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トーマス・エジソン、あるいは電気の世紀(2)(2001)

2 Solid State Survivor
 こういう経緯を経て到来した電気の時代において、科学技術に関するビジネスで成功している手法は、意識していようとしまいと、多くの点で、電気を愛してやまないエジソンに起源を持っている。

 第一に、エジソン以後、産業界では企業の中に研究所をつくり、自社のために科学的研究を方向づけ、さらに研究を個人から集団へと移行させている。マックスウェル分布からギッブス分布へというわけだ。Walkmanを開発した企業名はわかっても、開発者の名前を知るものは少ない。新たな製品の研究開発は、企業内でプロジェクト・チームで行うものだからだ。
 
 研究者グループは集団的匿名に徹しなければならない。エジソンは、ニュージャージー州のメンロパークに、世界初の工業研究実験室である工場を建てる。ちなみに、工場を建てる時に使われるコンクリート工法も建築の分野におけるエジソンの発明の一つである。この工場の建設はたった一人で小さな実験室に閉じこもる発明家の時代は終わり、複数の専門家がそれぞれの得意領域に力を発揮して、大きな発明に向かう組織の時代が始まったことを告げている。ベルの電話の改良や蓄音機、電灯の発明には、別の助手が担当する。エジソンは、壮大なElectric Magic Orchestraの指揮者として振舞っている。
 
 エジソンが発明家として成功したものの、経営者として必ずしも成功しなかったことは、皮肉ながら、20世紀がまさに電気の世紀だと物語っている。熱力学や機械工学の世界では、高等教育を受けていない発明家たちが自らの才覚でのし上がっていくことが可能だったが、電気や化学ではそうはいかない。エジソンは白熱電球を発明し、発電所も建設している。
 
 ところが、家庭や事務所、工場などに送電するとなると、電力消費が刻一刻不安定に変化するため、それを見越し、緻密に計算、さまざまな整備を行わなければならない。加えて、フィラメントの電気抵抗もそれに合わせて、変更する必要に迫られる。エジソンにはそんな能力はない。電気にかかわる事業では、電磁気学や数学に関する体系的な知識が不可欠である。高等教育履修者がそこでは求められると同時に、彼らの有力な就職先として企業の研究所が登場する。彼らはもはや発明家と呼ばれない。「技術者」である。長らく分離していた科学と技術が20世紀になってこのように融合する。エジソンの成功と失敗にはこういう功績もある。
 
 今の商品開発において、個人の能力よりも、チーム・ワークが重要だということは、IC開発が典型的に示している。IC開発は、1956年にイギリスのW・A・ダンマーがトランジスタから発展した集積回路の開発ができると予測したのが最初だとされている。しかし、特許となると、アメリカのジャック・キルビーとロバート・ノイスがほぼ同時期に出願し、その優先権を争ったものの、結局、ノイスにあるという判決が下される。ノイスは、その年、ウィリアム・ショックレーが設立したショックレー・トランジスタ社の研究所に加わる。
 
 ショックレーはトランジスタの発明により1955年のノーベル物理学賞に輝いている。ところが、ショックレーの狭量さと傲慢さに嫌気がさして、ノイスを含め研究員が八人も辞めてしまう。”Eight Men Out”(Eliott Asinof). ショックレーは彼らを「八人の裏切り者」と呼んで罵ったが、彼自身は、70年代、黒人が遺伝的に劣等であると主張し、激しい非難にさらされている。彼らは、1957年、フェアチャイルド・セミコンダクター社を設立、今日のIC技術の根幹となるプレーナー・トランジスタを開発する。だが、このノイス以外の七人の名前は一般にはあまり知られていない。
 
 その後、ノイスはゴードン・ムーアやアンドリュー・S・グローブらと共に、1968年、Intel Corporationを創設する。Intel社は、現在、CPUのシェアでは世界最大を誇ると同時に、WINTEL TWINSの一方であるMicrosoft社と並んで、最も人使いの荒い企業として知られている。このように20世紀の科学技術の歴史は集団的匿名によって形成されている。“We cannot re-write the whole of history for the purpose of gratifying our moral sense of what should be” (Oscar Wilde “Pen, Pencil and Poison”).
 
The strangeness of the strangers
Second hand teenagers
Face to face they face
A chemical race.
 
Minds blind
Empty eyes
Blank tongues ablaze
No names
Breath in dreams
Stand in lines, cracked smile.
Life to life collides
Solid state survivor.
 
