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介護疲れ殺人事件、あるいは典型的殺人事件(2012)

介護疲れ殺人事件、あるいは典型的殺人事件
Saven Satow
Apr. 05, 2012

「殺人鬼のイメージがリアリティーを欠くことは、雪女、狼男等が存在しないことと、よく似ている。これらの想像上の産物が帯びるリアリティーのなさの核心は、そのような存在が、どのような境遇で誕生し、成長して、また、老いて死んでいくのかという経過が全く欠けていることにあると思う。鬼はその点で、赤ん坊や子供の鬼、年老いた鬼がイメージできて、まだいくらかましであり、人間に近い。そのあたりを詳しく見れば、殺人者についてリアリティーのある理解ができるのではないかと考える」。
河合幹雄『日本の殺人』

 神奈川県警瀬谷署は、2012年4月5日、横浜市瀬谷区上瀬谷町に住む戸頃佳寿子容疑者(61)を殺人未遂容疑で現行犯逮捕したと発表している。同日付『読売新聞夕刊』によると、彼女は、同日午前4時20分頃、自宅で寝たきりの夫儀平(75)の胸など数か所を包丁で刺したと見られる。その直後、自宅に通っていた介護ヘルパーに「大変なことをした」と連絡、彼の通報で駆けつけた同署員が居間の介護用ベッドで倒れている被害者を発見する。夫は搬送先の市内の病院で死亡が確認されている。容疑者は「10年前に夫が脳梗塞を患い、介護に疲れていた。心中するつもりだった」と供述している。同署は容疑を殺人に切り替えて送検する方針である。

 この事件は現代日本における「殺人」の典型例である。ここでの殺人は殺人既遂と強盗殺人に限定する。戦争や自殺、死刑は含めない。河合幹雄桐蔭横浜大学教授の『日本の殺人』によると、今日、殺人の年間件数はおおよそ800で、「統計的な数の上で」、最も典型的なものが「心中」である。しかも、かつては稀であったが、近年かなりの数にのぼると見られるのが「介護を苦にした」殺人だ。

 実は、日本の殺人事件の件数や内容を公的資料から詳しく調べるのは難しい。その理由は大きく二つ挙げられる。一つは、加害者の更生や関係者のプライバシー保護、当局の隠蔽体質により、個々の事件の詳細が伏せられていることである。もう一つは、各種の統計がその目的に従って集計・分類されているため、何を「殺人」に区分するかが変動的であることだ。ちなみに、『犯罪白書』の殺人の項目には「殺人未遂」や「殺人予備」も含まれている。

 河合教授がこうした条件を踏まえた上で、詳細に公的資料を読み解くと、先に述べたとおり、年間の殺人件数は約800で、人口比で言うと、5万人に1人の割合である。その半分近くが親族による犯行だ。さらに、統計の名目上家族と見なされていない関係、すなわち同性愛・異性愛を問わず内縁や不倫、恋人関係なども含めれば、全体に占める比率はもっと高くなる。加害者は等身大で、決して特殊な人たちではない。

 なぜ親族間での殺人が多いのかという理由は、それに強い動機が必要だからである。「殺してやる」と思うことや口走ることとその実行の間には大きな溝がある。それを飛び越えさせてしまうのがつながりである。赤の他人であれば、つながりは薄いし、それをさして気にする必要もない。ところが、親族やそれに相当する関係では、そうもいかない。つながりへの固執が強い動機につながる。「家族は、人の命を生み育てるところであるとともに、命を奪う可能性を持っているということであろう」(『日本の殺人』)。

 ただし、親族間に限らず、殺人事件全体から見れば、直接的動機は衝動的なものが多い。今回の横浜の事件もおそらくそうだろう。

 その上で、河合教授は、『日本の殺人』において、各種の資料を読み込み、近年相当数あると見られる「介護を苦にした」殺人事件の典型例を次のように描き出している。

 長年、親の介護を担ってきたが、介護する自分も六〇歳を過ぎ、介護される側は九〇歳というケースで、主に女性、主婦が加害者である。自分のほうが体調を壊してしまい、入院するように医者に宣告され、もはや親の面倒を十分に見てくれる人はいないと悲観して、親を殺害したが、自分は死にきれないというような事件である。

