北緯35度42分─ヘンリー・ミラーの『北回帰線』(11)(2007)
11 小説ではない「小説」
『北回帰線』を筆頭に、ヘンリー・ミラーの作品は、はっきりとした筋がないため、小説ではないとしばしば批難されている。
語り手自身も、『北回帰線』を小説ではないと次のように述べている。
ではこれは何だ? これは小説ではない。これは罵倒であり、讒謗であり、人格の棄損だ。言葉の普通の意味で、これは小説ではない。そうだ、これは引きのばされた侮辱、「芸術」の面に吐きかけた唾のかたまり、神、人間、運命、時間、愛、美…なんでもいい、とにかくそういったものを蹴とばし拒絶することだ。俺は手前らのために歌おうとしている。すこしは調子が外れるかもしれねえが、とにかく歌うつもりだ。手前らが泣きごとを言っているひまに、俺は歌う。手前らの汚らしい死骸の上で踊ってやる。
歌うからには、まず口を開かなけれならぬ。一対の肺と、いくらかの音楽の知識がなければならぬ。かならずしもアコーディオンやギターでなくてもいい。大切なのは歌いたい欲求だ。そうすると、それが歌だ。俺は歌っている。
俺はお前に向って歌っているんだ、タニア、お前に向って。できることなら、もうすこし上手に、もうすこしうるわしい調子で歌いたいのだが、それだと、お前はきっと俺の歌を聞いてくれる気にならないだろう。お前は他の奴らの歌うのを聞いた。だが興冷めしてしまった。奴らは、あまりにみごとに歌いすぎたか、みごとさが足りなかったか、そのどちらかだ。
その『北回帰線』のプロットは次の通り。作家志望の「俺」はフランスに来て3年になる。職も家もないけれども、座談の才能を生かし、友人たちのアパートを転々としながら、彼らにワインと金、女をねだったり、くすねたりしている。ニューヨークにいる妻モーナから当初は送金もあったが、今では手紙さえ途絶え、俺は彼女から見捨てられてしまったと悲嘆にくれている。しかし、ある日、突然、もうなにも頼りにせず、湖に身を任せて動物のように生きようと決意し、だれにも希望がないからこそ、パリの生活は楽しいのだと悟る。ところが、ディジョンの高校で英語教師として過ごした一冬は惨めなもので、新聞社の編集部に空きができたと知るや、無断でパリへ逃げてしまう。ノイローゼに陥った友人のフィルモアを言いくるめて、無理やりアメリカに帰国させ、まんまと2800フランをせしめる。俺はそれをポケットに入れ、セーヌ川のほとりでその流れを眺め、もうニューヨークには戻らないと思う。
しかし、『北回帰線』は小説と考えるべきである。筋は大切であるとしても、小説は描写である。演劇や映画にも筋はある。小説固有の点となると、散文による固有性への具体的な描写である。後藤明生のように、描写をしないという方法もあるが、それ自体小説が描写だということを意識している証拠だ。
小栗康平は、『映画を見る眼』において、小説の言葉を固有さの描写だと次のように述べている。
私たちは小説を読んで物語の面白さ、物語れることのよろこびを知っています。もちろん小説のよろこびを一様に物語という枠でくくることは出来ませんが、詩の言葉と違って小説のそれは、描写し、叙述することで、概念を具体まで導きます。花、という概念から、私の家の庭の、少し斜面になっているところに、一本だけ顔を出した福寿草の花が、昨日、などと具体に向かうとき、私たちはすでにそこで、物語られていることを受けとめ始めています。
言葉は物語を作り出す、といったら間違いでしょうか。小説に限ったことではないのかもしれませんが、私たちは言葉という抽象が辿る「道筋」を、物語として解釈しているといえる気がしないでもありません。
小説においては、描写それ自身が物語を語り出す。描写は固有さを書き表わすことであり、その固有性が描写の具体性につながる。描写の傾向がその作家の文体となる。描写は認知に基づき、それはナラティヴや登場人物の言動に表象される。