And Marilyn Monroe’s not home
So I sit alone with the video
And Tokyo Rose is on the phone
Dressed to kill in her skin tight clothes
Here’s to a humanoid boy
Smiling, happy and void
Solid state survivor.
(Yellow Magic Orchestra “Solid State Survivor”)
 
 さらに、IC自体がそうした認識を体現している。ネットワーク社会においては、その製品がすぐれているからと言って、必ずしも普及するとは限らない。技術的によいことと多くの人々が使うこととは、言語と同様、違う。ネットワークでは、ディファクトスタンダードこそが重要である。NECの技術開発のスタッフはマイクロプロセッサ・インテル8080の回路に不備を見つけ、改良したが、すでに普及しているタイプとの互換性がなくては売れないという営業サイドの注文により、それをもとに戻している。今や「社会の歯車」という『モダン・タイムス』以来の比喩に代えて、ネットワークに組みこまれてしまった「社会のIC」という比喩を用いなければならない。
 
 言うまでもなく、開発者に対して、所属していた企業以上に、特許権や著作権が認められるべきである。世の中に名前が知られることと経済的報酬は別である。製品によって企業が得た経済的利益は開発者に特許権や著作権を認め、報酬として十分に与えなければならない。
 
 「コンピューターで、フォートランってあるでしょう。いちばんよく使われるプログラム言語のもと。あれをつくった男、もともと金持ちで、しょうがないからIBMが小切手帳プレゼントして、好きに使えというた。たいして使い道もなくて、山小屋でひとりで暮らしているという。それでも、衛星放送を三つほど持って、世界じゅうと山小屋で交信している。早稲田にいる友だちが、そいつといっしょにめし食って、大金持ちのくせに、『このエビ、値段のわりにまずいな』ってふたりでしゃべったとかいうてたよ」(森毅『悩んでなんぼの青春よ』)。
 
 次に、エジソンは企業経営においてメディアの役割を重視し、発明に関する資金を調達するために、メディアを利用している。発明王はメディアがことのほか好きである。若き日のジョージ・バーナード・ショーも、ロンドンで、エジソンの電話の宣伝を行っている。「私はエジソン氏のロンドンでの名声の基礎を築いてやった」。G・B・ショーの所属していたフェビアン協会では、イデオロギーが異なる相手を論破し、説得する四つの方法──argue, debate, lecture and propagandize──を会員に教えていたが、エジソンは、少なくとも、その一つではショー以上である。
 
 「La palpitazione di centomila VOLTS(10万ボルトの鼓動)」(坂本龍一=細川周平『未来派2009』)を持つ「メンロパークの魔法使い」と呼ばれたエジソンの宣伝は、サーカスの謳い文句と同様、インチキくさいまでに派手である。「エジソンには明らかに、いくぶん俳優や興行師的なところがあった」(マシュウ・ジョゼフソン『エジソンの生涯』)。Courtesy costs nothing.メディアから身を隠すなど、20世紀を生き、なおかつ成功しようと狙っているものには、エジソンにしてみれば、理解不能であり、もってのほかだ。メディアに対して露出狂であるくらいの公開性が望ましい。メディアを敵と見なしてはいけない。味方にすべきだ。
 
 エジソンのメディア利用法は、今から見ても、巧みであると同時に、危ないものである。魔法使いは吹聴するのがたまらなく好きで、みんなから注目されることは、エジソンにとって、何とも言いがたい快感である。エジソンは、今自分がやろうとしている発明を静かに胸の内に閉まっておくことができない。仕上がってもいない段階で、その発明の予告を発表してしまう。これはスポンサーへのラブコールであり、自分自身を励ますためでもあったが、同じ発明をしようとしている人々への牽制でもある。新聞記者に怪しげな内部情報をリークしたことも一度や二度ではない。
 
 「ジンジャー(Ginger)」は、明らかに、エジソン流の宣伝方法がとられている。デカリサーチ社を経営するディーン・カーメンが発明したジンジャーは、「Ginger Japan」のサイトで情報が手に入るものの、正体がまったく明らかにならないまま、一人歩きしている。もともとエジソンは新聞記者志望である。ハックルベリー・フィンの不適さを持った売り子の頃に、鉄道会社のニュースやダイヤ変更、ちょっとした政治記事を載せた新聞を一人で作製し、社内や駅の売店で販売している。経済的には成功しなかったが、エジソンがメディアの重要性を早くから認識していたことを知らせるエピソードである。
 
 なお、2001年12月3日、ジンジャーが1台3000ドルで、1日の維持費がわずか5セント以下の電動スクーター、「ゼクウエー-」であると判明する。ゼクウエーにはアクセルもブレーキもついていない代わりに、自動姿勢制御装置が内蔵されており、操縦者の姿勢に反応して動くという製品である。
 
 もっとも、そのエジソンがメディア自体を変えることになる。それはグーテンベルク以来の革命である。マーシャル・マクルーハンやアルヴィン・トフラーといったアングロ・アメリカのフューチヤーリストの予言はエレクトロニクスに基づいている。マスメディアはすたれ、ビデオ・ターミナルの前の個人が自由に情報を選択するようになるとマクルーハンは予測する。これはネット社会そのものだ。グーテンベルクの印刷機は著作権や印税の制度を生み出したが、ネットでは、著作権や販売料金は期待できず、バナー広告など広告費が収入源となる。広告の重要性がより増している。エジソンはこうしたエレクトリック・ジャーナリズムの基礎を築いただけでなく、体現している。
 
