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文化的認知傾向の自覚(2012)

文化的認知傾向の自覚
Saven Satow
Mar. 30, 2012

「私の自我は、同時にわが友であり、敵でもある」。
『マハーバーラタ』

 2012年3月11日未明、アフガニスタンのカンダハル州の民家3軒に暗視ゴーグルを着用した米兵が押し入り、銃を乱射する。中にいたのは非戦闘員で、女生と徒9人の子どもを含む16人が犠牲になっている。16日、米軍当局は事件の容疑者をロバート・ベイルズ2等軍曹と公表する。彼の弁護士は、過去の任務中に2度の重傷を負い、4度目の任務になる今回のアフガンへの派遣に不満があったと説明している。

 藤原帰一東京大学大学院教授は、2012年3月27日付『朝日新聞夕刊』の「時事小言」において、この事件をめぐる米国の報道を次のように批判している。

 アメリカのメディアによる報道は、子煩悩な2児の親がなぜ虐殺に走ったのかという一点に焦点が置かれていた。よほどひどい経験をしていたのだろう、戦争で人間が変わってしまったのだという判断だ。容疑者ロバート・ベイルズ2等軍曹が入隊前から多くの負債を抱え、家を手放す直前だったことなどが後に判明するが、すでに事件への関心は萎えていた。

 アメリカの報道は米兵の内面ばかりに目を向け、殺された人々がほとんど登場しないばかりか、アフガニスタン介入の是非を問う報道も少ない。

 今回の惨劇をめぐる米国の報道は、藤原教授に言わせると、視野が狭い。自国民である容疑者本人にのみ原因が帰着され、アフガンの被害者が見過ごされている。そもそも、この2等軍曹がアフガンにいたのは、米国が戦争を始めたからで、それが果たして妥当だったのかどうか論じるべきである。

 こうした報道姿勢は、実は、藤原教授の指摘以上に根が深い。と言うのも、乱射事件が起きた際の米国の報道は、容疑者の「内面ばかりに」目を向ける傾向があるからだ。

 社会心理学の研究によると、犯罪報道の際に、アメリカと東アジアの新聞では犯行原因の見方が異なっている。前者は原因を加害者の内的特性に求める対象指向である。一方、後者はそれを加害者の周辺環境に認めるコンテクスト指向である。

 マイケル・W・モリス(Michael W. Morris)と彭凯平(Peng Kaiping)は、論文『文化と原因(Culture and Cause)』(1994)において、類似した二つの乱射事件を例に、アメリカと中国の報道傾向を比較している。一つは、1991年にアイオワ大学で起きた中国人留学生による乱射事件である。もう一つは同年にミシガン州において郵便配達が上司や同僚を射殺した事件である。いずれも容疑者は犯行直後に自殺している。この二つの事件は加害者が中国人であるか、アメリカ人であるかを除けば、類似している。米中のメディアは、国籍にとらわれず、どちらの事件でも同じ報道姿勢を示している。『ニューヨーク・タイムズ』は加害者の性格や思想信条など個人的な属性に焦点を当てて、事件を伝えている。一方、『世界日報』は人間関係や生活環境といった置かれた状況を強調している。こうした傾向の違いは文化によると考えざるを得ない。

 このように、今回に限らず、アメリカの事件報道は対象指向である。米国のジャーナリストは、必ずしも、意識的に加害者を見過ごし、容疑者の「内面」にばかり着目しているわけではない。犯罪報道とは対象指向だと内面化され、それこそが事実を伝えるジャーナリストとしてのあるべき姿勢だと信じている。

 しかし、国内では良識的な姿勢だとしても、扱う事件が国際問題化した場合、低コンテクスト認知が他の文化圏から見れば配慮を欠く、身勝手な考えに映ることもある。ものの見方は相対的なものだ。

 異文化接触では、相手を理解することが肝要だとされる。しかし、グローバル化の進展する現在、次から次へと異文化に出会い、面食らう。確かに、異文化との交流で認知は積極的・消極的に変化していくが、少々オーバーロード気味だ。むしろ、自分の属する文化の認知傾向に自覚的になって、異文化と接する方が現実的だろう。立場から言って、ジャーナリストには率先してもらう必要がある。そうすれば、世界は、もう少し、寛容と信頼に覆われる。
〈了〉
参照文献
森津太子、『現代社会心理学特論』、放送大学教育振興会、2011年


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