アントニオ・グラムシの「有機的知識人」(2009)
アントニオ・グラムシの「有機的知識人」
Saven Satow
May, 01, 2009
「富は向こうからやってくることがあるが、知恵はこちらから近づかねばならぬ」。
エドワード・ヤング『夜想詩』
世界的な販売不振に苦しむ自動車産業において、今、最も注目されているのは「フィアット(FIAT)」だろう。2009年4月30日に米連邦破産法第11条を申請し、事実上経営破綻したクライスラーの債権には、フィアットとの連携が不可欠と考えられている。また、オペルを始めとするGMの欧州部門の買収にも同社は意欲を見せている。フィアットは自動車産業の世界的な再編の動きの中心にいると言ってよい。
1899年に創業された「Fabbrica Italiana Automobili Torino(トリノ・イタリア自動車製造所)」は、1906年、その頭文字をとった現在の社名に変更している。自動車だけでなく、建設・農業用機械や鉄道車両、航空機などの製造の他、通信や出版といった多彩な事業を展開する複合企業である。
フィアットは、1910年、最初の海外工場をアメリカに建設する。だが、1908年に、フォード・モーターズがT型フォードをすでに発売している。このシンプルなデザインの4気筒車は、最高時速72kmで、ボディは頑丈、価格も驚きの850ドル、初年度だけで販売台数は1万を超えている。フィアットなど北米市場から見向きも去れない。それどころか、10年代にモデルTはヨーロッパにも輸出され始め、20年代にはフォードの現地子会社が設立されている。フィアットは、その後も、何度か北米進出を狙うものの、ことごとく失敗に終わる。アメリカで成功するのはまさに同社にとって長年に亘る悲願である。
しかし、各種の数字を見る限り、現在のフィアットは必ずしも優良企業ではない。2008年の新車販売台数は224万台で、世界の自動車メーカーのランキング10位にすぎない。トップのトヨタ自動車のそれが897万台であり、わずか4分の1である。しかも、同社の純債務は推定65億ユーロ(約9300億円)に上り、米格付け会社スタンダード・アンド・プアーズは、09年3月、社債格付けを投資不適格に引き下げている。80年代に北米での販売戦略を失敗した同社にとって、汚名返上の絶好のチャンスであるとしても、楽観的な話ではない。
こういった状況について、1920年9月にフィアットなどで工場占拠闘争を指導したイタリアの思想家アントニオ・グラムシがどう思うかを想像するのは興味深いことである。彼は、前年、『オルディネ・ヌオーヴォ』紙を創刊し、工場評議会運動を推進している。この直接行動は成功しなかったものの、それを通じて近代産業の最先端と接触したことは彼の理論の独自性を彩る要因の一つになっている。
ユーロ・コミュニズムを代表するグラムシは、1937年の没後、評価が上がりさえすれ、下がったことのない数少ないマルクス主義者である。ベニト・ムッソリーニのファシスト政権によって1926年から死の直前まで投獄されていたため、まとまった著作を発表する機会はなかったが、獄中で29冊にも及ぶノートに思索を記している。死後、家族や友人たちの努力によって、それが公にされる。その友人の中に、J・M・ケインズの盟友ピエロ・ズラッファがいる。
当時支配的だったレーニン主義が上からのマルクス主義だったとすれば、グラムシ主義は下からのマルクス主義だと言える。そのユニークな思想の影響は多岐に亘る。非マルクス主義社であるジョゼフ・ナイのソフト・パワー論にもそれを見ることができる。
このイタリア共産党の創立メンバーは、同時代の欧州のマルクス主義者の中で自動車産業に関して最も鋭い考察をしている。この産業には20世紀の資本主義、すなわちアメリカが先導する資本主義が体現されているが、彼はそれを鋭敏に認識し、そこから進行しつつある社会の変化に対応した理論を提唱している。
知識人論という一見したところでは、自動車産業からは遠いと思われるトピックにもそれが見られる。このフ逮捕特権を無視された元国会議員は、何度か中断しながら、「知識人とは何か」を問い続けている。ただ、長期に亘っているため、若干錯綜している。興味深いことに、その中に「資本主義的企業家」を参考に検討しているテキストがある。
グラムシは常々、知識人を二つに大別している。近代以前から存続してきたタイプを「伝統的知識人」、近代化に伴って登場したのを「有機的知識人」と呼んでいる。後者は、1932年に執筆された『知識人の形成』と題されるテキストでは、明らかにヘンリー・フォードを思い起こさせる。
