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及川あ巻き、あるいは名前のない馬(3)(2003)

第5章 馬の句
 世界的にも、馬は依然として家畜ではあるものの、もう主要な輸送手段ではない。馬には速さと頑丈さという二つの印象がある。競走馬は精巧さを感じさせるが、馬車馬や農耕馬は頑丈である。馬に代わる交通手段として蒸気機関車がアメリカに登場した際、それは「アイアン・ホース」と呼ばれている。一九二三年から三九年までヤンキースで活躍したルー・ゲーリッグは、そのタフネスさから、「アイアン・ホース」というニックネームをつけられている。中央アジアのステップでは、馬や牛、ヤギ、ヒツジ、ラクダ、ヤク、トナカイなどの混合牧畜が行われているが、中心は馬である。放牧地が共有である場合を牧畜と呼び、放牧地が私的所有によって成立しているものを畜産と定義される。牧畜しか行っていない牧畜民は寒冷地に住むイヌイットなど極めて少なく、たいていは傍らで農耕も営んでいる。ゲルの周囲をモンゴルの遊牧民は馬に乗り、駆け回っているけれども、かつて馬が通ったシルクロードを大量の物資を積んでトラックが走っている。「ひたすらに東風にさからひ競べ馬」(あまき)。

 とは言うものの、馬は現代において欠かせない技術を生み出すことに貢献している。一八七七年、カリフォルニア州知事リーランド・スタンフォードは、友人と「馬が全速力で走るとき、四本の脚が同時に地面から離れることがあるか、それともないか」をめぐって賭けをする。ほんのわずかながら四本の脚が地面から離れるに賭けた知事は、それを証明するために、当時の金額で四万ドルを投じて、写真家のエドワード・マイブリッジに依頼する。彼は、競馬場のコースに沿って一二台のカメラを設置し、それぞれのカメラの前にコースを横切るように一二本の糸を張り、走っていく馬がその糸を切る度に、シャッターを順治作動させることを考案する。これにより、マイブリッジは馬が全速力で走るときの姿を写真に収めることに成功し、知事は、友人との賭けに勝つ。この成果は連続写真として新聞で大々的に報じられ、後の映画の発明につながっていく。

 二〇世紀において、馬は現実の風景から、事実上、消え去り、特殊な世界に押しこまれている。馬は競馬場や牧場、放牧地、映画、テレビで見かけるものである。あまきはそういう馬を俳句に詠んでいる。『白馬』というタイトルにもかかわらず、白馬の句は「秋耕や四頭位の白き馬」と「秋高く歩む白馬や鱗雲」のわずか二つしかない。けれども、馬をめぐる句は全体の二割ほどに及び、馬の辞典を思わせるほど豊富な語彙を使って、表現している。種馬から病馬、骨折馬、競馬、馬券、草競馬、牧場の馬、荷馬、母馬、仔馬、去勢馬など他にもさまざまな馬をめぐる字句が見られる。人は知識がない時、対象を大雑把な概念でしか認知できない。けれども、知識が増すと、それを分類して捉えるようになる。句に盛りこんだこれらの字句はあまきの馬に関する並々ならぬ知識をうかがわせる。

 既存の作品をモチーフにしてではなく、観察に基づいて句を詠んでいる。彼は、一九二八年に『ホトトギス』からデビューした通り、正岡子規が提唱した写生と昭和初期のホトトギス派が信奉した花鳥諷詠の系譜上にある。けれども、客観写生ではないし、花鳥諷詠からもいささか違う。

 高浜虚子は、自然の事物を忠実に写生することにより、それが引き起こした主観的な感動を間接的に表現する主客の合一を理想とし、山口誓子や水原秋桜子らは日本的美意識に基づいて自然を俳句に詠みこむ花鳥諷詠を主張している。あまきは極力固有名詞を避け、そこにある名もないものを名もないものとして描く。馬を詠むときでさえ、その馬には名前がない。有名=無名や主観=客観、日本的=非日本的という二項対立の図式の転倒を秘めたロマン主義的なアイロニーがまったくない。名もないということは事実にすぎない。

 あまきは「滝道やむらさきふかきとりかぶと」という句を詠んでいる。キンポウゲ科に分類される猛毒のトリカブトは樹木の葉が色づき始めるころ、舞楽の伶人が使用する冠の「鳥兜(トリカブト)」に似た青紫色の花を咲かせる。「すべての物質は毒であり、毒でない物質はない。正しい量を使えば毒も薬になる」(バラケルスス)。先の二つの近代的な伝統を踏まえていながら、草の根派もしくは草の根主義とも呼ぶべき姿勢をとっている。

 ユーモラスな句はほとんどないものの、力んでいるわけでもなく、フラットな実直さが伝わってくる。”If the shoe fits, wear it”.

