心中的鐘摆─「お祖父ちゃん、戦争の話を聞かせて」(4)(2018)
7 みーちゃんの家
茶の間を見ると、濃い緑色で細かな花柄の割烹着を着たお祖母ちゃんがテレビを見ています。お祖母ちゃんはテレビが好きです。
お祖母ちゃんは、秋本治の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の「伊勢神宮参拝」に出てくる寺井巡査がメガネを外して、もっと痩せさせた姿に似ているとみーちゃんは思っています。ただ、その話は『こちら葛飾区亀有公園前派出所』第2巻に収められているのですが、みーちゃんのうちにある単行本の作者の名前は「山止たつひこ」になっています。1976年から『週刊少年ジャンプ』に連載されている警察官の両津勘吉を主人公にしたギャグマンガです。大兄ちゃんが単行本をそろえています。両さんはお巡りさんなのに、ハチャメチャでおもしろくて、みーちゃんは大好きです。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは農業をしています。農作業に出ない時、お祖母ちゃんはテレビを見ているか、近所の年寄りと社交をしています。お互いに呼んだり呼ばれたりして、お茶にお菓子や漬け物であれこれ話しています。みーちゃんは詳しくはわかりません。普段は学校にいる時間だからです。夏休みといった長いお休みの時に、そんな様子を目にします。
お祖父ちゃんはお祖母ちゃんと一緒に行動することがありません。けれども、社交はよくしています。お祖父ちゃんは神社や農協、選挙のつきあいがあります。
お祖父ちゃんは軍人だったので、実は、農作業が得意ではありません。昔は冬になると、わらじやぞうり、みのをわらで編む仕事があったそうです。でも、お祖父ちゃんは全然できなくて、それで外で社交に行くようになったとお父さんは言っています。
お祖父ちゃんは自民党の衆議院議員の椎名素夫先生の後援会員です。椎名先生は『ドラえもん』の先生がもっと年をとって、やせた感じです。椎名先生のお父さんの悦三郎元自民党副総裁の頃から続けています。
椎名先生の選挙区は岩手2区です。ここには同じ自民党の小沢一郎さんもいます。小沢さんは『ドラえもん』のジャイアンに似ています。43歳の若さで自治大臣になった政治家で、党内最大派閥の田中派で最も将来を期待される一人だとお父さんは話しています。それなら、なぜお祖父ちゃんは小沢さんでなく、椎名先生を応援しているのと尋ねると、悦三郎先生とお祖父ちゃんは二人とも満州にいたことがあるからその関係じゃないかと言っています。満州は今の中国の東北部のことで、戦前そう呼ばれています。
お祖父ちゃんは選挙が大好きです。選挙になると、朝早くから黒い自転車をこいで出かけて夕方になるまでうちに帰ってきません。みーちゃんはお友だちから「お祖父ちゃん、選挙になると、黒い自転車で走り回ってるよね」とよく言われます。今年の6月は衆議院と参議院のダブル選挙だったので、お祖父ちゃんはうちにいることがほとんどありません。国の選挙は特に遅くまで戻ってきませんが、岩手県や北上市の選挙でも期間中はうちにあまりいません。
お祖父ちゃんは、時々、街に一人で出かけていきます。一升瓶のワインとか奇天烈な物を買ってきます。みーちゃんは、「あんなものどこで売ってるんだろ?」といつも不思議に思っています。
お祖母ちゃんは、テレビを見る時、画面と会話する癖があります。
残留孤児のニュースがあると、それを見ながら、お祖母ちゃんは「おらだ、満州さいだったもやー。ハルピン。雪は降らねども、たいすたすばれでなー。さみーごど!ロシア人の大家さんどこさいだった。おじちゃんとおばちゃんもそごで生まれだの。おめのおどさんとおじちゃんとおばちゃんと三人連れで内地さ戻ってきたんだ。もすかすたら、こうなってだがもしぇね。中国の人、子ども欲すがってね、『子ども置いてけ、置いてけ』って言うんだずもの。戦争なんて絶対にするもんでね!戦争やってすまったら、そごの政府は間違げえなおんだ」と話します。みーちゃんはこれをすっかり暗記しています。お祖母ちゃんはいつも同じことを繰り返すからです。
去年、中曽根首相が靖国神社を公式参拝して中国や韓国、それに国内からも批判されています。お祖母ちゃんは、「余計なごど!おめふぁ戦争の時、何すてらったが世間がしゃねど思ってらが!」とテレビの中曽根首相に向かって呪っています。これだけではありません。後の話ですけれど、藤尾文部大臣が戦争を間違っていないというようなことを言った時も、お祖母ちゃんは「黙っとれ!おめ、戦争のごどなんぼ知ってらってや!しゃね奴ほどヘラヘラ語りだがるもんだ!」と吐き捨てるように怒っています。