 さて、このような殺人者に、いかほどの量刑が適切であろうか。これまでに犯歴もなく、高齢で体調不良の主婦に、ほかの一般人を傷つけるおそれは全くないと言ってよいであろう。治安を守る観点からは、彼女たちを刑務所に入れる必要があるとは到底思えない。ところが、起訴猶予にするか執行猶予判決を出して、釈放すれば、それは彼女たちにとって、よい選択であろうか。彼女たちは、人を殺してしまったという強い罪の意識を持っている。それに対して、罰を与えないで自宅に帰してしまうとどうだろうか。帰宅したそこは、しばしば、犯行現場でもある。自宅に帰った彼女たちが、その場で自殺を遂げるという危険性がかなりの程度存在する。誰か世話してくれる人がいればまかせればいいが、その人がいないから事件が起きているわけで、そのような可能性は低い。したがって、釈放はまずないのである。
 これらのことは、検察も意識していると思われる。短期の実景を求刑し、裁判官も、その八掛けくらいの短期懲役刑を宣告する。自首などが伴えば、一年ということさえある。
 自殺防止ということなら、刑務所内ほど適した環境はない。また、ある程度罰を受けた形にしたほうが納得する。時間がたてば落ち着くという効果もある。早いとこ落ち着いたとみれば、刑期の三分の一を越えれば仮釈放可能である。罪の意識はあるが、凶悪な殺人事件とは認識していないので、長期間刑に服さないことに対しては、違和感はないであろう。一つの目安として被害者の一年後の命日は区切りになるであろう。事件後、即日逮捕、全面自供でとんとん進んでも、判決まで何か月かはかかるので、刑務所入所後、短期間で最初の命日を迎えることになる。
 刑務所では、殺人犯に対して、命日は、平日でも懲役の仕事は一日休ませ、被害者の供養をさせるようにしている。その後、落ち着いていれば仮釈放となるであろう。

 これは実態の記述が目的であって、共感を狙っているわけではない。殺人をめぐるこんなに繊細で慈悲深い文章を最近の小説から見つけるのは困難である。ミステリーはともかく、殺人と言えば、作家は奇妙な設定とセンセーショナリズムに走りがちである。その際、原因帰属を加害者当人の心理に求める傾向があり、その文脈が希薄になる。そうした無神経で恣意的な作品からは想像力の貧困さを感じるのみだ。

 もっとも、歴史を振り返れば、作家の主眼は殺人自体よりも、その動機にある。想念から実行に踏み切ることの重大さを認識しているからだろう。アルベール・カミュの『異邦人』のような作品は稀で、たいてい、登場人物は殺人に至る強い動機を持っている。それは共存の不可能性に集約できるだろう。特定の人物や集団、社会と今の自分とは一緒のいることができない。そこから殺人へと向かう。こうした必然性を描くのが文学の醍醐味と言うわけだ。

 特殊な例を提示して自明性を相対化する試みも確かにある。しかし、殺人事件の発生は非常に稀であり、一般人にとって身近ではない。殺人をめぐるイメージは、文学を含むマスメディアの情報によって少なからず形成されている。ろくに実態も調べず、自分や読者の実感に依拠しているだけだ。メディア・リテラシーの意識くらい持つべきだろう。

 殺人事件の統計的実態を知っている作家がどれだけいるのか疑問である。小説家は公的資料や統計を読み込み、典型例をプロファイリングすることから始めなければならない。ノンフィクションであれば、具体例を解き明かす試みもあろうが、フィクションはそうした抽出した上での具象化がそれならではのことだと言える。そこから現代社会の一つの姿を読者は垣間見る。ニュースで報道された時には関心があっても、人は忘れてしまう。法の執行機関や周囲の人たちが固有の事情にどういう配慮をしているのか、罪を犯した人が自分のしたことにどう向き合っているのか、どんな思いで社会に復帰したのかなど知る由もない。これを記すのも文学のすべきことのはずだ。

 いずれこんな殺人事件が出現するだろうと表わす企てもあろうが、作家は、歴史的に、過去の犯罪者を参考にしてきたのであり、欲張らない方がよい。
〈了〉
参照文献
河合幹雄、『日本の殺人』、ちくま新書、2009年

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