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この世の理想─デューイのキーツ読解(3)(1992)

第三章 ネガティヴな能力
 非日常性の唯一の例外は「プラグマティズム」という名称だけである。これは、プラグマティズムか日常言語の使用という側面において、共同体と連続でありつつも不連続であることを意味している。芸術作品に関しても、その用語と同様のことが言える。芸術作品は想像力と情緒を喚起することによって、経験的自然というクラインの壺にわれわれを吸引する。芸術作品は諸関係や参与の他の形式に入りそれを体験する手段である。つまり、芸術とは「この世」を、内部志向的な内部と外部の設定を前提する素朴な理論的明確化をすることなしに、あるがままに体験する手段である。

 「シェークスピアやキーツの哲学」と言い表したことによって、デューイは経験とその再現を表象する美学とそれを拒否する天才の美学とを区別しているにすぎないように見えるが、真に意味するものはそれ程単純ではない。デューイはキーツの最も有名な一八一八年の弟ジョージおよびトーマス・キーツ宛ての書簡を引用している。それによると、キーツは、シェークスピアについて、ずば抜けた「ネガティヴな能力(Negative Capability )」の人と、すなわち「事実や理由を手にしようと努力することにいらだつことなく、不確実、神秘、懐疑の状態でいることが可能である」人と述べている。

 キーツはシェークスピアとこの点で、彼の同時代のコールリッジとを比較し、すなわちコールリッジは詩的洞察が曖昧さに囲まれているとき、コールリッジはそれを知的に正当化できないために、詩的洞察を最終的に手放してしまい、「なまはんかの知識(half-knowledge)」に満足できなかったと記している(13)。「ネガティヴな能力」の持ち主は保守的な予定調和を期待しているわけではないし、「ネガティヴな能力」は静観の態度を保持する能力、また客観性への意志を持つこと、すなわち客観的に見える状態を創出する能力ではない。

 けれども、「ネガティヴな能力」の持ち主は、神秘なるものが非-神秘を超える何ものかを潜在しているのだ、という怪しい主張を唱える素朴な神秘主義者ではない。彼らは既存の外部を内部に倒錯しているにすぎず、外部と内部という二分法そのものは生き残ってしまっている。「ネガティヴな能力」とは外部と内部の間を宙ぶらりんのままいられる能力、明瞭化のもたらす内部指向性や同一化への声を所持することなく、神秘は神秘として、また不確実は不確実として根本的な差異を差異としてあるがままに是認する能力である。それは肯定の哲学、すなわち、否定的側面ですらも肯定的側面として捉え直し、まさにこうでしかありえなかった現実を差し引きなしでそのまま肯定することである。つまり、この「シェークスピアやキーツの哲学」はニーチェ的である。

 ニーチェは、「私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学」を、『権力への意志』の一〇四一において、次のように述べている。「この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する--あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで──、それは永遠の円環運動を欲する、──すなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち生存へとディオニュソス的に立ち向かうということ--このことにあたえた私の定式が運命愛である」、と(14)。

 デューイのこのような現実認識は理想に関する把握へと連なっていく。デューイの視点の中では、理想は現実の外部にア・プリオリな目標として存在することはもはやできない。理想も現実の外部にあるものでもなく、現実の内部に内包されているのである。現実が好ましいものとしてとらえられるようになったとき、ロマン主義的な理想には満足いかないとしても、その反動としての俗物的現実主義に立ち戻ることは避けられねばならない。過度の現実至上主義は、若いときにはねあがったものが年をとって落ち着いてしまうような、現実に対する働きかけを捨て、なすがままになってしまうことだからである。