「テレビは新す事実の戦争番組をするども、見でら人はその時だげだ。まだ新すごど見付けでくる。そづは大切だ。んだども、新すのを放送するってのは、すったなごど、おら知ってらって言う人いっぺいるってごどだべ。知ってらったって、戦争すたらなんにもなんええじゃ。戦争終わった時、『おらしゃねがった』なんて言う人、いっぺいだけど、なあに、知ってラったのもほんとはいっぺいだおんだ。しゃねば戦争すたっていいてえがや?しゃねたって戦争はすてわがねおんだねが?みんな知ってらごどたって、そづしゃべって戦争すねよにせねばわねんだ。あどあれだ、戦争の番組では雰囲気重ぐすども、なあに、戦争づのは人の命軽ぐ扱われるもんだ。戦争づのは人の命軽い、軽ぐなる」。
みーちゃんは、茶の間で、お祖母ちゃんのいない時に、一緒に中曽根首相公式参拝のニュースを見ていたお祖父ちゃんに靖国神社って何が問題なのと聞いたことがあります。すると、お祖父ちゃんは、難しい顔をしながら、「お祖父ちゃんは靖国に行ってない」と素っ気なくつぶやきます。聞いてはいけないことだったのかなと思い、みーちゃんはそれっきりにしています。
お父さんは、少し前に、『岩手日報』を読みながら、選挙が終わったので去年のようなことはないだろうと言っています。その時、「それより、円高が心配だな。こんなに急に進むとな~。1986年は潮目が変わる時期かもしれんな」とつぶやいています。それを耳にしても、みーちゃんにはどういう意味なのかわかりません。これから世の中の流れが変わるのかなとなんとなく思っただけです。もちろん、流れが何のことなのか、どう変わるのかもまったく想像さえつきません。
みーちゃんのうちでは独り言が独り言になりません。うちに一人しかいないことがあまりないからです。
みーちゃんのうちは大人数です。休みの日の午後になると、お父さんとお母さんがクルマで街に買い物に行きます。食料品も日用品もすぐになくなってしまうからです。
けれども、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもお金を出していません。自分たちの育てているお米や野菜を食べてるのだから、貸し借りなしだと言っているからです。でも、みーちゃんは欲張りだからだと思っています。お祖母ちゃんは新婚旅行の間にうちに置いて行ったお母さんの月給を全部使ったような人だからです。
みーちゃんのうちには自動車が3台あります。お父さんの白のローレルスピリットとお母さんのグレーのマーチ、農作業用の白い軽トラです。お父さんは、休みの日に、このトラックで野良仕事を手伝っています。みーちゃんはこの荷台に乗って走るのが大好きです。気持ちがいいからです。でも、お父さんは警察に見つかるとまずいから屈んで乗ってなさいと言います。
家族そろって出かける時のクルマはローレルスピリットです。買い物にはみーちゃんはたいてい一緒に行きます。小兄ちゃんは中学生の時にはついてきたのに、高校生になってからは別行動をしています。
今年の春先に、江釣子のパルに家族三人で買い物にクルマで出かけた時のことです。確かでありませんが、暖かくなってきた頃だったみーちゃんは覚えています。
みーちゃんのうちは県道に面しています。以前は国道4号線と呼ばれ、その昔は奥州街道だった道路です。みーちゃんのうちは道路より高くなっています。ご先祖様が武士だったからです。武士と言っても、本当に下級です。武士はたいてい城下町に住んでいます。みーちゃんのご先祖様は藩境を監視するために、江戸時代の初めの頃に、伊達のお殿様に命令されてこの地に派遣されています。ですから、ここは伊達藩の直轄地です。100日交替で仙台から武頭(ぶとう)がやって来てこの辺りを管理しています。
藩境警備の村なので、農業生産が期待されていません。ここには本家分家がありません。分ける土地がないからです。もちろん、跡取りが生まれなかったり、亡くなったりすることもあります。一応名字がありますので、庶民と違い、イエ意識があります。そこで養子を迎えます。ですから、それと結婚も絡んで今でも地域のほとんどが親戚です。地域が一族とも言えます。
みーちゃんのご先祖様は鉄砲隊で、普段は番所に勤めていたそうです。武士の中でも低い位です。けれども、名字帯刀の身分なので、土を盛って街道より高い土地にうちを建てているのです。