ヘンリー・フォードは、1913年、労働者が分担して流れ作業をする動力付きのコンベアーによる大量生産システムを工場に導入する。この技術革新は生産性を飛躍的に向上させ、価格を引き下げ、自動車の大衆化を促進させる。16年にはT型車の価格が約350ドルにまで下がっている。これなら、平均的な労働者でも購入できる。20年代初めにはアメリカの自動車の半数以上をT型フォードが占めるようになっている。この大量生産=大量消費のアメリカ型資本主義を「フォーディズム」と呼ばれるが、それを命名したのはグラムシである。
1936年に執筆された『南部問題に関する若干の主題』によれば、いかなる国でも「知識人」は資本主義の発展によって変化している。「旧いタイプの知識人は、主として農民と職人からなる社会を組織する要素」であり、「支配階級が国家を組織し、商業を組織するために」、彼らを育てている。この知識人たちは民衆と行政との間の「媒介的機能」を果たす。彼らは、今日でも、伝統的な生活様式が根強い農村や漁村などの地方では有効である。
グラムシは、『知識人の形成』において、この旧いタイプの知識人を「伝統的知識人」と次のように述べている。
この伝統的知識人のもっとも典型的なカテゴリーは聖職者である。彼らは、長いあいだ多くの重要な役務、すなわち学校・教育・道徳・正義・慈善・福祉等々などとともに、宗教的イデオロギー、つまりその時代の哲学と科学を独占してきた。……これらのさまざまなカテゴリーの伝統的知識人は、「団体精神」をもっていて、自分たちのとぎれることのない歴史的連続性とその「資質」を感じとっているので、自分自身を支配的社会集団から自立、独立した存在として位置づけている。こうした自己の位置づけは。イデオロギーや政治の領域において。広範囲な影響をおよぼすような結果をもたらさずにはおかない。……
反面、この伝統的知識人が権力に反旗を翻せば、体制はひっくり返ってしまう。近代のイデオロギーの正当性を民衆に説いたヴォルテールやベンジャミン・フランクリン、トマス・ジェファーソン、アベ・シェイエスなどの啓蒙主義者たちはこの伝統的知識人のカテゴリーに入る。
一方、工業の発達は、『南部問題に関する若干の主題』によれば、「技術の組織者、応用科学の専門家」を生み出し、彼らが「新しいタイプの知識人」である。「秩序と知的規律」を持ち、「経済力が国民活動の大部分を資本主義的方向に吸収するようになった社会」で不可欠の地位を獲得する。
グラムシは、『知識人の形成』において、この新しいタイプの知識人を「有機的知識人」だと次のように説明している。
それぞれの社会集団は、経済的生産会で不可欠な機能を持った基盤の上に生まれ、自らとともに一つもしくはそれ以上の知識人を有機的につくりだす。そしてこの知識人そうは、経済的領域だけでなく、社会的・政治敵領域においても、その社会集団に同質性と固有な役割についての意識を付与する。たとえば、資本主義的企業家は自分自身とともに。工業技術者・政治経済学者・新しい文化と法律の組織者等々をつくりだす。企業家は。知的なある特定の指導と技術の能力(すなわち知的な)によって、すでに特徴づけられた高度な社会的洗練を代表している、といった点に注目しなければならない……。(彼らは、大衆の組織者でなければならず、自己の企業への投資者や彼の商品の購入等々の「信頼」を組織するものでなければならない)。……少なくとも企業家のなかのエリートは、自己の階級の拡大にもっとも有利な条件をつくりだす必要から、国家機構にいたる複雑な役務機構総体としての社会全般の組織的能力をもたなければならないし、また少なくとも、経営外の一般的諸関係をウォ組織できる「スヤッフ」(専門職員)を選抜する能力をもっていなければならない。……[こうした]「有機的」知識人のほとんどは、その階級が生み出した新しい型の社会の本来的活動の一部の「専門家」と見ることができる。……
グラムシは一般に考えられている知識人概念を拡張している。新しいタイプの知識人は組織や制度をつくり、有機的な関係性によって社会に変化をもたらす。伝統的知識人はお互いをつなぐネットワークがあったものの、あくまでも個人としてイデオロギーを訴え、公共性・公益性に寄与してきたが、有機的知識人は組織や制度を創出し、それに貢献する。「組織的知識人」と見なすこともできよう。
ここで言及されている「企業家」の典型がヘンリー・フォードであろう。戦後日本で言うと、本田宗一郎や手塚治虫がこの有機的知識人に当たる。彼らを「知識人」と把握する考察はほとんど見かけないが、丸山眞男よりも社会を変えたことは確かである。
