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日本政府の自殺対策と『転落』(2006)

日本政府の自殺対策と『転落』
Saven Satow
Mar. 16, 2006

「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」。
アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』

 日本政府は、2005年末、今後10年間で自殺者の数を2万5000人以下とするための政策を決定している。現在日本の死因において、自殺は交通事故死以上である。日本の自殺者数は、景気低迷に伴い、98年以降、7年連続して年間3万人以上が続いている。ブッシュ政権は、2005年12月、開戦以来犠牲になったイラクの民間人数を3万人前後と(かなりサバを読んで)発表しているから、戦争並みの状態である。

 政府統計では、2004年度の自殺者数は3万2325人である。人口10万人当たり25.3人で、その3分の2以上が男性である。80年代から現在まで、女性の自殺者の増加が年間2000人程度であるのに対し、男性では、1万人以上も増えている。推測される自殺理由の一位は、若年層でなしに40歳以上の中高年に自殺者が多いように、健康問題、次いで経済問題とされている。

 国際統計によると、日本の自殺者数は、G8で、ロシアに次いで2位、OECD諸国の中では、ハンガリーの次である。国別の自殺率上位には、日本を除くと、中東欧ならびに旧ソ連諸国で占められている。これらの国では、体制転換に伴う社会の不安定化に起因する自殺者が増加している。旧西側諸国の間では、日本が最悪の値を示している。

 けれども、参議院厚生労働委員会において、「自殺に関する総合対策の緊急かつ効果的な推進を求める決議」がなされたのは2005年7月であり、「自殺対策関係省庁連絡会議」が開催されたのはその2ヵ月後である。あまりにも動きが遅すぎる。

 自殺対策関係省庁連絡会議は学校や職場でのカウンセリング・サービスなどを充実するほか、駅のホームに飛びこみ防止用のフェンスを増設し、ネット上の自殺を勧めるサイトへのアクセスを制限するソフトウェアも配布すると述べている。

 しかし、この自殺者対策は、一定の効果はあるだろうが、対処療法的である。自殺とうつ病を始めとする精神疾患との相関性が認められている。当然、それには社会的・経済的なストレスの影響が認められる。自殺へのやむにやまれぬ衝動から助けない限り、真の自殺者数減少にはつながらない。エミール・デュルケームの『自殺論』(1897)さえ必要としないほど明快である。そもそも自殺者増加の原因は貧富の格差を拡大させた政府の政策運営自体にある。

 日本における貧富の格差が拡大している実態はOECDによる「貧困率(Poverty Rate)」に関するレポートからも明らかである(http://www.oecd.org/dataoecd/48/9/34483698.pdf)。

 このレポートでは、可処分所得の中央値の50%に満たない人の割合を「貧困率」として、OECD27カ国の数値を算出・比較している。OECD全体の平均は10.44%であり、日本は15.3%である。これはメキシコ(20.3%)、アメリカ(17.1%)、トルコ(15.9%)、アイルランド(15.4%)に次ぐ第5位の値である。他方、最も低いのはデンマークの4・3%で、チェコ(4.3%)、スウェーデン(5.3%)、ルクセンブルク(5.5%)と続く。加えて、日本は、90年代後半に貧困率が1.6ポイント拡大したと指摘されている。OECD全体での平均は0.5ポイントの拡大だから、日本は貧困率だけでなく、貧困率拡大の割合も大きいということになる。さらに、年齢別の貧困率を見ると、日本には若年層と高齢者で貧困率が高い特徴がある。

 しかし、政府は、OECDの報告書が指摘するような貧富の格差は拡大していないと主張している。日本は、政府によれば、高齢者の就業率が先進諸国で最も高く、そのため、高齢者層における所得の差が大きいことにより、OECDの統計上、貧富の格差が生じている。年々拡大しているという批判も、高齢者人口の増加に伴い、その点が広がっているということになる。ジニ係数の上昇は少子高齢化のせいであって、政府の経済政策とは直接的に関係がないというわけだ。

