17世紀の日系人(2014)
17世紀の日系人
Saven Satow
Jul. 19, 2014
「すべてはすでに遠い。いまに生きることをこそと、ドラムはなお打ち鳴らされていた」。
城山三郎『望郷のとき』
経済小説で有名な城山三郎に、歴史を舞台にした『望郷のとき─侍・イン・メキシコ』(1968)という作品がある。これは、副題が示しているように、17世紀のメキシコで暮らした日本人武士の物語である。
伊達正宗は、1613年10月28日、家臣の支倉常長を代表に総勢180名の使節団をメキシコ経由でエスパーニャへ送る。団の構成は日本人140名とスペイン人及びメキシコ人乗組員・修道士40名である。サン・フアン・バウティスタと名づけたガレオン船で月の浦(現石巻市)を出港し、途中犠牲者を出しながら、3カ月かけてメキシコのアカプルコに到着する。1614年1月のことである。なお、当時、メキシコは「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」と呼ばれている。
メキシコ経由の行程を選んだ理由は、日本とヌエバ・エスパーニャの間に直接の交易関係を樹立するためである。メキシコの地政学的・経済的な重要性が日本にも伝わっている。実際、正宗主催以外にもメキシコへ使節団が向かっている。また、メキシコの鉱山開発も知られている。領内に多数の鉱山を有しているため、正宗にはその技術を会得して開発に利用したいという思惑がある。
ただし、使節団派遣は正宗自身が構想してはいない。フランシスコ修道会のソテロ宣教師が持ちかけている。彼は、他の教会会派との競争で優位に立つため、より多くの宣教師が必要であると判断、本国に派遣要請を考える。正宗はキリシタンの持っている知識・技術に関心があり、領内での布教も許可している。ソテロはそんな正宗に働きかけ、使節団派遣が実現する。
一行は3月下旬にメキシコ市に入り、副王や司教らから歓迎される。団員の中から市内のサンフランシスコ教会で洗礼を受ける者も現われる。3カ月滞在した後、ベラクルスよりスペインへ向かうことになったが、常長と随行する許可が下りたのは宣教師ソテロを含め20名のみである。残りの100人あまりはアカプルコに留め置かれることになる。
常長の後にも正宗はメキシコに200名規模の使節団を送っている。しかし、この時は犠牲者が多く、たどり着いたのは半数だったとされている。
常長は、1615年、スペインに到着、国王フェリペ3世と謁見を果たす。同年秋にはローマ教皇パウロ5世との拝謁が実現、直接交易の許可と宣教師派遣要請を旨とする正宗の親書を渡す。彼はローマの公民権を与えられる。その後、マドリードに戻り、常長は国王臨席の下で洗礼を受けている。慶長遣欧使節は日本人が欧州で通商・外交交渉を行った初めてのケースである。
使節団は1617年にメキシコに戻り、翌年、アカプルコを出港し、マニラへ向かう。そこで、国王からの返答を待つが、それが着かないまま、支倉使節団は1620年に帰国する。目的を達成できなかった彼らは、国内でキリスト教の全面禁止と鎖国政策が実施されていることを知る。
慶長遣欧使節は、その後、忘れられる。再び見出されるのは、19世紀後半、岩倉遣欧使節が訪欧した際にその事跡を目にした時である。
常長の帰郷の際に、何人が共に戻れたのかは定かでない。はっきりしている事実は欧州や中南米に残った人がいることだ。
スペインには「ハポン(Japan: Xapon)」、すなわち「日本」という家族名の人が少なからずいる。彼らは使節団の関係者の子孫だとされている。1996年のミス・スペインであるマリア・ホセ・スアレスがよく知られたこの日系スペイン人である。
中南米にも17世紀日系人の子孫がいる。城山三郎の『望郷のとき』は二部構成になっており、後半は作者が彼らをメキシコで探しに行く旅行記である。ただ、それは、支倉使節団と同様、失敗に終わっている。
実は、現在、17世紀の中南米に日系人がいたことは確認されている。しかも、彼らには支倉使節団と別ルートで渡った人たちも含まれている。
使節団が日本を出港した1613年、ペルー副王国で住民調査が行われ、20人程度の日本人がいたと記録されている。しかも、彼らは副王がメキシコから異動する際に、同行してきたことがわかっている。
