あさま山荘事件、あるいはテレビの一番長い日(2019)
あさま山荘事件、あるいはテレビの一番長い日
Saven Satow
Feb. 28, 2019
「だから、もうこっちの欲を言えば、ドラマが始まる時には、暗くしてね、そして、みんな電話したり風呂入ったり雑談したりご飯食べたりしないで、じっと見ていて欲しいわけですね。でも、そんなことできないから、野球放送やニュースと同じ次元でフィクションが試されるわけですね。これはものすごく厳しい世界に入ったっていうことをね、それほど僕はそれまで意識的ではなかったんですけれども、あさま山荘にあんなに惹きつけられる、あんな単調な絵にみんなが惹きつけられてしまうことの無念さでだんだん意識的になりましたですね」。
山田太一『テレビの一番長い日』
1972年2月19日、連合赤軍のメンバー5人が長野県軽井沢にある河合楽器の保養所浅間山荘に管理人の妻を人質に立てこもります。警察は、この日から10日目の28日午前10時より、人質救出のため強行突入を開始します。
テレビ局はこの「あさま山荘事件」の救出作戦の模様を生中継すると決めます。NHKは28日月曜日午前9時40分から放送枠を用意、日本テレビやTBS、フジテレビなどの民放も午前10時の開始に合わせて番組を編成します。
彼らは前日に当局から翌日の行動計画を知らされています。その情報に基づき、2、3時間で事件解決に至ると見通しを立てて放送の準備に臨みます。現場には気楽な雰囲気さえ漂っています。気がかりなことと言えば、氷点下15度にも及ぶ寒さくらいです。
しかし、中継は10時間以上続くことになります。「テレビの一番長い日」がこうして始まるのです。
NHKは、現場と目と鼻の場所にあった局の保養所に取材の前線本部を置きます。テレビ中継を担当したのは平田悦郎アナです。彼は中継の前に一切の水分を摂らないことを習慣にしています。その日もいつも通り放送席に座り、結局、10時間以上そこに腰を下ろしたままになってしまうのです。
日本テレビは山荘の正面玄関が西側から見下ろせる山腹に放送の拠点を置きます。中継を担当した久能靖アナは、勾配が急だったため、樹木につかまりながら、放送しています。防寒も十分ではなく、ゴム長の靴底からジンジンと伝わってくる寒さに耐え続けます。会社が用意したカイロは、彼の手に渡らず、凍結防止のためにカメラに使われてしまうのです。
TBSは山荘北側のテントの中に放送席を設置します。竹馬信朗記者は飛び込んでくる情報を素早くノートにメモ書きし、中継を続けます。
フジテレビは、山荘正面玄関の西側にカメラ・ポジションをとります。中継を担当した露木茂アナは寒さのため口が滑らかに動かず、苦闘しながらレポートしています。ここは見通しが良かったため、新聞社や雑誌社のスチールのカメラマンも集まっています。
NHKは、膠着状態に陥った午後2時台に短くニュースを入れた以外は現場からの生中継を続けます。その時、電撃訪中したリチャード・ニクソン米大統領が帰国の途に就く映像が流れます。民放も、負けじと、CMをすべて飛ばして現場からの映像を継続します。例えば、フジテレビは249本のCMの放送を見送っています。
ビデオリサーチ社によると、「中継10時間」のNHKと民放を合わせた平均視聴率は50.8%、最高視聴率は午後6時15分の人質救出後の午後6時20分で、89.7%です。また、後の世論調査では、テレビで5分以上事件を見ていた人は90%に及び、平均視聴時間は6時間を超えています。
この数字は、可能な人はほとんどがテレビにかじりついたと同時に、日本中のブラウン管がこれだけを映していたことを示しています。この中継に人々がどれだけ釘付けになったかは今や伝説化しています。国会では防衛費の予算案審議中にもかかわらず、控室では官僚がテレビを見入っていたことはその一例です。仕事が手につかなかったのは官僚だけではありません。日本中が同様の状況です。