関所の向こう側は南部藩です。そこは伊達藩より北ですので、寒い地域です。伊達藩から米を始め農産物を南部藩に密輸すると儲かります。みーちゃんのご先祖様はこの密輸の取り締まりが仕事です。しかし、藩境は長いし、山もありますので、どれだけ摘発できたかみーちゃんは知りません。もしかしたら、袖の下を握らされて見て見ぬふりをしていたかもしれません。
関所の跡地の辺りは藩境塚になっています。そのポイントで道が洗面台の下のパイプのように曲がっています。伊達藩と南部藩がお互いに直接見えないようにするためです。
みーちゃんのうちは下組(しもくみ)にあります。関所から仙台に向かう奥州街道沿いの地区は上組・仲町・下組に分かれます。番所は上組と仲町の境にあったとされています、全般的に、下組のうちは街道より高く、上組は同じ高さ、仲町は低くなっています。これは身分を表わしています。
仲町に「かなぐづ屋」という駄菓子屋のような商店があります。バス停のところにあったのですが、今は閉店しています。「かなぐづ」は土地の訛りで、共通語で言う「かなぐつ」、すなわち馬の蹄鉄のことです。江戸時代、そこは鍛冶屋だったので、道よりも家が低くなっています。士農工商の身分がうちの土地の高さにも影響しているのです。
北上川沿いの堤防は茂雄さんが生まれた頃、1950年頃に作られています。その前のカサリン台風やアイオン台風が来た時、北上川が氾濫して、水が国道4号線まで押し寄せましたが、みーちゃんのうちには被害はなかったそうです。けれども、道より低い仲町のうちは浸水しています。今も昔も災害は社会的弱者により多く発生するのです。
県道を北上して、うちから3分ぐらい進んで藩境塚を超えた辺りで、助手席のお母さんがこう切り出します。
「あの人はいっつもだな。今日も残留孤児のニュースを見ていつもとおなじこと言ってたけど、満州から引き揚げたのって19年でしょ?」
ハンドルを10時10分に握ったお父さんは前を向いたままこう応えます。
「そう。お祖父ちゃんが沖縄に行ったから」。
お母さんも前を向いたまま、さらに問いつめます。
「1年も前なら、残留孤児になるわけないでしょ?」
「まずそうだね」。
後部座席のみーちゃんが前に身を乗り出して、お父さんにこう質問します。
「満州に行ったのはいつなの?」
お父さんはちらっとみーちゃんを見て、すぐに視線を前方に戻して答えます。
「えーと、昭和15、いや14年、小さい頃だからよく覚えてねーなあ、確か、その辺」。
みーちゃんは、運転席と助手席の座席に両手をかけ、中腰になってこう続けます。
「いくつの時?」
「んーとねえ、お父さん、昭和12年生まれだから、3歳くらいでねえか」。
「ハルピンだったの?」
そう言ってみーちゃんはさらに前に身を乗り出します。
「危ないから、座ってなさい!」
お母さんが注意したので、みーちゃんは後部座席に座り直します。
「は~い」。
おとうさんはルームミラーを軽く見た後で、こう答えます。
「いや、最初は、綏陽(すいよう)でながったかな。その後に、ハルピンだと思う」。
「寒かった?」
「ああ、冬はね、雪は降らないけど、すっごく寒い。水まくと、すぐに凍っちゃうんだから。外はもう天然の冷蔵庫」。
「へー」。
「でも、空、きれいだったな~。乾燥してるから澄んでてねー、それとさ、地平線がずーっと見えんの、視力の続く限りさ。夕焼けなんかさ、地平線に太陽が沈んでいくんだよ」。
「いい思い出なんだね~」。
「でも、いい思い出だけじゃない。差別があったなあ」。
「差別?」
ここまで順調に来たのに、九年橋を渡り終わってすぐの信号機が赤に変わり、クルマがとまります。この交差点を左折するために、サイドブレーキを引いた後で、お父さんは左のウィンカーを点けます。
「日本人の方が中国人や朝鮮人より上だって意識があってな。屋台でなんか食べてーなーと思ってもさ、祖母さんがダメだって言うんだよ。うまそうなんだよ。だけど、中国人や朝鮮人がやってるのよ、屋台を。日本人の子はああいうところで食べちゃなんねって手引っ張ってよ、すぐ通り過ぎんだ。子どもながらに、それは少しおかしいんでねえかとは思った。ま、祖母さんには言わなかったけどな」。
お父さんはルームミラーを覗きこんで、みーちゃんの顔をちらっと見ます。