当時、フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコ間でガレオン船が往来している。東南アジア各地に日本人町が建設されていたように、多くの日本人が海を行き来している。1606年のマニラ在住の日本人は1500人を超えていたとされる。関が原の頃の日本列島の人口は1200万人程度と推定されているから、かなりの数の在外邦人がいたとわかる。ペルーの日系人もそうしたオーバーシー・ジャパニーズの中の誰かだったと推測されている。
さらに、17世紀の日系人には、名前が残っている人もいる。大泉光一青森中央学院大学教授の『メキシコの大地に消えた侍たち』によると、「ルイス・デ・ベラスコ」や「フアン・アントニオ」、「ルイス・デ・エンシオ」、「フアン・デ・パエス」などと知られる彼らは日系人である。中でも、当時ヌエバ・ガリシアと呼ばれていたグアダラハラで活躍した二人の商人がよく知られている。彼らは支倉使節団と関係があったのではないかと推測されている。
一人は、1595年生まれとされるルイス・デ・エンシオである。彼の場合、「福地蔵人」という日本名までわかっている。彼は、1634年、フランシスコ・デ・レイノソというスペイン人の小売商人と共同出資する契約を交わす。その際、「福地蔵人・る伊すていん志よ」および「るいす福地蔵人」と署名している、漢字で日本名、ひらがなで洗礼名を記しているのだから、この人物が日本人だと推定できるだろう。
4年後の1638年には、エンシオは契約を更新している。最初の契約で彼は労働力を提供しているだけだったが、この時には340ペソを出資している。その後、ココナッツの酒とメスカルの独占販売権を取得し、実業家として成功する。メスティーソの女性と結婚、10人の子をもうけている。
17世紀の日本で苗字御免は武家や富裕層などに限られており、個人名から武士階級と推測されている。また、伊達藩領内の方言では「え」を「い」と発音する。付け加えると、その地域では「ㇱ」と「ス」の発音の区別が曖昧である。この特徴を踏まえれば、「シオ」を「シヨ」と記しているのも不思議ではない。そのため、彼が慶長遣欧使節の一員ではなかったかと推測されている。少なくとも伊達藩出身の武士である可能性は高い。
もう一人はファン・で・・パエスである。彼はエンシオの娘と結婚している。大阪出身で、1609年頃の生まれとされ、マニラ経由でやって来たと見られている。エンシオが支倉使節団の関係者であれば、彼もその事情を知っていると思われる。晩年、エンシオは事業に失敗したが、この義理の息子はグアダラハラ一の金持と舅以上の成功を収め、その老後の面倒を見ている。なお、エンシオは1666年に推定71歳で亡くなっている。
17世紀の日系人位ついて今後研究が進んでいくだろう。もちろん、かつてこんな日本人がいたととり上げるだけなら、ナショナリスティックなナルシシズムかジャーナリスティックなスナップショットでしかない。
大航海時代は史上初めて地球がグローブだと本格的に意識され、人々に行動を促している。だが、それはヨーロッパ人だけではない。日本人も大海原に船を出している。今日、グローバリゼーションからグローバリティの時代へと移りつつあり、その歴史研究は示唆を与えてくれる。「グローバリティ(Globality)」は、国境や地域の境界を越えて経済や政治、文化、環境などが密接に関連している状態を意味する。17世紀の日系人を考察することは大航海時代という場が人々とどのような相互作用をしていたのか明らかにする。言説の確認できない事象であっても、行動を探究することで時代という場と人との相互作用の歴史を考察できる。17世紀の日系人研究はこれから求められる場と相互作用の歴史学に貢献することになるだろう。
〈了〉
参照文献
大泉光一、『メキシコの大地に消えた侍たち─伊達藩士・福地蔵人とその一族の盛衰 [単行本]』、新人物往来社、2004年
城山三郎、『望郷のとき─侍・イン・メキシコ』、文春文庫、1989年
メルバ・ファルク・レジェス=エクトル・パラシオス、『グアダラハラを征服した日本人―17世紀のメキシコに生きたフアン・デ・パエスの数奇なる生涯』、服部綾乃他翻訳、現代企画室、2011年
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