それから20年後の1992年10月31日、NHKはBS2で『BSスペシャル 青春TVタイムトラベル』の「第2回 1972年2月28日 テレビの一番長い日〜ニュース映像の衝撃〜」を放送します。当日の生中継映像を中心に、それを伝えたNHKや民放各社のテレビ関係者の他、警察庁警備局付監察官佐々淳行、連合赤軍メンバー、山田太一、深作欣二らの証言によって事件を振り返っています。「中継10時間」を150分にまとめた番組です。
あさま山荘事件を振り返る書籍や映画、テレビ番組は少なくありません。しかし、その中で『テレビの一番長い日』は最高傑作の一つでしょう。と言うのも、この事件はテレビが主役だからです。
あさま山荘事件はテレビが生中継の力を示したとしばしば語られます。けれども、それほど単純に捉えることはできません。生中継と言っても、これほどの視聴率を記録したのはこの事件だけだからです。なるほど事件や出来事の生中継は視聴者を惹きつけます。しかし、90%近い視聴率は老若男女にかかわらず見ていたことを示しますから、それだけでは説明できません。なぜここまで人々はこの中継に釘付けになったのかはテレビの力だけでは不十分です。
映像は具体的なものの表面しか映せません。事件・出来事の現象を中継できても、その本質を明らかにすることができないのです。
そこには時代の文脈も影響しているでしょう。当初は少なからずの世論がシンパシーを感じていた学生運動も、急速に支持を失い、孤立した一部セクトが先鋭化します。そうした武装闘争のグループのメンバーが人質をとって雪深い山中の山荘に立てこもるものの、当局に何の要求も出さず、武力で抵抗しつつ籠城を続けています。
しかも、あさま山荘事件の最中に米中が接近します。新左翼には、毛沢東主義を信奉する反米セクトもありましたが、国際政治の大きな変動の中で、存在理由をなくしてしまいます。生中継が一つの時代の終わりを人々に印象づけたことは確かです。かりに時代を感じさせない私利私欲の強盗団が、同じように立てこもりをしても、その生中継がここまでの視聴率をとるとは思えません。
時代の気分は同時代を生きる人々の間で共有されています。それが人々をテレビの前に釘付けにした要因であることは間違いありません。加えて、この中継はワクワク・ドキドキ・ハラハラの三つを兼ね備えています。
救出作戦はクレーン車が巨大な鉄球で山荘を壊していくことから始まります。これを予想していた視聴者はおそらくいなかったに違いありません。警察が次にどういう手を打つのかというワクワク感も人々をテレビに惹きつけた一因です。防衛庁では、テレビの前で制服組が自分たちならいかなると戦術論を戦わせています。もっとも、警察庁も、後藤田正晴長官を始め幹部がテレビを見ながら現場に指示を送っているのです。
実は、現場は午後2時くらいから2時間ほど膠着状態に陥ります。この間あまり動きがなく、NHKは先に触れたニクソン大統領夫妻のニュースを短く伝えています。各局共に、このなぎの状態の中、話すことがなくなり、アナウンサーや記者が黙りこくる場面さえあります。ただ中継映像が流れるだけでも人々はテレビの前を離れません。何か起きるかもしれないというワクワク感があるからです。
ニクソン訪中もテレビを意識した政治的演出としてしばしば言及されます。北京の空港に到着したエアフォース1のタラップを大統領夫妻だけが降りてきます。この模様は全米に衛星中継されています。これによりアメリカの視聴者の目は大統領夫妻だけに注がれるようになります。この演出はニクソン再選を見越したアメリカの有権者へのアピールです。同じ時期にテレビの生中継をめぐる代表的な二つの事例があったというのは因縁めいています。
ちなみに、あさま山荘事件での映像と言うと、鉄球作戦の印象が強いのですが、実際に行われていたのは午前中だけです。放水車の水によりクレーン車がエンコしたため、午後はまったく動いていません。
そうした活動に連合赤軍は銃や爆弾で応戦します。彼らは威嚇ではなく、機動隊や取材陣を狙ってライフルで撃ってくるのです。戦場ではない日本で人が人を狙い撃つ映像がお茶の間に流れます。ドキドキの銃撃戦が繰り広げられているのです。
