実証経済学の時代(2019)
実証経済学の時代
Saven Satow
Oct. 17, 2019
「経済学者はなぜこの世にいるのだろうか?それは彼らに当たらない予測をさせることで、『天気予報って、けっこう当たるじゃないか』と思い込む一般人を増やすためだ」。
エステル・デュフロ
スウェーデン王立科学アカデミーは、2019年10月14日、本年度のノーベル経済学賞をインド出身でマサチューセッツ工科大(MIT)教授のアビジット・バナジー、フランス出身でMIT教授のエステル・デュフロ、米国出身でハーバード大教授のマイケル・クレマーの3名に授与すると発表している。
授賞理由は「世界的な貧困の緩和への貢献」である。彼らは実験を通じた効果を確かめた貧困の具体的な解決手段を提唱している。中でも学校教育や子どもの公衆衛生の改善をテーマに取り組み、1990年代半ば、ケニア西部で実際に学業成績の向上を目的にした実験を繰り返すなどしている。同アカデミーはそれについて「小さくても実践的な問題に取り組んだ」と評価する。
この受賞は実証経済学の時代の到来を世界に知らしめる。中でも、注目すべきはデュフロMIT教授だ。彼女は46歳で史上最年少、なおかつ女性としては09年のエリノア・オストロムに続いて2人目の受賞である。実は、彼女はフィールド実験の研究を主導したことで経済学界では知られ、2010年のクラーク賞を受賞している。フィールド実験は実際の経済状況で行う実験のことである。彼女の受賞は実験を用いる実証経済学が主流に位置付けられたことを専門家以外にも認知させるものである。経済学も理論から実践へ移行したというわけだ。
ジョン・ベイツ・クラーク賞(John Bates Clark Medal)は、1947年以来、アメリカ経済学会が授与している経済学賞である。名称は19世紀の経済学者ジョン・ベイツ・クラークにちなんでいる。当初は隔年だったが、2009年以降毎年に変更されている。対象は40歳以下のアメリカの経済学者で、受賞者は1名である。
この40歳以下という年齢資格はアカデミズムにおける研究の実態を反映している。研究の最先端を担っているのは30代である。40代に入ると、大学内の行政の仕事が増えるため、研究に集中するのが難しい。年齢資格によりクラーク賞は経済学の同時代的潮流を示している。
クラーク賞は、1995年のデヴィッド・カードから実証経済学者の受賞が目立ち始める。しかし、1991年にメダルを得たポール・クルーグマンが2008年に選ばれて以降、クラーク賞受賞者がノーベル賞とは縁遠い。デュフロ教授が両賞に輝いたのは久しぶりだけでなく、王立アカデミーの実証経済学についての認識の変化と理解できよう。
1969年から始まったノーベル経済学賞は最先端の研究ではなく、過去の業績に対して授与される。また、受賞者が推薦の権利を持っているため、アメリカ人や同国で活動する経済学者が選ばれやすい。こうした事情によりクラーク賞受賞者は将来のノーベル賞の有力候補と見られている。実際、今回以前に12名が選ばれている。
ノーベル経済学賞は、創設以来、主に理論経済学者、時折、計量経済学者が選ばれている。だが、90年代を迎えると、この傾向が修正される。新たな方法論・分野を切り開いた研究者を選ぶようになり、社会科学賞の様相を呈してくる。好例が認知心理学者ダニエル・カーネマンの2002年の受賞である。
カーネマンの研究は行動経済学に大きな影響を与えている。従来、経済学は情報が完全で、完全な計算力を有する「経済人」を想定して理論を構築している。人間が完全合理性だとする仮定は経済学において実験が困難である事情を踏まえている。一方、行動経済学は人間の情報も計算力も限定的だとする限定合理性に基づいている。従来の経済学の効率市場仮説を「規範理論(Normative Theory)」として、その「アノマリー(Market Anomaly)」、すなわち逸脱を実験により検証する。実際の人間が「経済人」ではないことは言うに及ばない。限定合理性は経済学者の間に浸透しつつあり、カーネマンの受賞はそれを裏付ける事実でもある。
先のクラーク賞が示している通り、90年代から経済学も大きく潮流が変化する。研究のトレンドが理論から実践へと移り、経済学は実証性を追求し始める。現実の経済状況に近い限定合理性を前提にした行動経済学の研究が進展していく。ただ、それには実験が不可欠である。ところが、自己選択を取り除くことが長年に亘って課題とされ、その克服が試みられる。
