安保法案と人肉食(2015)
安保法案と人肉食
Saven Satow
Sep. 20, 2015
“Wer nicht verzweifeln kann,der muss nich leben. Wie es auch sei,das Leben,es ist gut”.
Johann Wolfgang von Goethe
安保法案が参院で可決された2015年9月19日、午後1時~午後2時に『こころの時代~宗教・人生~ シリーズ 私の戦後70年「こころの壁を超える」』がNHKEテレで放映される。出演は文化人類学者の加藤九祚国立民族学博物館名誉教授、聞き手は三宅民夫アナウンサーが担当している。なお、これは同月13日の番組の再放送である。
加藤名誉教授はウズベキスタンの仏教遺跡発掘などシルクロード研究で知られる。彼がそこに惹かれた理由は現代史に翻弄された自らの生涯にある。人類の歴史は戦争だけではない。国歌や民族、心の壁を越えようとする東西交流がある。それは現在にも生きるものだ。
加藤名誉教授は1922年生まれの93歳である。10歳まで朝鮮半島で育ち、その後、日本で働く兄を頼って山口県に移住する。マンガ家の水木しげると同い年であり、彼同様、日本軍の兵士として戦争を体験している。
1931年9月18日、満州事変が勃発、以後、日本は15年戦争に突入する。リルケやゲーテを愛読する加藤青年は、上智大学予科に入学したものの、学徒出陣により1944年に応召、満洲へ出征する。1945年の敗戦に際して、ソ連軍の捕虜となる。得意のドイツ語でソ連兵に話しかけ、シベリアに送られると知る。
加藤青年はシベリアで4年8ヶ月抑留されることになる。彼は、収容所で、人間の本性とは何かを突きつけられる事件に遭遇してしまう。
ある時、三人が収容所から脱走する。ソ連兵がすぐに捕えるが、二人だけで、一人はすでに死んでいる。二人が脱走直後に彼を殺して食べていたと判明する。この二人は彼を食料にするために計画的に誘ったというわけだ。
この事件に直面してからの二、三日、眠れなかったと加藤名誉教授は回想する。犠牲者は顔見知りで、絵が好きだということも知っている。
人間の本性とは何かを考えさせられる事件だ。戦争や飢餓は人間を変える。けれども、自分は食べられる側になるかもしれないが、絶対に食べる側にならない。なぜなら、同じ状況にいたからだ。同じ状況に置かれても、仲間をだまして食料にする人もいれば、しない人もいる。いかなる状況であっても、一線を絶対に越えない人はいる。そう確信したと加藤名誉教授は告げる。
日本兵が空腹に耐えかねて人肉食をしたという記録はある。大岡昇平の『野火』にも言及が見られる。ただ、それらはたいてい戦場で起きている。捕虜収容所での事件は衝撃的である。シベリア抑留は人間の醜い面が顕在化したとされ、そこでの体験に関して口を閉ざす帰還兵も多い。プロ野球の偉大な水原茂監督もその一人である。
なお、かつていくつかの少数民族の間で行われていた人肉食は葬儀の一環である。葬送儀礼として近親者の遺体を食べる。決して空腹を満たすための食事ではない。
ところで、安保法案の議論や採決をめぐり、賛成派の政治家やメディアは軽々しく粗雑な物言いやおごり高ぶった言動を始め醜い姿を露わにしている。人が変わってしまったのかと思わせる人物も少なくない。
そういった醜悪な光景の中で安保法案が参院で可決する。ある状況に置かれると、仲間をだまして殺して食料にする人もいれば、絶対にしない人もいる。そんな人間の本性とは何かを戦争体験から語る元シベリア抑留兵の姿が映し出される。どちらも同じ2015年9月19日、すなわち満州事変から84年目の翌日の出来事である。
〈了〉