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『東方見聞録』から読みとる本質的議論(2008)

『東方見聞録』から読みとる本質的議論
Saven Satow
Feb. 26, 2008

「それで、文章題を『読む』のだって、その世界の構造を『読みとる』ことだと、構造主義者のぼくは考えている」。
森毅『表層的な「読み」なんてどうでもいい』

 最近、政治的話題などをめぐってよく「本質的議論」という言葉を見聞きすることがあります。「給油を継続するかしないかではなく、『本質的議論』を戦わせなければならない」、もしくは「ガソリンが25円下がるとか下がらないとかでなく、もっと『本質的議論』をすべきだ」といった具合です。

 往々にして、結論を急ぐあまり、つまみ食い的な知識・見解を示していますから、そうではないことくらいは想像がつきます。しかし、よくよく考えてみると、「本質的議論」がどういうものを指すのか、あるいはどうやったらそこに到達できるのかが提示されないまま、それが使われていることが多いのに気づきます。

 「本質的議論」が何たるカかを考える際に、よいモデル・ケースがあります。それはマルコ・ポーロの『東方見聞録』です。

 マルコ・ポーロ(1254~1324)が1271年から92年にかけてオリエントで見聞した口述をルスティケロ・ダ・ピサが『東方見聞録』に編纂したとされています。この本は、欧米では、『世界の記述(La Description du Monde)』もしくは『百万(Il Milione)』というタイトルが一般的です。

 けれども、当時からマルコ・ポーロが実際に中国を訪問していたかについては疑問が持たれています。根拠もなく、こんなのは法螺話だという批難だけではありません。理由を挙げて、誰かから聞いた話を自分が行ったかのように話しただけではないかと疑われています。

 中でも、西洋人であれば、当然、驚くはずの中国の習慣が記されていない指摘は説得力があります。

 『東方見聞録』には、箸やお茶に関する記述が見当たりません。今でも、箸は東(南)アジア特有の食事マナーとして、その外の人たちから好奇な目で見られることがあります。13世紀であれば、なおさらでしょう。

 また、お茶は、長い間、日本を例外として、中国の外に伝えられません。16世紀頃からお茶がヨーロッパに紹介され、18世紀には英国でブームになっています。

 アヘン戦争(1841年~1842年)の勃発の一因もお茶です。英国国内で喫茶がブームとなり、清から大量のお茶を輸入し、イギリスは巨額の貿易赤字を抱えます。けれども、英国は中国に輸出を伸ばせません。そこで、貿易赤字解消のためにインドを使ってアヘンの三角貿易を行います。これだけの産品に西洋人がまったく関心を持たなかったというのは考えられないというわけです。

 しかし、マルコ・ポーロが実際に中国に行ったことがあるか否かは、彼の研究者を除けば、本質的議論ではありません。

 マルコ・ポーロが中国に到達していたとしましょう。イタリアの一商人がユーラシア大陸の東端に達し、17年過ごした後に、帰郷したことになります。それはまさに、当時、東西間で人・物・情報の交流が盛んだったから可能になったと言えます。

 逆に、マルコ・ポーロが中国に足を踏み入れていなかったとしましょう。人づてであっても、これほどのものが書けたのですから、東西の人・物・情報の交流が活発だったからできたことになります。

 このように、いずれにしても、東西の人・物・情報の交流が盛んだった時代という点は変わりません。こう吟味すると、マルコ・ポーロの疑惑の真偽は本質的議論でないことがわかります。『東方見聞録』はその時代の本質を表象しているのです。

 本質的議論は現象の背後にある意味を洞察し、それを踏まえた論議のことです。そうなると、全体像をつかみ、その位置付けを行わなければなりませんから、基礎的・体系的・総合的知識・認識が不可欠です。本質的議論には、そのため、ポイントを押さえて、要約する能力が必要となります。全体を無視ないし軽視してそれと関連把握せず、細部に拘泥するのは、不毛な議論と呼ばざるをえません。

 「自分たちだけいい思いをしやがって!けしからん奴等だ」と感情的に激昂したり、「これには裏があるはずだ」と陰謀めいた直観的な見立てをしたりすることは短絡的です。また、経済犯罪が発覚すれば、「戦後社会の拝金主義の現われ」、未成年による凶悪犯罪が起きると、「戦後教育の個人主義の行き過ぎ」などという意見も本質的ではありません。世間の通念を判断に取り入れているだけだからです。感覚的です。

 本質的議論は、言って見れば、「急がば回れ」の熟議にほかなりません。そういった感情的・直観的・感覚的な反応が、なぜ、どのように生じるのかの構造・メカニズムを読みとる方が、むしろ、本質的議論でしょう。
〈了〉
参照文献
マルコ・ポーロ、『簡約東方見聞録』全2巻、宕松男訳、平凡社ライブラリー、2000年
森毅、『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』、青土社、2006年

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