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持続可能社会と詩(3)(2010)

第3章 持続可能社会
 21世紀に入り、2007年のノーベル平和賞が示しているように、「エコロジー・ポリティクス(Ecology Politics)」の時代が到来する。「近代社会(Modern Society)」から「現代社会(Contemporary Society)」へ移行し、現在、「持続可能社会(Sustainable Society)」が到来しつつある。持続可能性は、端的に言うと、物質循環である。物質が循環できなくなれば、持続可能性は成り立たない。大宰府の森林のケースでも、里山が循環から外れてしまった結果、面積が増大している。環境問題は循環が戸凍る、もしくは停止することから生じている。物質循環をいかにして滞りなくさせるメカニズムを構築しようとするのが持続可能社会である。エコロジー・ポリティクスはこの持続可能社会に向けた政治潮流である。

 エコロジー・ポリティクスがどれだけ認識の転換を必要としているかは、地球温暖化を例にとってみても、明らかである。

 同じ環境問題でも、地球温暖化は従前の公害問題と異なった特性がある。それはグローバル性、ノンゼロサム・ゲーム性、未来性、カオス性の四つに要約できる。
 第一のグローバル性は被害の空間的規模の拡大を意味する。水俣病やイタイイタイ病、四日市喘息などの公害問題は、一般的に、安全基準の濃度を著しく超えた特定の有害物質によって発生する。そのため、被害が地域に限定されている。ところが、地球温暖化は全人類を巻きこむ地球規模の問題である。この点から、対策も国際政治の議題となると共に、国際競争力や南北問題など他の国際問題とも関連する。

 第二のノンゼロサム・ゲーム性は、この新たな環境問題には加害者と被害者、ないし勝者と敗者の区別がないということである。公害問題では、加害者側の企業や国と被害者側の地域住民が対立する。一方、地球温暖化は国も企業も住民も加害者であると同時に被害者である。また、地球環境問題は、領土問題などと違い、誰かが得をすれば、別の誰かが損をするゼロサム・ゲームではない。地球環境がよくなれば、日本も、韓国も、ロシアも、中国も恩恵を受ける。国際政治上の地球温暖化問題は、本質的には、ノンゼロサム・ゲームである。なお、「ノンゼロサム・ゲーム性」としたのは、厳密な意味でノンゼロサム・ゲームと見なせない点があることを考慮したからである。

 第三の未来性は影響の不可視性である。公害はすでに相当の被害が顕在化している時に問題となる。その現に起きてしまった悲劇をいかに救済し、今後どのように生かしていくかという議論の道筋が生まれやすい。しかし、地球温暖化は現世代と言うよりも、将来世代に甚大な損害が表面化する潜在的問題である。100年単位の問題であるため、対策をどう進めていけばいいのかを多方面から慎重かつ詳細に検討しなければならない。

 第四のカオス性は無数の不確実性が地球温暖化には潜んでいることを表わしている。公害問題では健康被害とその原因である有毒物質の因果関係が、比較的見えやすい。また、被害も生活の糧の喪失や健康への悪影響など限られている。他方、気候変動問題の複雑さは人間の思考能力の限界を超えているようにさえ思える。「温室効果ガスGreen House Gas: GHG」の代表である二酸化炭素はそれ自体では有害ではない。温度の上昇は分子や原子の運動の活発化である。赤外線は振動数を持った電磁波である。二酸化炭素の分子構造はその赤外線の振動数を吸収して運動が激しくなり、温度が上がる。温室効果ガス自体の温度上昇過程はさほど難しくはない。けれども、複雑なメカニズムによって気候を変動し、人間の生活に被害をもたらす。しかも、その影響がどこまで広がるか見当もつかない。

