歴史的人物と歴史小説(2013)
歴史的人物と歴史小説
Saven Satow
Dec. 18, 2013
「本当のリアリティというのは、ある人物を描いたら、あとからそういう人物が排出するというようなのが、本当のリアリティだと思うんだよね」。
黒澤明
歴史的人物には、評価の観点から、三種類がある。それは、歴史的評価がほぼ確定した人物、歴史的評価が未確定の人物、歴史的評価になじまない人物である。
第一のタイプは質量共に研究成果が蓄積されており、評価が決まったと見なせる人物である。新たな研究によって微調整されたり、見方の幅が広がったりする余地はあるものの、根底から評価が覆る可能性は低い。織田信長や徳川家康などがこれに属する。
第二のタイプは蓄積が不十分であり、評価のコアが固まっていない人物である。検証するための史料が不十分だったり、研究が始まったばかりだったりして評価が定まるには成果が不足している。再発見されたり、最近すぎたりする人物がこれに当たる。17世紀の日系オランダ人数学者ペーター・ハルツィンクや小泉純一郎がこうした例である。
第三のタイプは歴史研究のテーマにならないため、評価の対象になり得ない人物である。すべての過去の人が対象になるわけではない。その人物を研究することで歴史を明らかにする。それには、何かをなした、あるいは何かを残した、何を後世に影響を与えたかという要件が必要である。いかに知名度があったとしても、それが神話化された結果では歴史の理解にはつながらない。その典型が坂本竜馬である。
坂本竜馬をテーマにした歴史研究は困難である。彼には歴史に対する具体的な貢献がないからだ。ただ、二つほど考えられる。
一つは坂本竜馬受容の歴史である。それは彼のイメージを社会がどのように受け入れてきたかである。これは竜馬に限らず、新選組でも忠臣蔵でも用いることができる手法だ。
もう一つは甥の坂本直寛との竜馬の関係である。坂本直寛は自由民権運動の活動家であり、後にキリスト教へ入信、北海道に移住している。これは当時の士族の人生行路としてしばしば見られる。いずれにせよ、背景になり得ても、竜馬を研究の焦点に合わせることはできない。
けれども、こういう人物ほど文学の主人公にふさわしい。それは今も昔も変わらない。江戸時代、最も人気があったのは曽我兄弟の仇討ちの曽我五郎である。彼は歴史的評価にまったくなじまない。
先に挙げた二つのタイプは歴史研究の対象に含まれる。今日の歴史研究は考古学によって再構成され、日々新たな成果が生まれている。文献史料の読解も非常に精緻になっている。専門的知識・技術を持たずに、想像力に頼って歴史を描ける時代ではもはやない。
また、歴史小説は、文学ジャンル論では、ロマンスに区分される。これは作者の願望を作品に反映しやすい。登場人物の取り扱い方は、そのため、主観的になる。登場人物を用いて再現するので、内部の視点から歴史的事象を認知する。そこで彼らがいかなる判断・行動をしたのかが描かれる。しかも、それは往々にして歴史を変える。登場人物の性格はそうした結果に関わる象徴として扱われる。主人公は徳にそれが強調されるため、歴史の中にいるはずなのに、それを超えた存在となってしまう。内部からの視点という抒情詩的認識を通じて作品世界に入るので、読者は登場人物に感情移入して味わうことができる。歴史小説の愛読者が固有名詞に詳しく、その性格を語るのはそのためである。
歴史小説の特質上、考証を利用しながら、リアリティを感じさせつつ、想像力を刺激するには、第三のタイプを主人公にするのが適切である。これをよく理解していたのが司馬遼太郎だ。彼が扱う竜馬や秋山兄弟などは歴史的評価になじまない人物である。しかも、概して、特定のイデオロギーに縛られることなく、経済的合理性に基づくプラグマティストだ。
司馬遼太郎の作品は「大河小説(Roman-fleuve: Novel Sequence)」に属する。このジャンルを命名したのはアンドレ・モーロワ(André Maurois)で、それは「教養小説(Bildungsroman: Novel of Education)」の拡張形式である。教養小説は主人公の精神的・社会的な成長や精神形成を描く。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1796年)やゴット・フリート・ケラーの『緑のハインリッヒ』(1953~55年)ガその代表である。
大河小説は、歴史の流れの中で、ある集団におけるさまざまな人間の発展・運命をそれに加味している。筋の進行が大河の流れのようにゆったりしているため、その名称が選ばれている。ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』(1904~12年)やマルタン・デユ・ガールの『チボー家の人々』(1922~40年)がよく知られている。ただし、ドイツでは特に大河小説と扱わず、教養小説として見ている傾向がある。
