石橋湛山の『百年戦争の予想』(4)(2008)
4 19世紀の百年戦争
湛山は、ナポレオン戦争を第一次世界大戦と重なり合わせて把握する。20世紀が第一次世界大戦の終戦によって幕を開けるとすれば、19世紀はナポレオン戦争の終結と共に始まる。ナポレオン・ボナパルトの姿にヘーゲルは「世界精神」を見ていたが、湛山は彼のしたことではなく、それによってヨーロッパの社会がどのように変化したかを検討している。
湛山がナポレオン戦争を起点として重視するのは、それがフランス革命のイデオロギーを各地に輸出したからでも、国境の線引きを大幅に書き換えたからでもない。ヨーロッパの産業編成が再編されたからである。「長期の世界的戦争が続き、殊に経済封鎖ということが起りますと、貿易が遮断されるので、交戦国にはいうまでもなく、中立国にも、今までになかった新しい産業が起ります」(『百年戦争の予想』)。この戦争を通じて、各国共に、新たな輸出入ルートの開拓や新興産業の育成にとり組まざるをえなくなる。戦後、貿易関係がそれ以前に回帰しようとするが、一旦産業化の始まった国は、自国の産業を守るために、保護主義政策をとる。皇帝ナポレオンの経済封鎖はイギリスを対象としていたため、同国ですでに始まっていた産業革命のもたらす社会変化を各国にむしえお引き起こすことになる。
産業化が経済や社会をいかに変えてしまうかは、「恐慌」一つをとってみても明らかである。
産業革命以前の恐慌は、農業を基盤とした経済だったため、天候不良による凶作が主な原因であり、不定期に起きている。食料の供給不足から飢饉、ひどい場合は飢餓が発生し、栄養失調のせいで抵抗力が弱まった人々の間で疫病が流行する。こうした環境により、人口は微増のまま推移せざるをえない。農業社会では、恐慌は欠乏型である。
他方、産業革命以降の恐慌は、工業を経済の基礎としているため、供給過剰によって生じ、景気循環により、定期的に起きる。好況なので、商品を増産するが、そのうち、供給過剰となって売れなくなり、在庫が増え、生産調整に踏み切らざるをえない。労働者の自宅待機に始まり、レイオフ、工場の休業と進み、それでも経営が改善しなくなれば、企業倒産に陥る。失業者は購買力が弱いので、消費に向かわず、さらに社会全体の経済状況を悪化させてしまう。しかし、底に達すると、次第に景気が持ち直し始める。産業化社会の恐慌は過剰型である。
付け加えると、前近代的な農村社会では、失業問題は原則的に存在しない。農業において、失業があるとすれば、賃労働者を雇用するプランテーションだけであって、自作制でも、地主制でも、労働者と失業者という区別がない。自作制は説明するまでもないだろう。一家総出で働いた方が収穫量が増加して、家計も助かる。定率小作性では、収穫量が多いほど自分の収入が増えるため、小作人の家族や親類縁者が参加することも歓迎する。また、定額小作性では、払う額が決まっている以上、父親が働こうが、息子が来ようが地主には興味がない。失業は産業社会の到来と共に顕在化した問題である。
19世紀初頭に、麦の連作法が発見され、農業革命とも言うべき歴史的転換が到来する。従来、麦の栽培には、地力を回復させるために、休耕地をとらなければならなかったが、豆と一緒に育てると、その根に付着しているバクテリアによって、土地を休ませなくてもいいということがわかる。この方法により、食料が大幅に増産されたことから、村の人口が急激に増加し始める。この農村の余剰人口を都市が吸収し、産業化社会を一層進展させていく。例外的に、フランスは人口が増えなかったけれども、スペインやイタリアなどから移民を受け入れ、不足分を補っている。ヨーロッパにおける農業から工業への主力産業のシフトは、19世紀を通じて、加速することはあっても、減速することはない。
1814年から15年にかけて、ナポレオン戦争の後処理をめぐって、ウィーン会議が開催される。これは、確かに、19世紀のその後の歴史に大きく影響を与えている。ナポレオン戦争による混乱した情勢の建て直しを目的とし、フランス革命以前の社会秩序や政治体制に戻そうとする「正統主義」に沿って、各国が合意を形成する。アンシャン・レジームの国王や皇帝が中心となって、政治的な勢力地図の線引きをやり直したため、全般的に保守的傾向が著しい結果に終わる。しかし、フランス革命の理念は自由主義や社会主義、ナショナリズムとしてヨーロッパ全体に浸透し、1848年、各地で民衆放棄が革命へと発展、ウィーン体制は崩壊する。
けれども、湛山は、『百年戦争の予想』において、本来、自由主義が政治運動ではなく、経済活動に起源を持っていると次のように述べている。