人が服を選ぶとき、まず場面、次に着衣者の特性、アクセサリー、形・色・生地という優先順位に従っている。同様に、言語表現において認知には優先順位がある。しかし、場面に応じて言葉遣いを変えることはあるとしても、これは社会性を優先させる服飾とはいささか異なっているため、思いこみにとらわれやすい。日本語の場合、一人称、二人称、三人称、生物、もの、ことという順序で主語になりやすい。一方で、どの言語でも違いがない優先順位もある。「部屋に入ると、スチール製の机の上の『北回帰線』があった」と言うが、「部屋に入ると、『北回帰線』の下にスチール製の机があった」とは言わない。けれども、文法上誤っているわけでもない。認知心理学の用語を用いるなら、この場合、『北回帰線』が「図」であり、机は「地」である。
しかし、人は個人的経験・関心・資質、職業上身にいた性向によって、この認知の優先順位が入れ替わる場合がある。組織を描くときに、一人称単数ではなく、一人称複数が優先的にることくらいは直観主義的に理解できよう。
「図」と「地」が逆に認知されてしまうことがある。机に人並みならぬ個人的な関心を持っていたり、机を製造している企業の開発担当だったりすれば、机こそ「地」になるだろう。どんな領域にも特有のリテラシーとコミュニケーションがあり、それに基づいて認知の優先順位が決まる。個人的な傾向の描写はできていても、社会的認知の志向ができていない作家は、もちろん非常に丹念にその点を描写する表現者もいるけれども、意外と少なくない。本来、そうした固有性への認識は、小説を書く際に必須の最低条件である。それを指摘し、問題視できないとすれば、その読み手は社会性が欠けていると言われても仕方がない。「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識 を規定する」(カール・マルクス『経済学批判』)。
同じ対象であっても、扱う領域によって、アプローチやウェートが異なることはアカデミズムに携わるものなら、容易に理解できるだろう。大衆社会における行動様式を研究するとしても、社会学、文化人類学、政治学、社会心理学、行動経済学などでそれぞれ違う。リテラシーも認知の優先順位も異なっていることは、研究者なら承知していることだろう。また、同じ化粧品会社のサラリーマンやOLだって、開発や営業、経理、広報でそれぞれものの見方が違う。さらに、警視庁の捜査一課と二課、三課、四課が同じ手法や認識だったら、それこそ分ける必要などない。けれども、ろくに書き分けのできていない文学作品がまかり通ってしまっている。ミリタリー・マニアは戦略について論じるが、実際の参謀は輸送についてまず考えると言われるが、読者を含め文学をめぐる現状は、残念ながら、この前者の段階にとどまっていると言わざるをえない。
ドリフのコントには、ベルトルト・ブレヒトの言う「社会的動作」が思考を規定している人物がしばしば登場する。時刻表よろしく帰宅や食事など一切のことを定刻通りこなそうとし、夫婦の夜の営みでさえ指差し確認してしまう駅員。家を訪れると何段の祭壇がいいか考え始め、人が横になっていると測って棺桶の長さを調べてしまう葬儀屋。
確かに、これはテレビのコントの話であるが、文学作品において自分の思いを優先するあまり、「社会的動作」に意識を向けていない作家ががっかりさせられるほど多い。役者が役作りを工夫するが、それはエージェントや捜査官においてより体系的に行われている。麻薬や盗難美術品をめぐる囮捜査・潜入捜査にはある種の人間になりきることが欠かせないし、各国の当局が容疑者のプロファイリングをしている。映画の製作にはダイアローグとストーリーなどそれぞれに担当がいて、さらに細分化している。キャリー・フィッシャーは、メリル・ストリープやウーピー・ゴールドバーグといった女優が演じる女性のセリフをチェックしている。女性の言葉は女性にネイティヴ・チェックというわけだ。社会的動作は、ある意味、ベイズの定理の応用例だとも言える。作家にも、まったくしていないとは思わないが、こういった姿勢や努力がより必要だ。2007年、「元」とつく書き手によるその経験や認知を回想した種類の本がよく読まれたのも、そうした知的貧困さが一因だろう。
