心中的鐘摆─「お祖父ちゃん、戦争の話を聞かせて」(3)(2018)
5 お祖父ちゃんのスプーン
みーちゃんは転ばないように階段をたいていゆっくり降ります。階段の壁にはモネの『花瓶の花』の複製がかけられています。これはお母さんの趣味です。1階に着いたみーちゃんは給食の後からずっと水分を取っていなかったことに気づきます。
──のどが渇いちゃったなあ。
台所に入り、緑の大きなツー・ドア式の冷蔵庫を開け、ドアポケットにあるピンクのガラス製の麦茶ポットを取り出します。夏になると、みーちゃんのうちの冷蔵庫には、いつもピンクとブルーの麦茶ポットが二つ冷やされています。
みーちゃんはポットを持って流しに行きます。そこに置いてあるコップ立ての鬼剣舞の絵がついた地域限定ワンカップのコップを取り、その5分の4くらいの高さまで麦茶を注ぎます。それを3回にわけて飲み干します。
──おいしー!よく冷えてるなー!
みーちゃんは飲み終わったコップを水道の水で軽くすすいで、青い水切りにおこうとします。
──あれ?お祖父ちゃんのスプーンが出しっぱなしだ。
そのスプーンの柄には「U.S.N」と刻まれています。金属製で、古びて、少々曇った銀色をしています。刻印の他に、形状にも特徴があります。皿状の部分は幅広であるけれども、底が浅いのです。それに、柄は厚みが薄く、扇状に広がっています。角も装飾もありません。個性的なデザインです。
これはお祖父ちゃんのスプーンです。他の人は使用しないようにしています。でも、みーちゃんは特別感に憧れて、このスプーンをこっそり使うことがあります。それで味わったらすぐに洗って、食器棚のスプーンを入れている引き出しに戻しておきます。
そのスプーンがシンクに放置してあるのです。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは昼ご飯を食べても、食器を洗わず、シンクに置きっぱなしにしています。仕事から帰って来たお母さんが洗うのです。
シンクには、ご飯とお汁のお茶碗、お箸、中皿、小皿がそれぞれ二つずつあります。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんはお昼にスプーンを使う物は食べていません。考えられるのは、お祖母ちゃんが食後にとる健康食品を計るのに、無頓着に、それを選んでしまったということです。確かに、計量カップと金属製のボウルもシンクにあります。
お祖母ちゃんは健康マニアです。よく健康についての雑誌を買ったり、番組を見たりしています。クロレラや養命酒を飲んでいたこともあります。これはこういう効果があってか健康にいいと家族にも教えたがります。けれども、たいてい聞き流しています。お祖母ちゃんは飽きっぽいからです。1週間もすれば、別の健康話を始めます。
──そういやあ、最近、スイマグとか何と言ってたな。それかな~?
煙草のけむりも もつれるおもい
胸の振子がつぶやく
やさしきその名
(渡辺真知子『胸の振子』)
6 お祖父ちゃんのスプーンの謎
4月に入ったばかりの土曜日、お昼に小兄ちゃんとカレーライスを食べた時のことです。みーちゃんのうちでは、金曜日の夕食はカレーと決まっています。残りを給食のない土曜日のお昼ご飯にできるからです。
みーちゃんのうちでは甘口のバーモントカレーです。家族みんなが食べられるからです。具は玉ねぎにニンジン、ジャガイモ、豚のこま切れ肉です。お母さんは隠し味にウスターソースを入れます。辛いのが好きな小兄ちゃんやお父さんはS&Bのコショーや一味唐がらしを自分の皿に足します。
小兄ちゃんがアルミ製の金色の両手鍋からカレー、ナショナルの炊飯ジャーからご飯を二枚のお皿によそいます。みーちゃんのうちでは朝に1升炊飯器で炊き、保温しておくのです。その間に、みーちゃんは食器棚の引き出しからスプーンを2個取り出します。