 調査・研究が進むにつれ、従来の環境問題にも、これらの特性が見られることが明らかになっている。かつてノック防止の目的でガソリンに鉛が添加されていたが、健康に悪影響を及ぼす危険性から主要諸国では有鉛が規制されている。しかし、現在でも北極圏における氷雪の鉛含有量が増加している。また、中国の大気・海洋汚染が日本にも環境汚染をもたらしている。けれども、安い人件費やゆるい規制を目当てに日本を始めとして先進国が工場進出し、その経済活動が主な原因である。かの新興国の環境問題への意識を批判すればすむわけではない。

 これらの特性のために、山口光恒帝京大学教授は、『環境マネジメント』において、「国際協力の必要性と膨大な対策費用」、「共通だが差異のある責任(Common but Differentiated Responsibility)」、「通世代間の問題」、「不確実性の下での意思決定」という四つの特徴を挙げている。

 地球温暖化はその影響が地球規模に及ぶため、国際協力が不可欠である。しかし、対策費用が莫大であり、国の経済成長の障害にもなりかねない。自国の負担を可能な限り軽減できれば、理想的にはただ乗りすれば、国民からの不満もなく、自国企業の国際競争力を相対的に高められる。地球温暖化をめぐる国際会議は、京都議定書が端的に示しているように、WTOのラウンドさながらである。

 「共通だが差異のある責任」は気候変動枠組み条約内の文言に使われている。地球温暖化対策はすべての国と地域がその責任を負っているが、歴史を考慮すれば、先進国、次いで旧ソ連や東欧の移行経済国の方が途上国より重い。地球気候変動は、現在主流とされる学説では、産業革命以来の先進国を先頭とする経済発展の過程で排出されてきた温室効果ガスの累積によって発生している。とは言うものの、今後の人口増加率ならびに経済成長率の予測を考えに入れると、温室効果ガスの排出量の伸び率は途上国が優勢となる。長期的には、途上国も、先進国と同様、相応の努力を求められることになる。しかし、それは自国の経済成長の足枷となりかねないため、先進国が率先して義務を果たそうとしない限り、歴史的経緯を理由に、「共通だが差異のある責任」ではないかと途上国は反対する。2008年7月の洞爺湖サミットは、先進国主導で国際問題を解決する時代の終わりを告げている。これまでGHG削減を進めてきた諸国にとって、さらなる自国内での努力は劇的な効果をあげにくい。そこで先進国による省エネの技術移転やGHGの排出量取引の議論がテーブルの上に乗ることになる。地球温暖化問題は南北問題でもある。

 地球温暖化の時間の単位は、政治や経済とは違い、はるかに長い。まさに百年の計が要る。現世代の不手際や不作為が将来世代に決定的な損害を及ぼしてしまう危険性がある。GHGを出さないからと原子力による発電を増加させると、その恩恵に預かれない世代が放射能廃棄物の管理だけを押しつけられることになりかねない。現世代は将来世代のニーズを満たす能力を損なわないように発展する必要がある。これが持続可能性の原則である。しかし、絶対的な正答などない。考え方によって手段や方法は変わる。地球温暖化は、環境から政治・経済・社会・文化・倫理を総合的・体系的に再構築しなければならない問題である。

 地球温暖化問題には随所に不確実性があり、影響の予測が難しい。100年単位の問題でありながら、あまりにも決めつけて対策を行うと、かえって逆効果となりかねない。不確実性が無数に入りこむため、意思決定が非常に困難である。