かように産業革命の結果は。物の生産を激増しましたから、今までの如く人の欲望抑制する必要が減りました。従って個人の活動の自由を許し得るに至ったのであります。またこれを許すことが、ますます産業革命を進展し、物質の増産を来すのに必要でありました。ここに即ち自由主義、資本主義の勃興した背景があったのです。
湛山に従えば、1848年革命を古い原則と新しい理念の衝突とするのは表面的な見方ということになる。理念以上に技術の移転は、明治維新に語の日本が示している通り、容易であり、認識を急速に変えることがある。一度大きく改変された産業編成を元に戻すことはできない。下部構造を無視して上部構造を昔に回帰させても、齟齬や矛盾が顕在化するだけで、長く持ちはしない。こうした産業編成の変化がウィーン体制の維持を困難にさせている。
湛山は、『百年戦争の予想』の中で、新しい技術の登場がヨーロッパの産業編成だけでなく、産業機構の組織構成も大きく変え、それは認識の転換さえ迫るものだったと次のように述べている。
しかるにいまや産業機構が変り、それらの人々が、大きな工場に職工として集まり、それが賃金で働くになれば、その一人一人の勉強、努力、つまり個人的脳利率は、家内工業の場合に比し落ちるに違いありません。あるいは商業にしましても、大きな会社に雇われ、社員として働いている人よりは、小さな個人商店の主人や雇人の方が、遥かに多く働くということは、我々日常実見する所です。楽ということは、こういう点からいえば、近代の産業組織は、まことに不経済であります。
しかるに近代の産業組織は、この不利益をカヴァーして、なお大いに剰りある利益を上げました。それは一人一人の職工の人的能率は下がったかも知れませんが、全体として見る時は、この低下を十分補って余りあるある能率の増進、従って生産の増加が、技術的に行われたからであります。機械の利用がこういう結果を齎したのであります。ここに近代の産業革命の興った根本原因であります。
個々のレベルで見れば、熟練工よりも非熟練工の方が効率面では劣る。けれども、非熟練工は機械に組みこめるため、全体としては、熟練工よりもはるかに生産性が高い。企業体の規模が大きくなり、企業間の競争も組織戦化する。もはや個人ではなく、組織の時代である。産業革命の機械に関する認識はデカルト的な時計をモデルとした機械論から脱却せざるをえない。人間が機械を操作するのではない。人間は機械の一部である。
産業革命は、多くの点で、部分的に見れば、首を傾げたくなるが、全体としてはうまくいくという奇妙な事態を招く。湛山によると、ブルジョアジーは世のため人のためではなく、自分の利益を求めているだけだが、そうした「私益」の追求が「公益」と結果として合致している。それには、余剰人口を賃労働者として利用できる機械やそれを活用した近代産業組織があったからで、欲深い金儲けがア・プリオリに社会利益につながるわけではない。「ですからアダム・スミスが、ウェルス・オブ・ネーションスの中で、自由主義を礼讃し、社会は各個人をして、その利益を追求さえすれば、自らの利益を増進する、と申したのは、まことに当然だったのであります」(『百年戦争の予想』)。
19世紀のヨーロッパの国際政治にもこうした認識が反映されている。各国が「国益」を追求することで、「力の均衡」が生まれ、大戦争も起きず、ヨーロッパ全体の利益につながっている。自由放任流の政治が機能し、国際秩序を形成する。
この場合の「国益」はある前提に基づいている。国際政治において、国家を超えて上位にあり、なおかつそれを拘束できる主体や組織が存在しまい。また、国家は一元的主体として擬人的に捉えられる。国家法人は国家理性に基づいて国益を国際政治上で追求するというわけだ。こうした状況の19世紀は外交の時代と言っていいほどである。「忠実な仲買人」ことオットー・フォン・ビスマルクなど優れた外交手腕を持つ政治家や外交官が活躍し、国際政治に関する理論が体系立てられ始めている。
1848年革命によって、ウィーン体制は崩壊したが、19世紀を通じて、そこで合意された力の均衡という発想は事実上保持されている。
ウィーン体制には二つの柱がある。一つは反フランス革命であり、もう一つは諸国間の勢力均衡である。後者は、為政者や体制が変わりながらも、第一次世界大戦まで堅持されたと見るべきである。実際、19世紀において、ナポレオン戦争のような全ヨーロッパを巻きこんだ大戦は起きていない。部分を見れば、戦争をしているが、全体としては平和である。
ウィーン体制は反フランス革命、すなわち自由主義や革命勢力への対抗という共通の利益に基づいて、各国が集団的に安全保障を結び、力の均衡によって国際秩序の安定を図っている。