 けれども、この主張が正しいとしても、考慮すべき点が含まれている。高齢者の間で格差が拡大しているとしたら、収入源が限られている以上、貧富の差が固定的だということになる。ジニ係数が上昇した理由を指摘しただけで、それを下げる有効策を示さないのは無責任である。

 実際に、自殺者が増加し、その原因に経済問題が占める割合は高い。こうした自殺は政治による殺人と言っても過言ではない。政府が経済政策を抜本的に見直すことが最良の解決策である。

 政府の対策ではアルベール・カミュ(Albert Camus)の『転落(La Chute)』で発せられた問いに答えられていない。「われわれは何人の無罪を請け合えないのに、万人の有罪であることは確実に断言できる。各人はすべて自分以外の者の罪を証言している、これが私の信念だし、ここに私の希望があるんです」(『転落』)。

 ジャン=ポール・サルトルとの論争を経て、カミュは、1956年、小説『転落』を発表する。場所は、アムステルダムの運河を囲む港の界隈で、このアルジェリア出身の作家はそこをダンテ・アリギエリが『神曲』の「地獄篇」で描いた円環の地形に見立てている。かつてこの世の楽園を謳歌しながら、「転落」してしまった元弁護士ジャン・バティスト・クラマンスが酒場で出会った客に、5日に亘って、これまでの人生と内面を告白するという内容で、彼の独白によって全編が構成されている。

 クラレンスはその客に向かった次のような問いかけをする。

 誰かが身投げしたとする。とる道は二つに一つ。一つはその後を追って飛びこみ、自殺者を救い出すこと。でも、この寒空じゃあ、下手をすれば、こっちまで死んでしまいかねない!もう一つは見殺しにすること。けれど、飛びこんで救ってやろうとしなかったことは、後々妙に心の疼く元になるもの。それでは、おやすみなさい。

 元弁護士は、日を改めて、自分の投げかけた問いに次のように答える。

 仕方がない。やらなくちゃなるまい、うわあーっ!水は冷たいぞ!でも、心配後無用!今じゃ手遅れだ。これから先だって、手遅れですよ。ありがたいことに!

 これはまさに日本政府の対策である。二つに一つの道というアンチノミーを回避し、川に入らず、「飛びこんで救ってやろうとしなかったことは、後々妙に心の疼く元になるもの」を避けるうまい手だ。「今じゃ手遅れだ。これから先だって、手遅れですよ。ありがたいことに!」はアイロニーだが、小泉純一郎政権は字義通り人々に語っている。不条理などそこにはない。

 あまりにも遅い対策を見る限り、政府は、明らかに、通行人としての立場でしか自殺者対策を考えていない。死にたがっている人物が溺死してしまうだけのことだと眺めているだけだ。急増した自殺の理由もはっきりしていて、且つそれが政府自身によることも明らかである。にもかかわらず、小泉政権は、ろくに責任も感じず、その事実を直視しようとしない。

 一方、セイント・カミュの大叔父は、身投げする人とそこに通りかかる人とを同時に、自分自身として扱っている。「《私は最低中の最低の人間なんだ》そして話の途中に、気づかれないように《私》から《われわれ》に移ってゆく。最後に《これがあるがままのわれわれだ》と言うところまで来たらしめたもの、私は彼らに、彼らの姿を暴露してやることができるのです。そりゃ私だって彼らと同じです。同じ泥水に浸っているんですから。しかし、私はそれを知っている分だけ優位です」。人は、ある状況に置かれれば、自殺者にも、通行人にも、なりうる。

 「今じゃ手遅れだ。これから先だって、手遅れですよ。ありがたいことに!」というシニシズムを通りがかりの人として政治が口にすべきではない。日本において、1日に平均87人が自殺をしている。しかも、その何倍もの人々が、心に痛手を抱えながら、遺族となっている。
〈了〉
参照文献
アルベール・カミュ、『シーシュポスの神話』、清水徹役、新潮文庫、1969年
同、『転落・追放と王国』、大久保敏彦他訳、新潮文庫、2003年

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