 メディアに対する関心とその変化への感受性はエジソンに言葉まで発明することを思いつかせる。「Hello」という言葉をつくったのもエジソンである。”Hello, I love you, Won’t you tell me your name. Hello, I love you. Let me join your game”(The Doors ”Hello, I Love You”).それ以前には、「Ahoy」など何種類の言葉が用いられ、統一した呼びかけ声はない。エジソンは、幼い頃にかかった猩紅熱のため、耳が若干不自由である。エジソンはデジタル・デバイスを許さない。ハイカットとローカットされるため、電話の周波数帯域が狭いので、肉声よりも、電話を通した声は聞きとりにくくなる。エジソンは、聴力の弱い人でも電話で呼びかけを聞きとれるように、「Hello」という電話の周波数特性にあまり影響されない言葉を創造している。
 
 「電話室では、どちらを見ても、たくさんに分けられた小室のドアが開いたり閉まったりしていて、そこの喧騒ぶりといったら、もう気がへんになるくらいだった」(フランツ・カフカ『アメリカ』)。今では、どんな地方に住みながらも、電話やファックス、インターネット、衛星放送によって世界から情報を得ることができるし、主要先進国では、携帯電話は一人一台の時代に突入している。
 
 電話が日本に伝えられたのは1877年、民間への普及が進められたのが1890年である。東京─横浜間で、最初の電話交換開始当時の加入者は東京で155人、横浜で45人である。電話に限らず、エジソンの発明は目と耳の拡大である。古代ペルシアのアケメネス朝において、ダリウス一世が各州を巡察・報告させるために、王直属の監察官を任命、彼らは「王の目・王の耳」と呼ばれている。エジソンは「大衆の目・大衆の耳」を提供する。レオポルド・ブルームも「大衆の目・大衆の耳」を雇いたいと思ったかどうかは定かではないとしても、ヘンリー・フラワーには必要だったろう。目や耳を使ったコミュニケーションも挨拶から始まる。われわれはあまりにもエジソンの世紀を生きている。
 
 先物取引的な売り込みは、エジソンに限らず、20世紀の企業経営の分岐点になることが少なくない。Microsoft社はWindows95販売の時、さまざまな手を使い、狂乱状態を引き起こしたが、すべては1980年に遡る。組織向けコンピュータ業界では、”Gulliver”と呼ばれたIBMであるけれども、パソコン部門では遅れをとり、 スティーヴ・ジョブス率いるApple社を筆頭に急成長するパソコン市場に進出するために、MS社と接触する。
 
 IBMがMS社に話を持ちかけたのはほんの偶然にすぎない。慈善団体ユナイテッド・ウェイの全米理事会の後で、ビルの母Mary Gatesが理事の一人だったIBM会長ジョン・オペルに話しかけたことがきっかけである。IBMとの交渉に、ポール・アレンとスティーヴ・バルマーと共に臨んだビル・ゲイツは、IBMの苦境を改善するためには優秀なOSが必要であり、MS社は「DOS (Disk Operating System)」と命名したOSを用意していると持ちかける。
 
 OS開発は極めて難しい。当時、社員わずか32人のマイクロソフト社はOSを開発していなかったし、その能力もない。これは完全にはったりである。交渉後,共同経営者のポール・アレンは急いで知り合いを通じて探し回り、シアトル・コンピュータ・プロダクツ社のティム・パターソンから86-DOSもしくはQ-DOSと呼ばれるOSを5万ドルで買い取る。納期に間に合ったためしがないことで知られるMS社だが、この時ばかりは、さすがに守らなければならない。Q-DOSに手を加えて,MS-DOSとしてIBMに転売している。
 
 IBMは、とにかく早く発売することを急いだため、オープン・プラットフォームのパソコンを製造すると決定する。1981年になると、100社あまりの企業──松下やSONY、NEC──が続々とMS-DOSのライセンスを取得、IBM互換機の生産を始める。MS-DOSがコンピュータ業界で標準化することになり、MS社に莫大な利益をもたらす。こうした手口はMS社に限ったことではないが、IT業界の中でも、同社が最も得意としているのは確かである。
 
  XEROXは、1970年代に、マウスの使用やGUI環境、ネットワーク機能を備えたパソコンAltoを開発したものの、経営陣が商品化を認めない。ある幹部は、会議中、Altoの開発者たちに「『ネズミ』なんぞをXEROXに売れというのかね」と問いただしている。Apple社は、この結果に激怒・失望した研究員を迎え、1984年、Macintoshを発売する。MS社も、1986年、Macintosh OSと非常によく似た仕様のWindows1.0を開発、1993年に発表したWindows3.1によって、市場を席巻することになる。
 
 「XEROXのパロアルト研究所(PARC)は、今日広く使われているパーソナル・コンピューティングに関する基礎的なアプローチの礎を築いた。しかし、その研究に費やされた多額の資金と努力にもかかわらず、XEROXはそこから利益を得ることができなかった。これはビジネスにとっていい教訓だ。適正な人材を集め、正しい方法で仕事をさせることができるならば、これほどいい投資の対象はない」(ビル・ゲイツ)。IT業界では、合法的な他社の製品の盗みが重要な手法となっている。WindowsはMac、Internet ExploreはNetscape Navigatorの盗みである。
 

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