力の均衡はヨーロッパ戦争を招かないことであっても、戦争自体を抑止する考え方ではない。ある国が台頭して均衡状態を脅かそうとすれば、戦争を通じて、それを保とうとするというのも選択肢の一つに含まれている。
ウィーン体制が形骸化した19世紀後半に入ると、長期的かつ硬直した同盟関係に代わって、短期的で、柔軟な同盟関係がめまぐるしく変わり、「昨日の敵は今日の友」が常態化する。各国共に、「富国強兵・殖産興業」を合言葉に、近代化・産業化を推進し、重化学工業における産業革命、すなわち第二次産業革命も勃興している。
しかし、ウィーン体制期と違い、これ以降の同盟には共通の利害に基づいてはいない。たんに各国が国益を追求していれば、「神の見えざる手」に導かれるかのように、力の均衡に到達するということではない。力の均衡を確実にするためには、共通の利害が不可欠である。自由放任流の国際政治は徐々にその有効性が失われていく。
19世紀末になると、再び、硬直的な同盟関係が構築される。三国協商の英仏露と三国同盟の独墺伊という二つの軸に収斂し、これが第一次世界大戦まで続くことになる。
流動化から固定化へという動きには、経済面の変化も見逃してはならない。欧州の産業化により、今日ほどではないにしろ、各国の経済の相互依存性が強まり、一度恐慌がどこかで起きると、欧州全体にそれが波及してしまう危険性が生まれている。1890年代の恐慌を契機に、ヨーロッパ各国は保護貿易に傾斜する。それにより、貿易量が減少したため、内部で取引量を増加させる目的で、植民地の獲得に各国ともしのぎを削り始める。列強諸国は、スーダンやモロッコなど欧州の外で緊張・衝突してしまう。
しかし、植民地経営は、実は、割がよくない。確かに、鉄や銅、亜鉛、鈴、ゴム、石油などの天然資源は近代化に欠かせないし、それを確保するために植民地を所有すると政策の意味づけを行えるだろう。けれども、植民地経営を進めるほど、入植者も増加し、インフラや学校、病院などを本国並みに整備しなければならず、投資した分に見合う利益をあげるのは非常に困難となる。事実、植民地経営が経済的に成功しているのは英領インドだけという有様である、
湛山は、イギリスが自由貿易を推進したのは「博愛主義」からではなく、自国にとって有益だったからだと言っている。植民地を所有してコストがかかるよりも、自由貿易を利用した方が国としては潤う。その典型が植民地にされた体験を持つアメリカ合衆国である。アメリカは、フィリピンなどを別とすれば、海外植民地を保持しておらず、その獲得にも熱心ではない。1899年、国務長官ジョン・ヘイは、中国に対して、「門戸開放・機会均等・領土保全」の三原則を提示する。これは国の一部を植民地化するよりも、中国市場に入って貿易活動をした方が国益に叶っているという見地からなされている。産業革命の力を存分に発揮するには、植民地経営よりも、自由貿易の方が得策だというわけだ。
このように、湛山の言う19世紀の百年戦争は、ナポレオン戦争に伴う欧州の産業編成の改変により、産業革命とそれのもたらす認識が各国に拡大していった過程である。それは欧州を超え、アメリカや日本にも広がっていく。
しかし、この百年戦争は第一次世界大戦によって幕を閉じる。開戦したとき、それが4年に亘って人類史上かつてない破壊と殺戮を繰り広げる世界規模の大戦争になると予想したものは皆無だったろう。「クリスマスには故郷に帰れるさ」と高をくくって、物見遊山気分で、男たちは戦場へと向かっていく。サラエボ事件は硬直的な同盟関係により連鎖反応的に戦争が欧州全体に波及することは明白である。にもかかわらず、ナポレオン戦争以来、全土を巻きこむような大戦を経験してこなかった人々はそれを夢にも思わない。硬直した同盟関係は敵と味方の戦争遂行能力を判定しやすいため、損害の推算も比較的容易であり、それによって戦争を抑止できるという機能もある。けれども、仮想敵が明確であるだけに、軍拡競争はエスカレートする傾向がある。開戦に至ると、大戦争に発展してしまう。ドイツ外相ベートマン・ボルヴェークは、躊躇しつつ、万策尽きたと判断し、破滅するのを承知で開戦に踏みき。英仏露対独墺では、イギリスが向こうにいる以上、負け戦になることは明らかだったからである。1890年代には、イギリスの工業生産力は、ドイツやアメリカに追いつかれたが、世界各国の国外投資額総計のほぼ半分をイギリス一国で占め、シティは世界金融の中心として活況を呈している。だが、この戦争は彼の祖国の敗戦程度にとどまらず、産業革命の辿り着いた一つの帰結を人々にまざまざと見せつけることになる。
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