 あまきは、啄木のように、若くして文学活動を始めたわけではない。『ホトトギス』に入選したのは四三歳のときである。その年齢から俳句を詠むことは、クオリティ・オブ・ライフを向上させる一つの「代替医療(Alternative Medicine)」である。森毅は、『最近、ぼくは俳人も始めています』において、「年をとってから始めれば、どのみち老い先は短いし、周囲も期待しないから、うまくならなければならないというプレッシャーはほとんどない。上達すればそれでよし、上手くなれなかったとしても、またそれでよし。不得手なものにも平気で手を出せる。五十の手習い、六十の手習いはかくも気楽である」と言っている。あまきにとっても、俳句はそうだっただろうし、そのため、公職からリタイアして後、指導し始めたあまきの後進への接し方には「御隠居さんの自由」がある。それは「少し離れたところからちょっかいを出せる身軽さだ」(森毅『リタイアした身軽さがOBならではの身軽さだ』)。

 あまきには次のような老いを含んだ句を詠んでいる。

老二人去年今年なく俳小屋に

蓼太の句裏に雪飛ぶ翁の碑

老松の風大庫裡の風絵に

杜鵑鳴く義経堂の老杉に

孫乗せて仔馬祖父ひき厩前

 しかも、馬の句を詠むことは、彼にとって、さらなるセラピーである。帝国陸軍では、林良博の『検証アニマルセラピー』によると、傷病兵に対してホース・セラピーを勧めている。詳しい資料が廃棄されてしまっているため、現在ではわかっていないが、おそらくあまきは知っていただろう。あまきはホース・セラピーを文学を通じて感受している。”Dance with the one that brung ya”. 

 あまきの馬をめぐる句には、馬頭琴を奏でるような調べがあると次のような句が示している。

牧清水飲みたる馬の歩きそむ

骨折の馬吊しあり千菜宿

かたまりて草喰む馬や月の牧

召され征く馬に旗立て梅の門

野を駆くる仔馬の肢の秋天に

木曽川を義仲青毛馬を洗ひをり

馬くろくちらばつゐる雪の牧

兄妹の一馬に乗りて草紅葉

左鞭つかひ勝馬さまたげぬ

去勢馬の菰を着て通る牡丹雪

 あまきは、寺山修司のように、馬を見ているのではない。寺山修司にとって、馬は競走馬を意味し、一頭のサラブレッドを見ることは「一つの長編小説」を読むようなものだと言い、競馬に人生を投影するのではなく、競馬のほうが人生に対する比喩と考えている。その疾走に勝ち負けが待っているとしても、馬は馬鍬(まぐわ)をつけていないし、ライフルの銃口に向かって走っていくわけではない。一方、あまきには、馬は競馬馬に限らない。馬の句を詠むとき、あまきは、馬を育て、その先に待ち受けている運命を思いながら、接している。その姿勢は馬頭琴をつくったスーホを思い起こさせる。

 モンゴルに『スーホの白い馬』という民話がある。羊飼いの少年スーホはある日白い馬を手に入れ、大事に育てる。スーホは有力者の開いた競馬に出て、一等になる。だが、欲にかられた有力者に白い馬を奪われてしまう。けれども、白い馬は有力者の言いなりにならず、その上、スーホの元に逃げ出そうとした白い馬に弓矢を兵に放たせる。スーホのゲルに到達したものの、多くの弓矢に撃たれた白い馬はスーホの腕の中で息絶えてしまう。嘆き、悲しむスーホの前に白馬の魂が出現し、「スーホ、元気を出して。私の尾や筋を使って楽器をつくって下さい。そうすればスーホが歌を歌う時は、私も一緒に歌えますし、スーホが休む時は、あなたの側にいられます」と話かけて、消える。スーホは、その言葉に従い白馬の体から楽器をつくり、それが馬頭琴である。やがて冬が去り、モンゴルの草原に再び、光り輝く春がやってくる。伝統的な楽器である馬頭琴は少年スーホが育てた白馬の悲劇的な物語によって生まれたのだとモンゴル人は語っている。

 あまきの句には馬に限らず、動物を扱った句が多く、「待春のマダムは犬を野に放つ」や「われ乗れば万緑をゆく象車」などセラピーの色彩を帯びている。ただ、アニマル・セラピーに最も最適なのは、実は、馬である。と言うのも、「アニマルセラピーは医療、教育、スポーツという三つの領域をもつが、ホースセラピーはそのすべてを含んでいるからだ」(林良博『検証アニマルセラピー』)。一九五二年、ヘルシンキ・オリンピックにおいて、デンマークのリズ・ハーテルが馬術で銀メダルを獲得している、彼女は小児麻痺をホース・セラピーによって克服した一人である。「馬を追ふ娘十六花芒」(あまき)。


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