表現に伴うもっと基本的な注意さえ払っていない場合もある。若桑みどりは、『イメージの歴史』において、日本の公共彫刻にはイメージの意味をろくに調べず、思いつきや思い込みでつくられたものが少なくないと批判している。本来、イメージは、ギリシア十字架が正教会を指すように、普遍的で、一義的な意味を象徴している。そのイメージが何を意味しているのかを集めた事典も刊行されている。イメージは、元々は他とそれを区別するために選ばれたけれども、次第に、アイデンティティを指し示すようになる。表現行為をする際には、当然、こうした事典を調べ、イメージのリテラシーに従っていなければならない。
こういった指摘は一見些細なことへの揚げ足とりと思うかもしれない。しかし、そうではない。そこに社会的他者を軽視している現われだからだ。かりに日本を舞台に、2007年12月19日の設定の作品があるとして、そこで葬式を描いたとしたら、その作者は思いつきのみで書いたと見てまず間違いない。この日に葬儀はありえない。暦を見てみろ。友引だ。葬儀屋も焼き場も休みだ。葬儀屋は彼ら独自の暦に従って生きているのであり、そこから世界を認知している。人は結婚式を挙げないですませられるとしても、葬式をしないわけにはいかない。こういう社会的な他者のものの見方は新鮮だ。そういうのを俺は読みたい。作家にとって、登場人物は他者であり、その他者のものの見方を通じて生きてみることで作品の深みや厚みにつながる。作品に対して作者は神でも、独裁者でもない。彼らに自由を認めるとき、作者も自分の思いこみから自由になれる。それは、日本語教師が日本語を外国語として捉えているように、自分を他者として考えることである。「自分の思いこみから自由になること。これが自由にとって、なによりも難しいことなのだけれど」(森毅『地図にない未来』)。
遊軍とは、各支局が相互のあいだで一日か半日だけ融通しあう配達人のことである。一〇一もある各支局のどの一つも、十分な人員をかかえていなかった。したがって、俺はその間隙を埋めるために躍起となって人を雇い入れ、一方ハイミーは、遊軍の駒をチェスのように動かしていなければならなかったのだ。おそらく配達人要員のうちで固定しているのは2割くらいなもので、あとはみな浮草であった。なかには、一時間働いただけで仕事に見切りをつけ、電報の束を屑箱やどぶに捨てて、やめてしまうものもいた。しかも彼らは、やめるとすぐ給料を払ってくれと要求するのである。彼らは、揃いもそろって、生来の嘘つきばかりであった。その大部分は、何度も雇われては馘になった経歴の持ち主であり、なかには、他の職を探すための絶好の足がかりと心得てくるものさえあった。
あるものは、地下鉄のなかで消え、あるものは摩天楼の迷路のなかで行方不明になった。またあるものは日がな1日エレベーターに乗って遊んでいた。なかには、スタッテン島へ出かけて、ついでにはるばるカナリア諸島まで足をのばすやつもいたし、また昏睡状態になって警官につれもどされるやつもいた。ニューヨークの要員として雇ったやつが、1カ月後には、けろりとしてフィラデルフィアの支社にあらわれることもあった。また、会社から支給された制服を着たまま新聞を売っていたものもいる。また、あるものは、なにか奇妙な自己防衛本能にかられて、まっすぐ留置場へ行ってしまった。
彼らは、あとからあとからひきもきらずに押しかけてきた――仕事を、タバコ代を、車代を、チャンスを求めて。おねがいです、神さま、もう一度チャンスをめぐんでください! 俺は自分の机に釘づけにされながら、電光のごとき速度で世界じゅうを旅行してまわった。そして、どこへ行っても同じように、飢えや屈辱、無知、悪徳、貪欲、搾取、陰謀、拷問、独裁、人間が人間に加える残虐行為、手かせ足かせ、鞭、拍車のあることを知った。彼らは、あのぶざまな屈辱的な最低の制服をまとって、ニューヨークの市中を歩きまわった。しかも、彼らのなかのじつに多くが、世界を支配するにふさわしい人間であり、他に類のない偉大な本を書くにふさわしい人間であった。
(『南回帰線』)