──そうだ!せっかくだから聞いちゃおうっと。
みーちゃんは、お祖父ちゃんのスプーンも出します。前からこのスプーンのことを知りたかったからです。小兄ちゃんに謎を聞くことにします。小兄ちゃんの席の前に一つ、自分の処には二つそれぞれスプーンをみーちゃんは置きます。
みーちゃんのうちではテーブルの席が決まっています。茶の木目調の6人用テーブルを南北に長く配置しています。南の1人席がお祖母ちゃん、北のそれが小兄ちゃんです。お祖母ちゃんから見て右の2人席に、近い順からお母さんとお父さん、左が祖父ちゃんとみーちゃんです。みーちゃんと小兄ちゃんの席は角をはさんで隣り合っています。
ひいばあちゃんは茶の間のテーブルで食べます。椅子の脚が高すぎるからです。お父さんかお母さんがお膳を運び、食べ終わったら片づけます。朝食には、ひいばあちゃんは仏さまにお供えした仏まんまを食べます。仏さまに一番近いからです
小兄ちゃんはお皿を二つ運び、テーブルの自分とみーちゃんの席に置きます。席に着いてすぐに小兄ちゃんが「はい、いただきます」と言ったので、みーちゃんも慌てて座り、「いただきまーす」と続きます。
「ねえねえ、お祖父ちゃんのスプーンだけどさ」。
そうみーちゃんがお祖父ちゃんのスプーンを二人の間に置いて見せて聞くと、小兄ちゃんは、カレーにコショーや一味唐がらしを振りかけながら、こう言います。
「それがどうした?」
「この柄の文字。これ何?」
みーちゃんが中腰になって右手でスプーンの文字を指し示すと、小兄ちゃんは顔を少し突き出して確かめた後、カレーを食べながら、こう告げます。
「これ?ユー・エス・エヌ」。
小兄ちゃんは口に自分のスプーンを運んでいますが、みーちゃんはカレーを食べるどころではありません。
「そんなの、わかるよ!どういう意味?」
「ユナイテッド・ステ―ツ・ネイビー」。
「だから、どういう意味?」
「合衆国海軍」。
「それって?」
「アメリカ海軍のこと」。
「なんでアメリカ海軍のスプーンがうちにあるの?」
「ほら、お祖父ちゃんが沖縄でアメリカ軍の捕虜になったろ?」
「捕虜になったの?」
「なったんだよ」。
「なんで?」
「んとね、確か、こんな話だと聞いたよ、お祖父ちゃんから。聞きたい?」
「うん、聞きたい」。
小兄ちゃんもスプーンの動きをとめ、口の中のものを急いで飲みこみ、話し始めます。
「沖縄で戦争している時にね、近くに迫撃砲だったか何だったかとにかく砲弾が着弾して、その破片が足にあたって動けなくなったんだってさ」。
「足の傷って、その時の?」
「たぶんね。それで、部下に洞窟に担がれたんだってさ。まあ、サンゴ礁があるから、そんな、そんな洞窟らしいんだけど」。
「ふーん」。
「治療なんかろくにされなくてさ、ずーっと横になってたんだってさ」。
「かわいそう」。
「でもね、動ける人なんか、かえって死んじゃったんだよ」。
「どういうこと?」
「動ける人は外の様子を見に行ったり、食べる物がないかって探したりして洞窟から出たんだってさ」。
「その人たちは?」
「一人も帰って来なかったってさ」。
「死んだの?」
「たぶんね。殺されちゃったんだよ」。
「それから?」
「お祖父ちゃんは動けないから、ずーっと横になっていたけど、とにかく腹が減ったんだって」。
「食べ物は持ってなかったの?」
「生米を持っていたらしいんだけど、それもかじったって、いつまでももたないだろ?」
「お米は炊くからふくらむんだもんね。生米じゃあ、ゴマみたいなもんだよね」。
「そう。で、洞窟の水をすすったりしてたって。でも、それじゃあ、空腹が満たされないから、靴をとうとう噛んだってさ」。