 そのため、「地球温暖化問題(Global Warming)」ではなく、「気候変動に関する国際連合枠組み条約(United Nations Framework Convention on Climate Change: UNFCCC)」の名称が示しているように、「気候変動問題(Climate Change)」の方が適切である。温暖化の影響には徐々に進行する被害の他に、ある臨界点に達すると急激に、時には不連続さを伴いながら、発生する気候変動が推測されている。エコシステムは温室効果ガスの吸収源なのだが、ある時点以降には、排出源となってしまう。温暖化が進行すると、現在二酸化炭素の最大の吸収源の一つであるシベリアのツンドラが大量のメタンを排出する危険性がある。また、温暖化によって熱塩循環が停止し、ヨーロッパが寒冷化を迎える。欧州が高緯度であるにもかかわらず、温暖であるのは、メキシコ湾流のおかげである。逆に、ペルーの海岸線は海沿いであるにもかかわらず、砂漠が広がっているが、それはフンボルト海流のせいである。ほぼ赤道直下に位置しているのに、この海流は強烈な寒流であるために、海面からの水分蒸発が非常に少なく、年間降水量が小さい。海流は気候に非常に影響を与えている。温暖化により北極圏の氷が溶けると、塩分濃度が低下し、密度の大きいメキシコ湾流の上に覆い被さり、暖流としての流れを止めてしまう。さらに、南極およびグリーンランドの氷床崩壊による大幅な海面上昇もそうした現象の一つである。第4次報告書によれば、今後100年間で発生する可能性は極めて低いけれども、万が一にでも起きれば、コストを度外視しても対処できない。

 不確実なことだらけの中で、地球が温暖化していることと大気中における二酸化炭素などの温室効果ガスの濃度が大きくなっていることの二点は確認されている。しかし、その因果関係については、学説が分かれている。IPCCを始めとする主流派は、人間の活動によって大気中の温室効果ガスが増したために地球が温暖化していると主張している。他方、非主流派は何らかの原因によって地球が温暖化し、地中や海水中に閉じこめられていた二酸化炭素が放出されて増加したと反論する。因果関係における原因と結果がお互いに正反対となっている。地球の歴史を研究してみると、両者いずれの場合だけでなく、複合的なケースも見られ、どちらが原因で結果なのかを決定するのは難しい。第一、大気中の温室効果ガスの濃度がどれだけ増加すれば、気温は何度上昇するのかも正確にはわかっていない。主流派も非主流派も科学に立脚している。善と悪ではなく、どちらも自身を善と信じているものたち同士の戦いである。

 地球温暖化をめぐる科学的対立はこれだけではない。温室効果ガス発生から被害に至るまでの各段階で不確実性があり、場合によっては、議論が真っ向からぶつかっている。また、人間活動が温室効果ガスを排出しているとしても、経済を完全に制御することは不可能である。産業構造の変化や技術革新を予測することは難しい。種の多様性といった生態系の問題や気候変動に伴う第一次産品をめぐる状況、水問題、経済的・地域的格差、健康への影響など考慮しなければならない要素は山ほどある。さらに、それらが累積や急変、不連続などとして生じる場合をどう考えるのかも忘れるわけにはいかない。

 科学はある条件下での因果関係や過程を導き出す。条件が変更されれば、結果もおのずと変わる。科学は無条件的に絶対的な正答を示すことはない。これしかないと指し示すのが科学の役割ではない。こうも言えるし、ああも言えるという選択肢を残すチャランポランさが科学にはある。森毅を見るがよい。選択肢を残すのが科学であって、その点を批難するとしたら、それは素朴かつ短絡的であり、有害でさえある。多くの社会的・人工的・自然的現象は非線形であり、初期値敏感性がある以上、未来予測が不安定となるどころか、因果関係の立証自体が不可能に近い。しかも、不可逆性がある。不可知論は理論的なレベルだけならば問題はない。しかし、どの説が正しいかを白黒はっきりつけるよりも、どうすれば適切かを考察する手がかりを提供するのが今日の科学的姿勢である。地球温暖化は将来の問題であり、対策には巨額なコストがかかるので、どの説が正しくてもそのときに対処できるように、できるだけ選択肢を残しておくほうが有効である。それが「予防原則(Precautionary Principle)」である。

 この予防原則には、微妙に修正された反論が加えられている。まず、アメリカから「後悔しない対策(No Regret Policy)」が主張されている。不確実性があるのだから、温暖化による悪影響がなかったとしても、費用便益面から実行した方がよいと思われる政策を実現すべきだという考えである。また、将来、技術革新が進むはずであるから、原価償却する前の今よりも、償却後に資本整備を更新した方が対策コストの低下が見こめるという意見もある。しかし、予防原則は選択肢をできるだけ残し、将来に備えるのが目的であって、それら二つは狭めている。