しかし、欧州の「大河小説」は日本の大河の様子とは合わない。日本の河川は欧米のそれと比べて急勾配で、流れが速い。これは各河川における平常時と洪水時での平均流量の比較から一目瞭然である。ミシシッピ川は3倍、ドナウ川は4倍、テムズ川は8倍である。一方、日本では淀川が30倍、木曽川が60倍、利根川に至っては100倍である。欧米の河川とは比較にならないほど流れが急だ。日本の大河小説も長編であることは同じだが、この河川の流れを反映し、激動期あるいは転換期に際した人々の成長的変化を描くようになっている。
司馬遼太郎も幕末維新期など特に急速な展開の時期を舞台に選ぶことが多い。こうした選択は主人公の適性を成長期の若者に限定する。時代の変化に最も対応できるのは発達している青少年である。しかし、年老いた彼らを続けて描くことはできない。白髪が生える前に作品は幕を閉じる。
ただ、司馬遼太郎の文体は速度が遅く、激動期を描くのに向いてはいない。時代の変化が急速であるのに、文体のスピード感はない。また、旧制高校生の持っていたような古典お素養が認められない。読者は、ゆっくりとした文体であり、さして教養も必要としないので、詠みやすい。それでいて、歴史を知ったと思える。高度経済成長期以降の読者層に合っている。
歴史家は歴史小説に概して好意的ではない。史料検証の粗雑さや先入観に基づく恣意的解釈、時代考証の甘さなどから読むに耐えないともっともな意見を口にする。歴史小説好きのための自己充足的作品ばかりで、専門家が刺激を受けるほどではない。「見てきたのか?」というわけだ。
オーラル・ヒストリー研究で知られる御厨貴東京大学名誉教授は、『転換期の大正』において、原敬を論じる際に、司馬遼太郎の方法論を参照している。たいていの歴史小説家は類型的な書き方にとどまっている。行きづまると題材を突飛にして目先を変える安直なことをすることもしばしばだ。方法論に基づいて書いている作家は決して多くない。そうした少数の一人が司馬遼太郎であり、すでに述べた大河小説の手法である。原敬のように時代と共に出世の階段を駆け上がっていく人物を考察するには、これが有効だというわけだ。
御厨教授は、司馬遼太郎の方法論を山田風太郎のそれと比較して、次のように述べている。
一つは司馬遼太郎の『坂の上の雲』をはじめとする一連の歴史小説に見られるもの。ここでは一人の主人公、あるいはその一人をとりまく複数の主人公が成長していく過程を、明治日本の発展過程と重ねあわせながら叙述していく。言い換えると、彼の大河小説にはさながら伸びゆく明治の青春群像の活写、青年譚の展開を、はっきりくっきり映し出すという趣がある。
これに対して、今一つの山田風太郎の『明治伝奇小説集』に象徴される。『警視庁草子』に始まる一連の開化伝奇シリーズは、ある個性の持ち主が別の個性の持ち主と偶然出会うことから事件が起こる。またそこに別のキャラクターがからむことによって、事件が予想外の方向に転換していく。いわばその出会いのざわめきの中で、物語が紡がれていくことになる。
司馬遼太郎の明治日本は、ひたすら前へ進んでいくと、周囲の明かりが照らし出す中に世界の行く先が浮かび上がってくる。他方山田風太郎の明治日本には、横への思わぬ広がりが示される中で、舞台全体がせり出していく様相が浮き彫りにされる。
これは優れた文芸批評である。司馬遼太郎はもちろん、山田風太郎に関しても本質を言い当てている。前者が歴史変化と人物の成長をシステム=制度構築、後者はネットワーク=プロジェクト形成として捉えている。歴史を場と考え、それが登場人物に相互作用を働きかける。この場がどのようなものであるかが方法論の違いである。作者の歴史認識が構造化したものだ。
ある時代を舞台にするとしよう。そこには多様な諸相がある。作品にするために、その中か一つないしいくつかの層を選ぶ必要がある。それを描くのにふさわしい方法論が求められる。ただし、このアプローチは恣意的な見立てや時代遅れの思いこみ、独善的な思いつきではない。理論的・実証的妥当性が不可欠である。方法論は作品構造として表われ、そこに歴史認識が具現化される。
歴史小説では作品構造が歴史認識である。もちろん、その認識には可能性と限界がある。一つのアプローチだけで歴史を把握することはできない。歴史小説において重要なのは、実は、方法論の創造である。それは歴史研究にも影響を与え、多様な見方を提供し得る。新たな歴史小説はそうして生まれる。
〈了〉
参照文献
天川晃他、『日本政治外交史』、放送大学教育振興会、2007年
目黒公郎、『都市と防災』、放送大学教育振興会、2008年
アンドレ・モロワ、『文学研究』全2巻、片山敏彦訳、新潮社、1951年