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マディバ(2013)

マディバ
Saven Satow
Dec. 08, 2013

「肌の色や育ち、信仰の違いを理由に他人を憎むように生まれつく人などいない。人は憎むことを学ぶのだ。もし憎むことを学べるなら、愛することも学べる。愛は憎しみより人間の心に届くはずだ」。
ネルソン・マンデラ『自由への長い道』

 生きられた伝説が語られる伝説へと変わる。そんな時が必ず来るとわかりながらも、その報に接すると、喪失感の大きさに打ちのめされる。2013年12月5日、マディバことネルソン・マンデラ元南アフリカ共和国大統領が亡くなる。アパルトヘイトをめぐる闘争と融和の95年の生涯である。有名無名を問わず、世界がその死を悼んでいる。その死に際して、これほど分け隔てなく哀悼が寄せられる指導者は近年いない。

 もちろん、マディバもこの世に生を受けた時からそうだったわけではない。

 ネルソン・マンデラは、1918年7月18日、南ア南東部のトランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれる。ウィトワーテルスランド大学法学部を卒業、近郊で働きながら弁護士資格を取得する。

 近代主義を推進したのは、歴史的に、教養市民層、すなわち専門職である。医師や大学教授、教員、ジャーナリスト、官僚、弁護士などがそれに当たる。トルストイ主義に共鳴して南アで民族解放運動の第一歩を歩み始めたマハトマ・ガンジーも弁護士である。マディバも出発点においてはそうした例に漏れない。

 反アパルトヘイト運動に取り組み始めたのは学生時代からである。在学中の44年にアフリカ民族会議(ANC)に入党、その青年同盟を創設し、執行委員に就任する。50年、ANC青年同盟議長に就いている。

 52年8月にヨハネスブルグで、オリバー・タンボと共に黒人弁護士初の法律事務所を開業する。同年12月、ANC副議長に就任している。

 61年、当局の弾圧の強化に伴い、ANCは武装闘争へと路線を転換する。副議長は、そのための組織「ウェコント・ウェ・ㇱズウェ(民族の槍)」の司令官に就任している。部隊は破壊工作やサボタージュ作戦、ストライキを実行する。

 マンデラは地下に潜り、変装して警察の眼を逃れ、各地の集会に参加している。けれども、62年8月、密告により逮捕される。64年に国家反逆罪で終身刑となり、ケープタウン沖に浮かぶロベン島に収監される。

 この公判は「リボニア裁判」として知られる。そこでマンデラは被告の一人目として法廷に立ち、長い陳述の後、次の有名な弁明をする。

 「行ってきたすべてのことは、南アフリカにおける私の経験と誇りとする自身のアフリカ人としての生い立ちに基づくものであります。私は、すべての人々が調和の中に、平等の機会を持って、共に生きる民主的で自由な社会という理想を心に抱き続けてきました。その理想のために生き、実現を見たいと願っています。しかし、裁判長、もし必要とあれば、その理想のために私は死ぬことも覚悟しております」。

 これが生きられた伝説の最初だったと言える。収監後も、反アパルトヘイト運動の団結と継続を訴えている。

 マンデラがまさにマディバになるのは80年代からである。ネルソン・マンデラの名は、この頃から、反アパルトヘイトの象徴と世界的に認知される。国内外の闘争がマディバ釈放を共通の目標として活発化する。彼の存在は解放運動において人々の絆そのものである。混乱や暴力、苦難に遭ってもマディバを通じて人々がつながり、闘争が続く。

 それは南アをめぐる事態の打開の鍵はマディバが握っていることを意味する。南アは対外的には国交断絶や経済制裁、国内的にはストライキや暴動の頻発により経済が危機的状態に陥る。85年、追いつめられた財界は国外に亡命中のANC幹部と交渉を始める。

 また、ピーター・ボタ大統領もリボニア裁判の全被告に条件付きの保釈を提案している。89年になると、彼はネルソン・マンデラ受刑囚を大統領府に招待し、会見するに至る。アパルトヘイト体制の崩壊はもはや誰の目にも明らかだったが、この保守主義者は最後まであがきを見せる。マディバは、それを見透かすように、政府とANCの交渉の場の設置を提案するにとどめる。