実験における自己選択の問題を明らかにしたのがホーソン実験である。シカゴ郊外にあるウェスタン・エレクトリック社のホーソン工場において、1924年から1932年まで、照明を始め物理的作業条件と労働能率の関連を調べるため、ハーバード大学の研究者らが介入実験を行う。最も有名なのが照明実験である。研究者は照明が明るければ能率が高く、暗ければ低くなると仮説を立てる。しかし、明るくした場合のみならず、暗くした場合も作業能率が普段より高くなる結果が出てしまう。労働者がせっかくの実験だからと張りきってしまったためである。
経済学者はこうした自己選択を取り除く方法としてIV法やRCTを導入する。IV法は「操作変数法(Method of Instrumental Variables)」のことで、統制された実験ができない場合、もしくは処置がランダム化できない場合、因果関係を推定するための方法である。また、RCTは「ランダム化比較試験(Randomized Controlled Trial)」のことで、無作為にグループ分けし、介入実験を行って因果関係を推定する方法である。いずれも医学研究でも用いられ、客観性が高いと認められている。
こういった実証経済学の発展にはパソコンやソフトウェアの性能の向上という環境変化が大きい。方法論が見つかったとしても、データを解析できなければ、実証的研究には至らない。そのための環境は爆発的に進化している。ビッグデータ時代を迎え、この傾向はさらに進むだろう。
実証性を手にしたことにより、経済学はこれまでにもまして他分野へと進出している。経済合理性の発想が他分野へ影響を及ぼしたことは以前より認められる。実証経済学はそこにとどまらず、実験を通じて他分野の課題に対する提案を行っている。実際、デュフロ教授らの研究は教育学や社会学の領域をカバーしている。
また、実証経済学は従来の研究両利きも活性化させている。経験科学でありながら、経済学は実験を論拠にして理論構築をしていない。そのため、立脚する仮定や世の中に出回る通説が客観的に妥当であるかどうか十分に検証されていない。実証経済学はそれを実験により確認する。ラジ・チェティは消費税の表示が目立つと販売量が減るのか、ヱミ・ナカムラはデフレが本当に経済に悪影響を及ぼすのかを各々調べ、そうだと証明している。こうした試みはあまり注目されなくなった領域にも新たな光を当てる。実証経済学は従来の経済学体系の再検討を促し、活性化させている。
こうした実証への意志は他の学問分野にも見られる。EBMの発想の定着により、医学も暗黙の前提を含めた定説を定量的実験を用いて検証する作業が続いている。根拠の実証は学問全体の主要なトレンドの一つである。
しかし、もちろん、実証経済学にも課題がある。フィールド実験を例にしよう。これにはコストがかかる。また、医学や心理学などかねてより人間を対象にした実験を行ってきた分野では倫理規定が定められている。実験の歴史が浅い経済学はこの倫理的配慮の用意が十分ではない。さらに、研究結果がどこまで一般化できるのかという疑問がもある。
実証経済学の時代を迎えたことは確かである。ただ、これが過渡期ではないのかという問いも浮かぶ。実証経済学は仮定や通説を熱心に確認しているが、ファクトチェックは大切であるとしても、それは必ずしも画期的とは言えない。ガレノスの克服にはウィリアム・ハーベーが登場しなければならない。
実は、第二次世界大戦後、政治学において実証研究が流行している。従来の規範中心の政治学に変わり事実を検討することが主流となり、政治哲学は真だとさえ言われている。そんな流れを変えたのがジョン・ロールズである。1971年に刊行された彼の『正義論』は政治哲学を復権し、それは公共哲学として活性化する。目指すべき社会はどのようなものかの問いはやはり必要である。
実証経済学の研究は実践的で、刺激的なものが少なくない。何よりもこれまで経済学が実証性もなく、公共政策に影響を与えてきたという恐るべき状況の改善につながることは好ましい。実証性を欠くために、経済学の理論闘争はしばしば神学論争めいている。それは消費税をめぐって日本でまさに今起きている状況である。だが、カール・マルクスに倣えば、「経済学者は世界をさまざまに解釈して来ただけである。肝心なのはそれを変更することだ」。実証経済学者はまずその経済学の世界を変更している。
〈了〉
参照文献
「ノーベル経済学賞、MITのバナジー氏ら 貧困を緩和」、『日本経済新聞』、2019年10月14日21時:17分更新
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50967130U9A011C1I00000/