臨床とコラボレーション(2013)
臨床とコラボレーション
Saven Satow
Apr. 05, 2013
「片手で錐は揉まれぬ」、
1990年代から「臨床」と付いた新たな学が登場している。臨床社会学や臨床教育学、臨床哲学がこの代表だろう。しかし、これらの「臨床」の用法は必ずしも適切ではない。これは心理学を例にすれば、よくわかる。
心理学は大きく基礎心理学・応用心理学・臨床心理学に分けられる。その発展過程から臨床心理学を一般の心理学と別に捉える場合もある。しかし、三領域とも相互に知見を参考・共有しているので、いずれも心理学を構成していると考えられる。
基礎心理学は人間一般の心理現象を扱う。しかし、改善を目的とはしない。社会心理学がこれに当たる。マクロ心理学とも言える。
応用心理学は特定の状況における人間の心理現象を取り扱うメゾ心理学である。産業心理学が一例である。産業心理学は産業に関連する人間の認知行動を研究し、そこには労働災害・事故の減少など改善も目的に含まれる。教化プログラムの作成だけでなく、ヒューマン・エラーを前提にした上で、その防止のための環境整備に役立っている。
臨床心理学は個々の人間の心理状態を改善することを目的とする。先の二つの心理学と目的を共有していないので、臨床心理学は別だという考えも一理ある。臨床場面での発見が方法や療法の改革につながることも少なくない。言わば、ミクロ心理学である。
マクロやミクロの区別は範囲に限定しない。視線の方向からも考えることができる。社会と人間行動を扱うとする。この場合、その人間行動をさせる社会が主眼であればマクロ、社会における人間行動が主であればミクロになる。
臨床は医学や看護学で用いられてきた概念である。ベッドサイドに寄り添うように、直接患者の治療に当たることを指す。これがクライアントへの個別支援活動を行う心理学の分野に適用される。
しかし、近年の用法には違和感がある。サイエンス・カフェの原型であるフランスの哲学カフェでは、哲学者と市民が交流している。「臨床哲学」という名称にはそれを超えた意欲が感じられる。現場への適用もしくは現場からの反映であれば、応用や実践で事足りる。わざわざ臨床を使う理由は、個別対応と問題改善の強調だろう。一般的・抽象的思考に閉じこもっているべきではない。しかし、個別的・具体的な問題に発言するだけでなく、自分たちもその改善に直接携わらなければならない。けれども、個別対応と問題改善を満たす方法が臨床であるとは限らない。
基礎と応用の区別は倫理学にも見られる。伝統的な倫理学は基礎倫理学であり、生命倫理や技術者倫理などは応用倫理である。応用は、社会の変化によって、ある特定の職業の従事者の判断が非常に大きな影響を及ぼす事態になったため、生まれている。けれども、臨床倫理学はない。臨床は問題解決の個別対応であるからと言って、懺悔や座禅をそうは呼ばない。聖職者が個人に応対するが、そこで得られた知見がその方法や教義を発展させることはない。
問題行動をした青年がいて、その背景に規範意識の低さがあったとしよう。道徳を内面化させる必要がある。この事例では問題解決の個別対応の倫理学の出番である。
規範の内面化には教えこむのではなく、自ら考えさせなければならない。ミクロ倫理学と言えるのは対話型のそれである。マイケル・サンデルで有名になったモラルジレンマがその代表である。あれは授業として行っているが、一対一のディスカッションにすれば、問題解決の個別対応の倫理学になる。モラルジレンマ対話は、道徳教育に通じたカウンセラーの間で試みられている。この方法は、相手の反応に対処するには、交流分析の利用が必要であるから、臨床心理学に近接する。ただ、カウンセラーは、通常、倫理学に精通しているわけではないので、倫理学者が行うことになる。カウンセラー的倫理学者がミクロ倫理学には最適だ。
問題解決の個別対応であるため、臨床家は対象者のプライバシーに立ち入らざるを得ない。そのため、守秘義務が課せられている。こうした事情により、臨床の内実が一般にあまり知られていないのが現状である。
通常の社会学者や教育学者、哲学者は臨床の訓練など受けていない。フィールドワークに長けていたとしても、臨床の専門家ではない。ベッドサイドに寄り添うにも専門的な知識・技能が要る。臨床的な学を構築しようとすれば、臨床心理学や看護学の方法を導入せざるを得ない。そこには膨大な知見の蓄積がある。実際、臨床教育学の日本での提唱者は河合隼雄である。
ただ、新たな臨床を指向する学者は他分野との協力にも積極的であるが、カウンセラーや看護師との協同はあまり見受けられない。関わっても、臨床家による哲学考察となっている場合もある。木村敏の『臨床哲学講義』というタイトルは『臨床家哲学講義』の方が正確である。「臨床」は、臨床心理学や看護学などとの「コラボレーション」という意味で用いるなら、適切である。それにはその対象者自身も含まれる。こうした臨床の学であれば、人は求めるに違いない。
〈了〉
参照文献
木村敏、『臨床哲学講義』、創元社、2012年
林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2009年