実際の発砲音をこの中継で初めて聞いた人も少なくなかったでしょう。中継中のある時、プシュッと小さな音と共に、露木茂アナの2mほど前で雪が舞い上がることが起きています。その瞬間、傍にいた古参のカメラマンが「撃たれた!」と叫んで彼に覆い被さり、伏せさせています。1940年生まれの露木アナは戦争を覚えていても、戦場は知りません。本物の銃声がどういうものかわからないのです。ベテラン・カメラマンには軍隊経験があるのでしょう。
当初、報道陣はちょっとした冒険気分で取材に臨んでいます。多くが戦場を知りませんから、危険という現実感がないのです。その意識を変えたのが二人の機動隊員の殉職です。撃たれて血まみれになり、担架で運ばれていくその姿を目の当たりにした時、彼らは「これは大変なことだ」と現実感を覚えています。しかも、信越放送の記者も右膝を撃たれています。報道陣は自分たちも動く標的だと自覚するのです。
さらに、この中継はあくまで人質救出作戦の映像です。そこには、当然、ハラハラ感があります。ワクワクドキドキと言っても、死者や負傷者も出ていますので、見ていてどこか後ろめたさがあります。けれども、救出劇のハラハラ感は違います。人質が救出された時、よかったと喜べるからです。
感情にはさまざまな種類がありますが、喜びは社会的感情です。それは誰かと一緒に分かち合うものです。連合赤軍や警察に対する人々の感情は必ずしも同じではありません。強行突入する警察に、手ぬるいという批判から学生を逃がしてやれという要求まで多くの意見が電話で寄せられています。しかし、たまたま人質になってしまった女性への同情は人々の間でほぼ一致していたでしょう。その女性が解放されることは誰にとっても喜びとなります。それは最高視聴率が彼女の救出直後だったことからも明らかです。
視聴者にとって彼女は自分たちと同じような平凡な人間です。一民間人女性を救うためにこれほどの人数の警察官が動員されることなど戦前ではあり得なかったでしょう。その光景は戦後民主主義の具体的な姿です。
衝撃的な事件の生中継だからではなく、視聴者が共有できるものを備えていたからこそ「中継10時間」は人々をテレビの前に釘付けにしているのです。時代の気分とハラハラ感を共有し、ワクワクドキドキしながら事件を見ていたのは放送関係者も同様です。当時フジテレビで編成を担当していた日枝久フジサンケイグループ代表は、CMを飛ばす決断をした時、社内が中継で一丸になったと回想しています。この一体感が「テレビの一番長い日」をもたらしています。
日本テレビで中継を担当した久能靖アナは事件直後に記者に転身します。『テレビの一番長い日』によると、9時間の中継後に達成感と同時に虚しさも覚えたと彼は言います。起きている現象は伝えられたが、そもそも連合赤軍が何であり、どういう主義主張なのかもわからないままです。彼によれば、視聴者はそこに「イライラ」を感じていたけれども、中継はそれに答えられていません。この中継をきっかけに、視聴者の事件事故などニュースへの関心が高まっていきます。「ニュースの時代」への幕開けがあさま山荘事件だったと久能記者は振り返っています。
その「ニュースの時代」が幕を開けてから、今年で47年が経ちます。けれども、視聴者の「イライラ」感は減るどころか、「忖度」という言葉をよく見聞きする近年、増える一方です。ニュースへの関心があったとしても、NHKが国会中継をしないことがあるように、現象を伝えることさえテレビがおろそかにすることも珍しくありません。そこには視聴者やテレビ局社内などの間の分断が見て取れます。「テレビの一番長い日」を振り返る時、なぜ今テレビがこのような状況なのか見えてくるのです。
〈了〉
参照文献
「第2回 1972年2月28日 テレビの一番長い日〜ニュース映像の衝撃〜」、『BSスペシャル 青春TVタイムトラベル』、NHK BS2、1992年10月31日放送