 デューイは、芸術における現実と理想を、次のように説明している。

 想像力は善の主な道具である。それは、相手についてのある人の考えや処遇は、想像上に相手の立場に自分自身を置くことができるその人の力によっている、という多少の決まり文句である。しかし、想像力の第一義は直接的な個人的諸関係の範囲を遠く超えて広げていくことである。「理想」が因習に従って、または感情的な夢想の名称として使われている場合を除けば、すべての道徳観や人間的誠実さにおける想像の諸要因は想像的である。宗教と芸術の歴史的提携はこの共通の特質にその根源を持っている。それゆえ、芸術は道徳以上に道徳的である。と言うのも、道徳は現状の神聖化や習慣の反映、できあがった秩序の強化であり、またはそうなる傾向にあるものだからである。人類の道徳的預言者たちは、たとえ彼らが自由な韻文においてまたはたとえ話によって話しているにしても、いつも詩人であった。しかしながら、一様に、諸可能性についての彼らのヴィジョンは、すでに存在し、半-政治的な制度に硬化した事実の布告にすぐさまコンバートされてきたのである。思想や欲望を支配しなければならない理想の想像的表示は方針の規則として扱われてきた。芸術は証拠を凌ぐ目的や、硬化した慣習を超越した意味の感覚を生き生きとさせておく手段だったのである(15)。

 ロマン主義においては、理想は現実の陰喩として、理想と現実は別個なものとして理解されていた。だが、ロマン主義は理想によって現実が、逆に、見出だされることを示したのである。デューイの「理想」はロマン主義的な「理想」が現実の中ではなかなか生き延びることができないと知りつつ、「にもかかわらず」それが生き延びられるような可能性を追い求める要素──試練の側面──を含んでいる。旧来理想と対立するものとして見なされていた現実とは、修辞性の欠けた、すなわち諸可能性の欠けた「現状」にすぎない。「現実」はあるがままであり、他方「現状」はなすがままである。

 デューイは「人間は、あらゆる事物が時折そして部分的にしか経験されない諸価値を完成し、維持することを共謀する環境の観念を正直に措いて、どのような理想を抱き得るのだろうか」(16)と言っている。デューイの理想は現実の提喩、すなわち現実という全体を諸可能性として構成する部分である。確かに、時代において理想は異なったものとして把握されていたが、その機能は必ずしも隔たっていたわけではない。実祭は、芸術作品のつくり手の意図に反して、そこに描き出された理想は現実に対するものとしては存立していない。

 デューイは「芸術家の意図」の伝達だけが芸術の機能ではなく、むしろそれを裏切って、芸術はそれ以上のことを表現するのであり、「芸術作品は、経験のコミュニティーを制限する深淵や壁の満ち溢れた世界に起こることができる、人間と人間の間の完全で妨げられることのないコミュニケーションの唯一の媒介である」と主張している(17)。それゆえ、現実なるものは、逆に、理想の換喩である。

 理想は、想像力と手を切ったとき、現状の強化にも強く機能することがある。それはあらゆる可能性が尽くされないままに肯定されてしまったときに起こる。想像力という道具を屈指して、あらゆる可能性を出し尽くさなければ、現実を肯定することはできない。それゆえ、芸術は想像力と不可分であり、従ってあらゆる可能性は芸術を通じて現れてくる。芸術の示す理想は現状を追認するだけの受動的なものではなく、能動的な力を生み出していくためにうちたてられる。

 しかし、現にある現実をよく知っていなければ、いかに想像力を用いたとしても、浮かんできたものは理想にはならず、空想にとどまってしまう。キーツの真と美の同一性を「知る」ということは、言うまでもなく、この意味における理想であり、「この世」の理想は、「善悪の知識」を知ることによって、すなわち現実を知ることによって達成される。

 デューイは「芸術は比類のない教育機関」であるが、こうした芸術と教育や学習と結びつけるような主張は嫌悪されるだろうと述べている。このような反感は、デューイによると、「想像力を除外する文字通りの方法や、人間の欲望や情緒に触れることのないそれによって続けられている教育に対する事実上の非難である」(18)。つまり、教育学的な理想と現実の問題は、「証拠を凌ぐ目的や、硬化した慣習を超越した意味」を「生き生きとさせておく手段」である芸術をその教育的意義に関してもっと積極的に評価することによって、デューイにおいては調停される。