「靴?」
「そう、靴」。
「靴って食べられるの?」
「いや、お祖父ちゃんも靴が食べれるとは思わなかったらしい。でも、噛めば、しみこんだエキスかなんかが出てきて空腹を満たせるんじゃないかと思ったようだよ」。
「空腹は満たされたの?」
「んなわけないじゃん。もう腹が減っちゃってまともな思考力がないんだよ。だから、チャップリンみたいなことしたわけ、『黄金狂時代』の」。
「『黄金狂時代』ってどんなの?」
「だから、チャップリンが金を探しに行くんだけど、吹雪に遭って山小屋に閉じこめられちゃって、お腹がすいちゃってすいちゃってしかたがなくて、靴を料理して食べちゃうんだよ。でも、これ、喜劇映画だから」。
「そうだよね~。なんか手塚治虫のマンガに似てる」。
「もう洞窟の中じゃあ、食べ物のことばっかり考えてたってさ。子どもの時食っただんごうまかったな~食いてえな~、盛岡で食った熱々のカツレツ食いて~、ライスカレー食いてえな~とかさ。ほら、お祖父ちゃん、和食より洋食の方が好きだろ?」
「うん、好き」。
「それで、ある日、洞窟の入り口の方から英語の話し声が聞こえたんだってさ」。
「アメリカ軍?」
「そう。『敵だ!見つかったか!ああ、これで終わりか~』とあきらめたんだって」。
「戦わなかったの?」
「だって動けないんだよ」。
「ああそっか」。
「近よってきたから、観念して眼をつぶったんだって」。
「どうなったの?」
「そしたら、アメリカ兵たちはお祖父ちゃんのことを担架に乗せて洞窟の外に運び出したんだって」。
「え?どうして?」
「戦争が終わってたんだって」。
「戦争が終わってた?」
「そう」。
「戦争が終わったことを知らなかったの?」
「そう。知らなかったんだって、お祖父ちゃんは」。
「それから?」
「それから、アメリカ軍の基地だったか、捕虜収容所かどうか忘れたけど、そこに運ばれて着ている服を全部脱がされて、その服は焼却されたらしいけど、体を洗ってもらってだったかな、治療してもらって、新しい服を与えられたってさ」。
「それでスプーンは?」
「あ、そっか。スプーンの話してたんだっけ。捕虜収容所に入れられて、そこで渡されたのがあのスプーン」。
「つまり、捕虜の時に使っていたスプーンを持って帰って来たってこと?」
「そう」。
「でも、捕虜ってあんまりかっこよくないよね?」
「かっこいいとか悪いとかって問題じゃないと思うけど……まあいいや。で?」
「捕虜の時のスプーンを今も使ってるって、お祖父ちゃん、気に入ってるのかな?」
「まあ、そういう話じゃないと思うけど。なんかこう、お祖父ちゃんにとって、なんつーか、こう思うとこがあるんじゃないの。よくわかんないけど」。
「思いって?」
「わかんない」。
「聞いてないの?」
「聞いてない。けど、お祖父ちゃん、何か書いてるみたいだから」。
「書いてるって?」
「前お祖父ちゃん呼びに床の間の部屋に行った時、いなかったんだけど、ノートが開いてて、『嗚呼沖縄』とか何とか、歌詞みたいのがあったから」。
「何書いてるか聞いた?」
「聞いてない……まあ、そりゃあ、なんとなく。聞いて来れば?」
「え~。やだよ~」。
「子どもだから大丈夫じゃない?」
「そっちだって子どもでしょ?」
「やっぱ、高校生と小学生じゃ違うだろ?世間の見る眼ってさ」。
「ずる~い!」
「そんなことより、いいから早く食えよ、カレー、全然口つけてねーだろ?もう冷めちゃったんじゃないか?」
「いけな~い!忘れてた」。
「あ、なんか俺のも冷めてる。早く食お」。
みーちゃんも小兄ちゃんもその後は黙々とカレーをスプーンで口に運んでいくのです。
柳につばめは あなたにわたし
胸の振子が鳴る鳴る
朝から今日も
(EPO『胸の振子』)