「お父さんは子どもだったから、戦争の時、社会というかそういったものがどんな感じだったかは覚えてるんだけど、戦場のことは知らないんだ。今はこうして空気みたいに話してるけど、いずれあの戦争や戦場のことを知っている人たちもいなぐなるだろうな、お父さんも含めでね。知らない人が増えれば、空気も変わって、それこそ風化するかもしれないな。今で下げ、やられだごどは話し手も、やったごどは黙ってすべど思ってるのが少なくねしな。空気のように戦争や戦場のことを話していれば、風が吹いて流れでくふぉどもねんだどもな。そうやって、戦争しねごどが文化になれば、戦争はしねんだ」。
腕を組みながらそう語るお父さんに、お母さんがこう聞きます。
「引き揚げる時は、別に危険ではなかったんでしょ?」
「釜山で、潜水艦が来るって、何日か足止めになったかな」。
「あの残留孤児の親子は、戦争が終わって、取り残された人たちでしょ?軍隊も逃げちゃったりしてさ。言わば、無政府状態に置かれた人たちでしょ?あの人たちは!うちのお祖母ちゃんたちとあの人たちでは苦労が全然違うじゃない!」
「そりゃそうだ」。
信号が青に変わります。お父さんはサイドブレーキを外し、前に続いてクルマを進ませて、ハンドルを左にゆっくり切ります。その間、お母さんがこう話しています。
「満州から引き揚げてきたときだって、せっちゃんのお母さんなんか、満州から女1人で子ども3人連れて戻ってきてさ、疲れきっちゃって、せっかく帰ってきたのに、寝込んじゃって、すぐ亡くなったでしょ?必死の思いで子ども抱えて満州からここまで来たんだ。あと、引き揚げじゃないけど、ほら、やす子さんは戦争未亡人でしょ?あの人、何か頼む時、『もさげね~』って、必ず何か包んでくるでしょ?『いいがら、いいがら』って言ってもさ、『うぢから何もでぎねがら』って言うもんね。結局、女だと地域の集まりにも出れないわけでしょ?女手一つで苦労して子ども育ててさ、大変だったんだ」。
「恵まれてんのよ、そういう人たちから比べれば、うちの祖母さんは」。
「だから、クリーニング屋の小野寺さん、あの人、お祖父ちゃんのこと、独り者だと思ってたんでしょ?あれくらいの年寄りの男が自分でクリーニングに持って来るから。この間、『お宅のお祖父ちゃん、大変だね、奥さん、早ぐに亡くされたのすっか?』って言うから、『いや、独り者でねえよ、お祖母ちゃんいるよ』って言ったら、小野寺さん、『えー!』とか驚いてさ。あの人、元々、この辺りの人でないから、知らないだもの、うちのお祖母ちゃんのこと」。
「まあ、軍隊は男所帯だから、何でも自分でやるわけよ。だから、祖父さんも繕い物も下着の洗濯も自分でするし、料理もやるがらな。自分のことは自分でするのが当たり前で。戦場で何かあった時に、人のせいにできないもの。何かあってさ、人のせいだと言って、そのまま命を落としたら、取り返しつかねえもんな~」。
「でも、お祖母ちゃんの性格もあるでしょ?いくら軍隊、長かったからと言って、戻ってきてからは奥さんにやらせる人もいるんじゃないの?」
「そりゃ、そうさ。ほれ、うちは、祖母さん、家のこと、何もしねえで、ひっこさんがやってらったがらな。だいたい、俺、学校さ行く時、自分で弁当つめでらったもの」。
「自分の家だからね、自分の親だから、何もしない娘でも、代わりにやってくれるわけでさ。嫁ならそうもいかないでしょ?」
みーちゃんには、お父さんとお母さんが誰のことを話しているのかさっぱりわかりません。これは仕方がありません。大人と子どもの人間関係は違います。こういう時、お父さんとお母さんは「今大人の話をしているからね」とみーちゃんに合図しているのです。
お父さんやお母さんがみーちゃんに話す時は、みーちゃんの人間関係に置き換えてくれます。「三宅のとしちゃん」なら、「よしのぶくんのお母さん」、「菅原先生」なら「千春ちゃんのお母さん」、「シズさん」なら「行商のおばあさん」、「及川さん」なら「そこの角の家」といった具合です。
もちろん、言い換えられなくても、「三宅のとしちゃん」や「菅原先生」や「シズさん」や「及川さん」が誰なのかみーちゃんだってわかります。でも、お父さんやお母さんが置き替えた時は、みーちゃんに話をしている合図です。大人だけの話ではありませんから、みーちゃんが口をはさんでも、叱られません。
誰のことかわからなくても、なんとなく聞いていると、いつの間にか覚えていて、ひょんな時に、「あ、この人が『みち子さん』なんだ」とか「へー、この人が『ラッパ』か~」って名前と顔が一致することもあるのです。こうしてみーちゃんは少しずつ大人の人間関係を知っていきます。戦争の話もそうなのです。
何も言わずに 二人きりで
空を眺めりゃ なにか燃えて
(石原裕次郎『胸の振子』)
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