終章
 デューイのキーツ読解を考察することの教育学的意義は少なくない。理想と現実のディレンマの融合が芸術のレヴェルでは達成されているとしても、それがいかにして可能であるのかという問いは、逆説的であるが、理論的になされなければならない。デューイの困難はそこから始まっている。デューイはロマン主義のキーツの詩を解釈することによって、どうしたらよいのかというその作業の取っ掛かりを受け継いでいる。と言うのも、ロマン主義こそ理想というものに最も立ち向かった運動の一つだからである。ロマン主義は理想の目的を社会や人類、自然、歴史、宇宙といった「いまここ」ではない「いつかどこか」に置いている。

 つまり、素朴なロマン主義の理想は現実否認と本来的なるものへの憧憬に基づいている。一方、理想が現実の否定としてとらえられるのではなく、デューイは理想の出発点を、「この世」に、すなわちこうでしかありえなかったものとして現実をまず認めることに置いている。デューイは素朴なロマン主義がぶつかり行きづまった現実のありようの是認を理想への入り口に転換しているが、これもロマン主義の作品の読解なくしてはありえない。

 デューイは経験論者である。理想は経験を共通基盤石射共有される。共有されない理想独善的で、グロテスクである。それは現実に悲惨な状況をしばしばもたらす。けれども、現実をより良くしようとすれば、理想の参照が必要である。理想と現実は相互に反省的、すなわち再帰的関係にある。

 デューイの理想認識からわれわれは理想と現実の調停の困難さを了解できる。と言うのは、デューイの説いたものがいままさに理想と現実のディレンマをめぐって論議されているからである。見るべきなのは、むしろデューイがその困難さにいかにして立ち向かったのかを知ることである。

 理想と現実の隔たりは現実から生ずるのか、理想から生ずるのか、それとも理想と現実が先天的に持っていたことなのかという教育学的なアポリアを、たとえ解きえないとしても、「この世にて知るのはこれだけ、知る必要なのもこれだけ」のものとして認識していくことは決して無益なことではない。むしろ、「にもかかわらず」その問いを自らにひきつけていくことが、教育者や教育学者にとって、大切である。それこそがデューイの言う「善悪の知識」に基づいた「この世」の「理想」にほかならない。
〈了〉
 註
(1) “Art as Experience”, p. 347.
(2) ibld., p. 32. (キーツの詩や書簡からの引用に際しては、”The Norton Anthology of English Literature”を参照すると、デューイの引用といくつかの異なった部分が存在していたが、本論の目的上、デューイの引用に従った)
(3) “Art as Experience”, p.20.
(4) ibld., p. 32.
(5) ibld.
(6) ibld., p. 33.
(7) ibld., pp. 37-38.
(8) ibld., p. 34.
(9) de Man, “The Rhetoric of Romanticism”. p. 239.
(10) Wordsworth, ‘The Prelude’, in “The Norton Anthology of English Literature”,pp. 229-311.
(11) “Art as Experience”, p.333.
(12) ibld., p. 106.
(13) ibld., p. 33.
(14) ニーチェ、『権力への意志』、四四四-四四五頁
(15) “Art as Experience”, p. 348.
(16) ibld., p. 185.
(17) ibld., p. 105.
(18) ibld., p. 347.

参考文献
(1) Dewey, John. “Art as Experience”. Capricorn Books, 1958(1934).
(2) de Man, Paul. “The Rhetoric of Romanticism”. Columbia University Press, 1984.
(3) “The Norton Anthology of English Literature Fifth Edition volume 2”.Abrams, M. H. Ed. Norton & Company, 1986.
(4) ニーチェ、『ニーチェ全集』第十二巻、「権力への意志」下、原佑訳、理想社、一九六二年

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