ジョン・キャロルは、1978年に発表した『知識人にもかかわらず(In Spite Of Intellectuals)』において、知識人を七つに類型している。第一の類型は「マンダリン(Mandarin)」、すなわち「官僚」である。これは中国の宮廷官僚に由来し、権力者に最も近い文官であり、真理の探求よりも、法や儀礼の遵守を尊ぶ。次に、「技師 (Engineer)」が挙げられる。彼らはニコロ・マキャベリやウラジーミル・レーニンのような実務に能力を発揮する。第三の「チェス・プレーヤー(Chess Player)」は、ヨハン・フォン・ノイマンの如く、形式に執着し、混沌からある目的を引き出すために、知的活動に従事する。カール・マルクスに代表される「キリアスト(Chiliast)」、すなわち「千年至福説信奉者」は来るべきユートピアを描き、社会変革の展望を語る。ジークムント・フロイトのように、第五の「シャーマン(Shaman)」は心身の治療から始まって、シャーマン的技術を使い、社会問題に発言する。第六の「ギャラハッド(Galahad)」はアーサー王伝説の中で、騎士ランスロットの息子であり、聖杯を見つける円卓の騎士現代の聖杯を捜し求めるマルティン・ハイデガーが典型である。最後に、すべての権威を破壊する懐疑論者としての「道化(Fool)」であるが、フリードリヒ・ニーチェが最も体現している。
グラムシの「有機的知識人」はこの七つのカテゴリーに入らない。それは「アントプレナー(Entrepreneur)」、すなわち「起業家」と呼ぶべきだろう。
グラムシは、資本家階級にはヘンリー・フォードのような有機的知識人がいるのに、労働者階級にはそれが見当たらないことを問題視する。労働者階級が社会の支配階級となるには、物理的暴力に依存することなく、合意と指導によって他の階級に精神的な優位性を示さなければならない。それには、これまでの伝統的知識人を獲得するだけでなく、自らの中から有機的知識人を育てる必要がある。しかし、彼の遺した獄中でのノートを読む限り、そうした人物が出現したと実感することはなかったようである。
けれども、グラムシの提唱が夢想ではなく、先見的なものであったことが明らかとなっている。彼の労働者階級の有機的知識人が出現している。それは、グラミン銀行を創設したムハマド・ユヌスのような「社会的起業家(Social Entrepreneur)」である。こうした「ソーシャル・アントプレナー」が世界中で活動を徐々に拡大しつつある。
啓蒙主義者などの伝統的知識人は人々を目覚めさせる「アウェイクなー(Awakener)」、すなわち「開明者」である。一方、有機的知識人は人々に社会的力、言い換えると、経済的・精神的に自立するための制度や組織を立ち上げる「ウェルディッガー (Well-digger)」、すなわち「井戸掘り人」である。彼らはシステムをコーディネートし、社会的変化をプロデュースする。伝統的知識人から有機的知識人への発展は、その役割を人々への「エンライトメント(Enlightenment)」より「エンパワーメント(Empowerment)」へシフトしている。
渡邊奈々は社会起業家を「チェンジメーカー」と呼んでいるが、これは適切ではない。この名称は近代革命のイデオロギーを提供して、変化をつくり出した「開明者」、の方にふさわしい。むしろ、「チェンジ・プロデューサー」と名付けるべきだろう。社会を変えるのは、あくまでも民衆自身である。
「現在、われわれが関心を抱いているのは、個々人としての知識人だけではなく、集団としての知識人である」(『南部問題に関する若干の主題』)。有機的知識人は自ずと生まれてくるのではなく、組織的に育成していかなければならない。自然発生的な連帯は瞬間的な破壊力は強いが、衝動的で、概して持続しない。組織には組織で対抗するほかない。「組織対個人」という問題設定は、「改革派」首長が示した通り、暴君による恣意的支配を招く。新たな有機的知識人を生み出す制度や組織を設立することも、有機的知識人の役割である。けれども、それは、松下政経塾のような次代を担う政治・経済のリーダーを育てることではない。「すべての人々は知識人であるということができるだろう。しかし、すべての人々が、社会において知識人の役割を果たすわけではない」(『知識人の形成』)。「エンパワーメント」にとり組む「ウェルディッガー」を促進させることである。アショカ財団はフェロー制によって世界各地のソーシャル・アントプレナーを支援している。グラム氏の理想が現実化しつつある。”Pessimismo dell’intelligenza, ottimismo della volontà”(Antonio Gramsci).
〈了〉
参考文献
片桐薫編、『グラムシ・セレクション』、平凡社ライブラリー、2001年
桜井哲夫、『社会主義の終焉─マルクス主義と現代』、講談社学術文庫、1997年
渡邊奈々、『チェンジメーカー~社会起業家が世の中を変える』、日経NP社、2005年
DVD『エンカルタ総合大百科2008』、マイクロソフト社、2008年
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