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責任はすべて私にある(2016)

責任はすべて私にある
Saven Satow
Jan. 09, 2016

「99人を助けるために1人を犠牲にするしかない」。
松山善三『われ一粒の麦なれど』

 1960~61年、日本でポリオが大流行する。「ポリオ(Polio)」は「急性灰白髄炎(Poliomyelitis)」の通称で、ポリオウイルスによる感染症である。病原ウイルスは感染者の咽頭に存在する。感染者の便から排出されたウイルスがさまざまな経路で経口感染する疾病である。発症してもたいていは数日ほど胃腸炎のような症状が出る程度ですむ。

しかし、1%以下の確率で四肢に左右非対称性の弛緩性麻痺が残る。しかも、5歳以下の小児の罹患率が90%以上と高い。そのため、一般には「小児麻痺」とも呼ばれる。

 この時の流行は年間の患者数1000~5000人、死亡者数100~1000人に達している。有効な治療法はない。予防法はワクチン接種が有効である。ワクチンには経口生ポリオワクチンと不活化ポリオワクチンの大きく二種類がある。

 流行時には生ワクチンが効果を発揮する。これは弱毒化したポリオウイルスを使用するものである。そのため、ワクチンウイルス感染による副作用や麻痺性ポリオ発症が一定の確率で引き起こされる。

 実は、当時の日本には大流行に対処するだけの生ワクチンが不足している。海外から緊急輸入しなければならない。しかし、その中には日本で未承認が含まれている。カナダのシロップ・タイプとソ連の「ボンボン」とも呼ばれるキャンディー・タイプがそうである。それは薬事法などの規制を超えて、小児麻痺の危険性のあるワクチンを子どもたちに接種させることを意味する。

 自民党内を含めさまざまな方面から生ワクチン輸入に異論が出される。中には、輸入相手がソ連という点を非難する者さえいる。

 この事態を前に、池田隼人内閣の古井喜実厚生大臣は次のように述べる。

 「平常時守らなければならぬ一線を越えて行う非常対策の責任はすべて私にある」。

 この決断を受けて全国の1300万人の子どもにワクチンが摂取され、流行は沈静化していく。生ワクチン輸入について、松山善三監督が『われ一粒の麦なれど』(1964)という映画を撮っている。なお、手塚治虫の『ブラック・ジャック』の42話「アリの足」(1974)にもポリオの少年が登場する。おそらくこの流行の感染者だと思われる。

 この時の流行は世界的であり、70年代に米国では小児麻痺患者が成人を迎えるため、彼らの社会参加を容易にする「バリア・フリー」という発想が提唱されている。

 公衆衛生には社会防衛と個人防衛という発想がある。感染症の大流行の場合、個人防衛よりも社会防衛を優先させる。一方、流行の可能性がない場合は、社会防衛の必要がないので、個人防衛に徹する。政策は理論に基づいていなければならない。人々は理論を共有することで政策を理解できる。

 ポリオが事実上根絶された現在の日本では社会防衛を考えなくてよいから、未承認の生ワクチンを使うことはない。しかし、当時は1000人を超える患者が発生している。この流行を止めなければ、さらに患者数が増加する。

 具体的なリスクの伴う超法規的な判断は軽々しく行われてはならない。ワクチンを原因とした麻痺という重篤な事態を生じる危険性もある。にもかかわらず、権限を行使しなければならない。もたらされた結果の責任はその人物にある。古井大臣の発言はモラル・ジレンマを真にした覚悟だ。リスクが実際に起きたら、政治が責任を引き受ける。それにはその人や家族の人生がかかっている。

 フクシマを始め安倍晋三首相が「責任」を口にしながら、それがいつも軽々しい理由はここから明らかだろう。具体性や道徳性に乏しいからだ。

 古井大臣は、社会防衛という公衆衛生の発想に基づき、未承認生ワクチンのリスクを考慮した上で、超法規的判断をしている。しかも、モラル・ジレンマでの決断だ。権限が明確であるから、責任も取りようがある。それゆえ、「責任はすべて私にある」には重みがある。

 他方、安倍首相はリスクも理論的理由も権限も具体的に示していない。モラル・ジレンマも生じていない。それなのに、「責任」を口にする。この言葉には中身がない。こういう人物を「無責任」と言い、首相でいるべきではない。
〈了〉
参照文献
田城孝雄他、『感染症と生体防御』、放送大学教育振興会、2014年

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