由紀さおりのために(2011)
由紀さおりのために
Saven Satow
Dec. 15, 2011
「もちろん、辞めたいと思ったことだってあります。でも、そういうときに必ず歌にかかわる何かが起こった。歌に救われた。だから今はもう私の人生は歌うことが使命なのだと思っています」。
由紀さおり
何も驚くことはありません。当然の現象が起きているだけです。
由紀さおりがアメリカやイギリスでブレークしています。佐藤清文という文芸批評家はこう言っています。「私はこれを20世紀からずっと待っていた」。
最大の理由は、もちろん、由紀さおりのボーカルです。涼やかで、軽やか、奥行きのある乾いた透明なあの歌声です。なおかつ、姉の安田祥子と比べて、由紀さおりの歌声には流行歌手の雰囲気があり、庶民臭さがあります。それが体現している序は抒情です。
抒情は、視覚的・聴覚的な直接性に基づいていますから、透明感がなければなりません。湿っぽさと無縁です。涙は透明度を落とす濁りでしかありません。澄んでいまので、その世界は軽やかです。その透明度は、バイカル湖がそうであるように、深さによって体感できます。奥行きのある歌声はその果てまで透明だと感じさせるのです。
こうした奥行きを備えた透明感のあるボーカルは、英語圏のポップ・ミュージック・シーンでは非常に稀です。アート・ガーファンクルくらいでしょう。その高貴な歌声は喧騒の60年代の社会・音楽に静寂をもたらしています。その比類なきボーカル・テクスチュアは当時のロック界のムーブメントやトレンドとはずれていましたが、それを含めたより広いポップ・ミュージックの勢力やファンを結びつける役割を果たしています。
コーエン兄弟は映画『ディボース・ショウ(Intolerable Cruelty)』(2003)でサイモン&ガーファンクルの曲を登場人物たちに歌わせています。このセンスはさすがだと言わねばなりません。これは離婚訴訟専門の男性弁護士とバカな金持ちの男を食い物にする女性を主人公としたラブ・コメディです。映画『卒業』を踏まえ、そういう映画でサイモン&ガーファンクルを使っているのです。
こう考えてくると、今回の由紀さおりのブレークもさることながら、坂本九の『上を向いて歩こう』が世界的に大ヒットした理由も理解できるでしょう。透明度の高いボーカリストが世界には少ないからです。
このタイプのボーカリストは、先にガーファンクルでも触れましたが、ジャンル横断が可能です。これがそのアーティストの感性に依存してなされたなら、つまり思いつきによるだけなら、自己完結な試みに終わってしまいます。けれども、各勢力やファンが分断された状況を結びつける必要性を時代や社会が求めるときであれば、話は違います。それに答えるのはその歌声しかないのです。
1969年の諸ジャンルのヒット曲をカバーしたアルバムにより由紀さおりが評価されているというのもうなずけるでしょう。
実は、日本にはこうした透明度の高いボーカリストが少なくないのです。他にも、『赤ちょうちん』の南こうせつ、『思えば遠くへ来たもんだ』の武田鉄矢、『赤い花白い花』の赤い鳥、『結婚するって本当ですか』のダカーポ、『夏をあきらめないで』の研ナオコ、『追いかけてヨコハマ』の桜田淳子などいくらでも曲を挙げられます。世界は彼らを待っています。
ただ、明らかに80年代以降からは減っています。奥行きがなかったり、濁りがあったり、非力だったりするボーカリストが増えています。ファンが住み分けを好んだからでしょう。
余談ながら、世界で最も受容される可能性が高いボーカリストは『愛のメモリー』の松崎しげるです。この曲は中南米はもちろん、インドや中東、アフリカに持っていっても、絶賛されるでしょう。世界はカラオケで自分でも歌えそうな程度のボーカルを求めていません。圧倒的なものに惹かれるのです。
今、世界が愛しているのは由紀さおりです。いわゆるジャパン・クールやJポップではありません。アメリカを始めとして世界は苦境にあります。お互いに反発したり、なじりあったり、不信感にとらわれたりしています。そんな分裂含みの世界は、結びつけの効果をもたらす由紀さおりの透明な歌声を必要としています。由紀さおりは歌に救われ、世界は由紀さおりの歌声に救われつつあるのです。「愛し合うその時に、世界は止まるの。時のない世界に二人は行くのよ…」
死んでもあなたと 暮らしていたいと
今日までつとめた この私だけど
二人で育てた 小鳥をにがし
二人で書いたこの絵 燃やしましょう
何が悪いのか 今もわからない
だれのせいなのか 今もわからない
涙で綴りかけた お別れの手紙
出来るものならば 許されるのなら
もう一度生まれて やり直ししたい
二人で飾った レースをはずし
二人で開けた 窓に鍵をかけ
明日の私を 気づかうことより
あなたの未来を 見つめてほしいの
涙で綴り終えた お別れの手紙
涙で綴り終えた お別れの手紙
(由紀さおり『手紙』)
〈了〉
参照文献
「インタビューひと 第六十三回由紀さおりさん」、『どらく』、2008年
http://doraku.asahi.com/hito/interview/html/080215.html