 現時点の見通しが正しいとして、とにかく地球温暖化を速やかに解決しなければならないと国債を大量発行して国家予算の大半をつぎこむと、万が一その予測が外れた場合、軌道修正するだけの余力がなくなる。逆に、当たらないこともあるのだからと高をくくって、不十分な対策費しか使わなかったなら、損害発生後に莫大なコストを費やさなければならず、他に予算を回す余裕がなくなる危険性もある。時分時を見定めることが何より肝要で、極端な悲観主義も、極端な楽観主義も建設的な問題解決にはつながらない。IPCCも、1990年以来、最新のデータを分析した報告書を定期的に表わし、2007年1月に第4次報告書を公表している。現段階で適正と思われるコストを費やした対処法を実施して、有効な技術革新や科学的知見、産業政策を活用しつつ、つねに最悪の事態を回避し、将来の対策の選択肢をできる限り残す冷静な判断がこの問題には不可欠である、

 こうした問題である以上、当然ながら、将来の予測も多数用意されている。IPCCも、排出シナリオ特別報告において、相当幅がある六つのシナリオを示している。将来の社会構造の相違をA1、A2、B1、B2の四つのファミリーに分け、その中でもA1をさらにA1FI、A1B、A1Tの三つに分類している。A1ファミリーは高成長・技術革新・地域間格差の縮小を特徴とする社会、A2は多元的・地域の独自性・高い人口増加率を特徴とする社会、B1は持続可能性・地域間格差解消・サービスや情報を特徴とする社会、B2は経済、社会、環境面で持続可能性に配慮するために地域対策を重視する社会である。A1ファミリーは、化石燃料集約型のA1FI、非化石燃料依存型のA1T、その中間型のA1Bに細分される。その上で、それぞれのモデルに特設の対策をしないベースライン・シナリオと安定化シナリオがある。

 ある政策が実施されれば、それが他にも影響を与えるため、急激にではなく、情勢を見極めつつ、少しずつ舵を切るほうが賢明である。非線形の世界を生きるには慎重で冷静な判断が不可欠である。層流がいつ乱流に変わってしまうかわからない。
 エコロジー・ポリティクスは、このように、従来の認識とまったく違う前提に立っている。この変化に、詩人のみならず、世間も思考が追いついていない。

 気候変動問題は極めて複雑であり、つねに発見の連続である。科学リテラシーを始めとする各種のリテラシーはもちろんのこと、国際交渉に代表されるきめ細やかで粘り強いコミュニケーションも求められる。地球温暖化のように、非線形性と不可逆性のある問題に対しては、ロマンスに登場する超人的な人物による力ずくの解決などできない。先に20世紀の文学が主観主義に支配されたと言及したけれども、散文においてそれはロマンスの流行として顕在化している。ロマンスは作品の傾向が内向的・個人的であり、扱い方は主観的で、作者の願望充足がこめられ、SFやミステリー、アドベンチャー、ホラー、サスペンス、歴史小説などが含まれる。最近で言うと、村上春樹の作品がこれに該当する。ロマンスの主人公はあっという間に問題を解決するが、急激な変化こそ現代では予測不可能な新たな問題を招く。

 地球温暖化は極端な例ではない。今の社会では、程度の差こそあれ、こうした唯一の正答のない問題に溢れている。役所の情報公開みたいに、公共的な利害関係の調整がほとんどないため、やる気のある首長が決断すれば、比較的すぐに解決する問題もある。しかし、それは少数でしかない。やはり生き物は自然に帰すのが一番だと飼育していた外来種を外に放つ善意は、在来種の絶滅と生態系の変化を招きかねない。世界は相互作用に満ちている。持続可能社会の実現には衆智を必要とする。


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