 89年8月、ボタは病気を理由に大統領職を辞任、9月にフレデリック・デクラークが後任に選ばれる。新大統領は従来の政府・与党の方針を転換、事態は急変する。90年2月、ネルソン・マンデラ受刑囚は無条件で保釈される。獄中生活は27年間に及んでいる。デクラーク政権は、アパルトヘイトに関連する法律の全廃、ANCを始めとする政治団体の合法化、政治犯の釈放、亡命者の無条件帰国許可、非常事態宣言の解除、国内治安法の廃止、暴力の即時停止などを約束・実施している。

 91年12月から政府は19の政党と共に民主南アフリカ会議を開き、新憲法制定の討議を進める。93年、国連総会で対南ア制裁解除が決議される。マディバとデクラーク大統領はノーベル平和賞を受賞する。94年、全人種参加の制憲議会選挙が実施される。世界が注目する選挙を台無しにするわけにはいかないという思いが人々の間で共有され、活動は穏やかに行われている。党派の勝利よりも選挙の成功を優先したというわけだ。結果はANCが圧勝、ネルソン・マンデラ大統領が誕生する。

 実は、この選挙結果には注目点が他にもある。全400議席のうち、女性議員が106人を占めている。この比率は、当時、世界で7番目に高い。

 マディバが不世出のリーダーであるのは、その存在自体が人々の間に融和をもたらす点である。長い獄中生活を送った指導者の中には、報復や暴力を扇動する者も少なくない。また、偉大な活動家や革命家であっても、権力の座に就くと、独裁者へと堕するケースも少なくない。さらに、和解を呼びかけながらも、それが実現できずに終わる指導者もいる。

 一方、マディバは融和を一貫して唱え続け、それを人々が受け入れている。これは近代史上でも稀有である。デクラーク元大統領は、13年12月7日付『朝日新聞』によると、97年に行われた同紙とのインタビューで、「マンデラがいてくれてよかった。権力の平和的以降の受け皿として信頼できる人物は彼以外いなかった」と述べている。

 マディバは発言するのみならず、あらゆる機会で融和が浸透するように行動している。一例が1995年に開催されたラグビーW杯南ア大会だろう。ラグビーは従来白人のスポーツであり、その代表チームを応援することに黒人たちにはわだかまりがある。マディバはこの大会を全民族融和の機会と捉え、黒人たちを説得、代表メンバーにも非白人との交流を説く。大会は成功し、民族融和が進む一つの契機となっている。この辺の事情はクリント・イーストウッド監督による映画『インビクタス/負けざる者たち』(2009)に詳しい。

 英雄的指導者は前に出て、自分の信念に人々をぐいぐい引っ張っていこうとしがちである。カルトの教祖まがいも少なくない。ところが、マディバにはそうした独善性や顕示欲、功名心が感じられない。これだけのカリスマ性を持ちながらも、リーダーシップの運用は調整型である。

 マディバにとって融和は調整のことである。相互不信を一気に解決するのではなく、粘り強くその間の調整を続ける。そうした繰り返しの蓄積が信頼をもたらす。頭ごなしに相手と和解しろと言ったところで、せいぜい表面的に終わるだけだ。融和は思考や話し合い、協働を通じて内面化され、初めて人々に受け入れられる。調整の政治が彼のそれである。

 マディバは大統領に就任する時、自分の任期を一期だけと約束し、99年、その通りにする。これが以後の政権移行に与えた影響は大きい。途上国では政権交代の際に混乱や衝突が生じることが少なくない。一方、南アでは、選挙とその結果受容が比較的スムーズに行われる。有力政治家の権力闘争が暴力に発展することはない。マディバの存在が政治規範となり、人々の間を信頼させ、結びつける。

 それだけに、マディバの死は最も確かな信頼の絆を失ったことを意味する。その死去は南アのみならず、世界にとっても大きい。存在するだけで人々を結びつけられる指導者など稀有だ。

 けれども、マディバは「理想」を遺している。それは「すべての人々が調和の中に、平等の機会を持って、共に生きる民主的で自由な社会という理想」である。マディバの融和の実践もこれに立脚している。確かに、国際社会が目指すべき目標であり、基盤とする共通認識である。それを共有して、より良い社会を共に実現しようとできる。死してもマディバは人々をつなげている。
〈了〉
参照文献
ネルソン・マンデラ、『自由への長い道─ネルソン・マンデラ自伝』上下、東江一紀訳、日本放送出版協会、1996年
宮本征興他編、『新書アフリカ史』、講談社現代新書、1997年

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