は、インターネットを通じて、ニュースや論点、人物、作品等に関する肯定的・否定的反応を同じくする仲間を発見しやすい。この過程は短時間かつ広範囲の間に行われる。同質の集団は相対的認識を欠き、排他的であるため、その信念が補正されることなく、増強される。極論が集団内でヘゲモニーを握り、場合によっては、他の集団や組織、個人に対して誹謗中傷を繰り返す。彼らの行為により、ネットについての千三つメディアの悪評がさらに増幅される。
これも近代社会に生まれた現象の増幅である。近代では移動や職業選択など各種の自由が認められた反面、コミュニケーションの相手を選ぶことができるため、同じ考え嗜好、傾向で固まるようになる。偏った思考が生じても修正されず、補強されてしまう。生涯を一つの共同体で主に送る時代では、異種年齢の人とコミュニケーションしなければならず、極論は矯正される。
文字にも同様の増幅現象が認められる。
インターネットは二極化されている。サイトもアクセスの閾値を超えれば、PVが雪だるま式に増えていくのに対し、達しないと、未開の秘境のままである。文字配信の集客力はマスメディアに依存している場合が少なくない。有名人に関連するコンテンツや人気作家の新作は、ネットでなくても、収益が見こめる。また、低俗かつ醜悪を通り越して害悪を与える内容も、明治の小新聞から今に至るまで活字媒体が提供し、人々は手に取ってきている。文化にはB級から生まれ、定着したものも少なくない。
対価を支払わずに入手したいと思うのは、何も、文字だけに限ったことではない。Keresi
も、大半の人は開発や創作、表現などには多大なコストがかかり、それを保護するために著作権法があることを知っている。自分が供給側ならそう思うが、需要側に回ると、タダ乗りしたい欲が出てしまうものだ。
てっとり早くネットで一儲けできないかという輩だけなら、こんな状況でも悩ましくない。文字文化・産業の拡充が必要であり、それをネットが後押しできないかとまじめに考えている人たちがああでもないこうでもないと苦心している。
ポップ音楽は、CD販売も言うに及ばず、ネット配信も苦しい状況を迎えている。何しろ、事実上、アイドルの握手券にCDがおまけでついてくるご時世だ。そこでミュージシャンたちはコンサートに活路を見出している。「生の体験」に対価を支払ってもらおうというわけだ。
もっとも、この戦略はネット登場以前からクラシック業界が採用している。クラシックは、テレビでもラジオでも扱うのは主にNHKで、記録媒体の売り上げも期待できない。コンサートが音楽活動の中心であり、その時空間を共有する「生の体験」をファンは求めて会場に足を運ぶ。
苦しいのは「生の体験」を提供するのが難しい分野である。文字もその一つだ。
ビジネス・スタイルをモデルではなく、ケースとして捉える発想の転換が必要だろう。出版産業は従来不況に強いためにこの意識が弱かったが、現代社会は多様化・相対化が進み、実物経済の経営もモデルと言うよりも、ケースへとシフトしている。
衣料品は不況の影響を受けやすい産業である。そこで生き残ってきているユニクロと島村では経営スタイルがまったく違う。商品に関して一例を挙げると、前者は自社開発の300アイを揃えているのに対し、後者は買い取りで40.000アイテムである。
実は、印税制度が生まれた後でも、アレクサンドル・デュマのような筆だけで食べられたのは少数派で、作家は自立した生計を営むことに苦労している。中には、ハイソな家庭なら揃えておくべきホメーロスを英訳し、その収益で家計を安定させていたアレキサンダー・ポープみたいな賢い文学者もいる。作家の生活は、歴史を見ても、モデルではなく、ケースだったというわけだ。
インターネットの強みの一つにマッチングの容易さがある。一つ考えられるのは文字配信を作家への投資とする発想である。通常、ユーザーはある作品を見て、これを購入する対価として料金を支払う。それをこう切り替える。
配信事業者がウェブ上で公開する作品を作家の将来性の情報と見なす。ある一定量の作品を実績として提示する。その作家や作品がベストセラーになるかどうかは問わない。たとえ地味であっても、こういう作家が世の中には必要だ、もしくは自分は応援したいとユーザーが思うことが重要だ。投資者へのインセンティブは支援自体もさることながら、自作の優先的提供はもちろん、さまざまな特典が用意されている。ただし、金銭的見返りはない。ここに「生の体験」がある。
この作家が表現活動を続けるには資金が要るので、ユーザーはそれを投資する。一種の予約だ。コピペでごまかしていたり、投資を持ち逃げしたり、尻すぼみに終わったりする作家もいるだろう。そうした信頼性の判定を行ったり、料金設定をしたり、どの時点で集めた資金を渡したりするのが配信事業者である。作家の不祥事は業者への不信にもつながる。事業者も必死に作家の信頼性を向上させていくようにするだろう。その上で課題になるのが配信事業者の信頼性の確保である。これは、文字配信に限らず、すでにそれが確立しているサービス事業者との協力に求める解決策があり得る。
言うまでもなく、このアイデアもケースだ。モデルではない。「予言はおそらく逆説を含んでいるのだ、とぼくは思っている。予言は当てるためにおこなってはいけない。的中させてはならぬのではないか。現存する世界の可能性を広げるためだけに予言がある。よしんば成り立たなくても、あれこれと考えて、こんな世界もある、あんな世界もあると提示するのが予言の予言たるゆえんだろう」(森毅『天才予言者、モーリーです』)。
〈了〉
参照文献
森毅、『変わらなきゃの話』、ワニ文庫、1996年
「耕論 ネットで文字は売れるか」、『朝日新聞』、2012年11月3日