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銀輪エクソダス(3)(2022)

3 明日に架ける橋
 大正橋は、1912年10月27日、木桁橋として開通しています。この年は大正元年に当たることから、「大正橋」と命名されています。長さは175nです。最初の橋は1920年に流出しています。その後も大雨や台風によって何度か落ち、架け直されています。現在は鉄コンクリート製ですので、流出することはまずありません。
 現在の大正橋は川の両岸にある堤防に架かっています。けれども、当時は堤防がありません。橋は川の水面に近く架けられています。川が増水すると、通行止めになるだけでなく、場合によっては橋が流されてしまいます。そのような時に備えて、川の両岸にワイヤーが張られています。渡船がそれにフックをかけて川の流れの中でも真っすぐに両岸を行き来するわけです。
 チコちゃんが子どもの頃にも、1947年のカスリーン台風、翌1948年のアイオン台風と2年連続で台風が襲来し、橋が通行できなくなっています。再建されるまでの間は小舟が運航します。チコちゃんが高校生の頃、橋が落ちただけでなく、渡船もストップしたことがあります。チコちゃんは汽車で花巻市にある花巻北高等学校に通っていたのですが、その時は川が荒れて船も出せない状況になっています。帰宅できなくなったチコちゃんは小学生の時に住所を借りていた産婆さんの家で一晩お世話になっています。

When you're weary, feeling small,
When tears are in your eyes
I will dry them all
I'm on your side
Oh when times get rough
And friends just can't be found

Like a bridge over troubled water
I will lay me down
Like a bridge over troubled water
I will lay me down

When you're down and out
When you're on the street
When evening falls so hard
I will comfort you
I'll take your part
Oh when darkness comes
And pain is all around

Like a bridge over troubled water
I will lay me down
Like a bridge over troubled water
I will lay me down

Sail on, silver girl
Sail on by
Your time has come to shine
All your dreams are on their way
See how they shine
Oh if you need a friend
I'm sailing right behind

Like a bridge over troubled water
I will ease your mind
Like a bridge over troubled water
I will ease your mind
(Simon & Garfunkel “Bridge Over Troubled Water")

 大正橋は北上川に架かっています。北上川は岩手県岩手町の弓弭の泉を水源として宮城県石巻市まで流れる一級河川です。流路延長は249 km、平均流量391立方メートル毎秒(登米観測所1952~2002年)、流域面積10,150平方kmです。東北地方の河川の中で最大です。全国では、流路延長は信濃川・利根川・石狩川・天竜川に次いで5番目、流域面積は利根川・石狩川・信濃川に次いで4番目の規模をしています。通常、川の大きさは流域面積を基準にします。流域面積は、雨や雪がその川に流れこむ範囲である流域の面積です。これが大きければ、流れる水の量も多くなります。ですから、流域面積が河川の大きさを比較する際の基準として適しているのです。

 やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
(石川啄木)

 日本の国土面積のおよそ3分の2が森林、つまり森林率は7割に達します。そのため、日本の河川の勾配は、欧州と比べて、全般的に急です。一方、北上川は流れが緩やかという特徴があります。そのため、水力発電用のダム建設にとって好条件であるとは言えません。電源開発が田瀬・石淵両ダムを利用した水力発電を行っているものの、大規模ダム式発電所や揚水発電は北上川にありません。
 戦後、北上川に限らず、全国各地で水害が相次ぎます。これは経済復興の妨げになります。そこで、建設省(現国土交通省)は利根川を始めとする全国主要10水系を対象に、多目的ダムを中心とした総合的河川開発を進めます。戦前に内務省が作成していた「北上川上流改修計画」を改訂し、上流と下流で別の河川改定改修計画を立案します。上流は旧計画を発展させ、5つのダムの建設予定地や規模を変更、水害の多い一関市の被害を減らすことを目的にしています。綱取ダム(中津川)や入畑ダム(夏油川)、早池峰ダム(稗貫川)などの多目的ダムを中心とした河川総合開発により水害の被害が減少しています。
 また、北上川には水質の問題もあります。流域は穀倉地帯ですが、北上川本流は松尾鉱山からの廃水により酸性度が強く、農業用水として利用できません。そのため、旱魃の際には各地で凄惨な水争いが起きています。ホイッグ史観の論者はしばしば自分の意見を正当化しようと歴史を都合よく曲解します。イザヤ・ベンダサンこと山本七平による『日本人とユダヤ人』の中で、「日本人は水と安全はタダと思っている」という恣意的な説はその典型例です。
 農林省(現農林水産省)は1947年より全国4水系において「国営土地改良事業」に着手します。この事業は北上川流域にも実施されます。1967年に竣工した上流の四十四田ダムの完成以降水質が改善され、農業用として利用できるようになっています。なお、四十四田ダムは北上川本流に建設された唯一のダムです。
 この北上川の水質改善は過去の話ではありません。松尾鉱山はかつて東洋一の硫黄鉱山と呼ばれましたけれども、酸性水を排出し、北上川の水質を悪化させています。松尾鉱山は1969年に閉山されましたが、現在でもこの汚染水処理に岩手県は莫大なコストを費やしています。2015年6月29日更新の「各種データ旧松尾鉱山」によると、1972~2015年までの恒久対策事業費の総額は約407億円です。発生源対策に約86億円、新中和処理施設と貯泥ダムの建設に約93億円、赤川保全水路の整備に約12億円、坑廃水処理に約216億円という内訳です。このコストは今も増えています。世代間倫理から見れば、まったく便益を受けていない世代がその費用を払い続けなければならないのは不公正です。北上川は、環境問題には世代間正義論があることを物語る典型例です。

 夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処ところがありました。
 それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上きたかみ川の西岸でした。東の仙人せんにん峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截よこぎって来る冷たい猿さるヶ石いし川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。
 イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずゐぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。
 殊にその泥岩層は、川の水の増すたんび、奇麗に洗はれるものですから、何とも云いへず青白くさっぱりしてゐました。
 所々には、水増しの時できた小さな壺穴つぼあなの痕あとや、またそれがいくつも続いた浅い溝みぞ、それから亜炭のかけらだの、枯れた蘆あしきれだのが、一列にならんでゐて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。
 日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひゞ割れもあり、大きな帽子を冠かむってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊はくあの海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした。
 町の小学校でも石の巻の近くの海岸に十五日も生徒を連れて行きましたし、隣りの女学校でも臨海学校をはじめてゐました。
 けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから北上の河谷の上流の方にばかり居た私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。
(宮沢賢治『イギリス海岸』)

 「橋の上は楽でいいな~、ずっと橋ならな~」。大正橋の走行は快調です。トラックやバスをたまに見かける程度で自動車はあまり通りませんし、砂利もありません。もっとも、人も通りません。おつかいの途中に誰かと会うこともいつもありません。母ちゃんは炭を買いに行く時は雨が降らず、風が弱い日を選びます。母ちゃんは合理的な人です。なくなるギリギリではなく、余裕を持たせた上で、買う時期を計算し、子どもでも安全な日を決めるのです。橋の上では時々横風が吹きますが、バランスを崩すほどではありません。チコちゃんは道の真ん中を悠々と走ります。
 春と並んで、9月半ばの今くらいは炭のおつかいも比較的条件がいいのです。おつかいは学校が終わった後です。秋が深まってくると、日没が早くなります。同じ時刻でも帰り道の明るさは下がります。それに気温も低くなります。もちろん、雪が降れば、自転車のおつかいはできません。
 石鳥谷は夏でもさほど厚くありません。ただ、チコちゃんは、夏休みの間、家にいません。夏が終わり、紅葉も稲刈りもまだ先で、「天高く馬肥ゆる秋」がそろそろ似合うかなといった頃合いが炭のおつかいにはいいのです。
 大雨や台風で大正橋が通れなくなることは不便です。けれども、チコちゃんはそんな時に心密かに期待していることがあります。それは土左衛門が上がることです。これだけ水害が多いのですから、水死する人も少なくありません。
 大正橋は、小4までは家の近く、それ以後は通学路にあります。土左衛門が見つかると、その大正橋の付近に上げられます。チコちゃんは、その情報を耳にしたら、朝、いつもより早く家を出て、現場に急行します。教室のみんなに報告しなければならないからです。チコちゃんはカンパネルラを探しに川に行くジョバンニと違います。
 土左衛門は死んでも髪の毛が伸びると言われています。チコちゃんもその噂が本当なのか知りたくて仕方がありません。もちろん、教室のみんなも同じです。それを確認するために、土左衛門が上がったら絶対に確かめに行くのです。
 現場を確認したら、大急ぎで登校します。みんなも土左衛門情報をすでに耳にしています。狭い町村ですから、あっという間に伝わってしまうのです。けれども、聞いた人は大勢でも、見た人はクラスにはいません。チコちゃんは教室に入るなり、早速、みんなに向かって話し始めるのです。
 「さっき、土左衛門、見できたけどね、あれ、ホントだった。髪の毛が伸びてるの!」
 すると、「いや~」とか、「ホントなんだな~」とか「おっかね~」とかみんな口々に言って、怖がります。その光景を目にしたチコちゃんは任務が果たせたと肩の荷が下りた気がするのです。
 ただし、死後、髪が伸びることはありません。そう見えるのには二つの理由があります。死後、毛包(もうほう)から髪の毛が押し出され、見かけ上そうなります。また、皮膚が乾燥して水分が蒸発し、その沈下により、髪が伸びて見得ます。水死体の場合は前者が理由です。
 毛包はなじみがないかもしれませんが、毛穴は聞いたことがあるでしょう。それは毛包の皮膚表面に見える部分の一般的名称です。この毛包は毛を産生するほ乳類特有の皮膚の付属器官です。
 「土左衛門」の語源は享保年間(1716~36)に活動した力士「成瀬川土左衛門」に由来します。今の宮城県出身の成瀬川は色白で太っていたため、体内に発生した腐敗ガスによって体の膨れた水死体の比喩としてその名が使われるようになっています。
 現場には大人たちがいて、土左衛門を囲んでいます。チコちゃんはそこにそっと近寄ります。ところが、大人たちはチコちゃんを見つけると、追い払おうとします。
 「あっちゃさ行げ。子どもの見るもんでね!早ぐ学校さ行げ!なんたらや。どごの子だ?」
 「ああ?あれ、チコでねえが?
 「チコったらや?」
 「ほれ、獣医さんどごの3番目」。
 「獣医さんどごの?」

「俺は獣医だけど、犬は好きじゃない。予防接種するから、俺が通り度にワンワンワンワン吠えやがる。お前たちのためにやってやってんのによ」。
藤原金吾

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