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議院内閣制と首相任期(2018)

議院内閣制と首相任期
Saven satow
Jul. 09, 2018

“A constitutional statesman is in general a man of common opinions and uncommon abilities.”
Walter Bagehot

 アメリカ合衆国は建国に際して、議院内閣制ではなく、大統領制を採用する。それは英国に対する対抗心ではない。三権分立を徹底するためである。議院内閣制は議会の多数派が首相を選出する。それは立法府に足場を持った上での行政府の長である。これでは首相の権限が強力になりすぎ、権力の暴走の危険性があるとアメリカ建国の父祖は考える。

 西洋政治理論の伝統における最大の課題の一つが僭主、すなわち独裁者の防止である。独裁者は社会の対立・混乱に乗じて権力を握り、法ではなく、恣意によって支配する。それにより人々が分断され、相互不信に陥り、独裁者に服従、自由のない社会は卑屈さに覆われる。古来より独裁は最悪の政体とされている。

 独裁者の防止策の一つとして認められてきたのが権力分立、すなわち共和主義である。この名称は共和政ローマに由来する思想という意味で、共和国の政体に限定する者ではない。権力を抑えることができるのは別のそれである。権力を分けて相互牽制させれば、暴走する危険性がなくなる。この共和主義を近代的に整備したのがシャルル・ド・モンテスキューの三権分立論である。その影響を受けて共和主義を建国原理に位置づけたのがアメリカ合衆国だ。

 大統領制では、立法府と行政府のそれぞれの代表を選挙で選ぶ。この選出法により、議会と大統領は相互に独立・牽制し、政治的バランスがとられる。大統領は議会にではなく、国民に責任を負う。その権限は任期によって守られている。立法と行政の分立のために、大統領が任命する内閣の閣僚は議員ではない。ただし、議会による弾劾が大統領権限を制限している。また、大統領も法案に対する拒否権によって議会を牽制する。

 他方、議院内閣制は立法府の多数派が行政府の長を選出する。立法と行政の連携のために、多くの閣僚は議員が重複している。そのため、内閣は議会に責任を負う。ただし、両者は連携しているが、癒着してはいない。議会は不信任案を提出して内閣を牽制する。その際、内閣は解散権によってそれに対抗できる。

 ところで、建国の父祖と違う見方を英国の政治学者ウォルター・バジョット(Walter Bagehot)が示している。彼は中央銀行を最後の貸し手と位置づける「バジョット・ルール」で知られるが、政治学でも鋭い考察を行っている。バジョットは、『イギリス憲政論(The English Constitution)』(1867)において、大統領制に対する議院内閣制の優越性を主張する。それは時として贔屓の引き倒しであるが、中に示唆的な指摘があり、傾聴に値する。そもそも、彼は制度の適正は伝統によるものと言っている。英国の伝統に沿っているから議院内閣制が優れているのであって、別の状況ではその評価も異なる。

 バジョットは英国を君主制国家と規定する。エドマンド・バークの混合政体論、すなわち王政・貴族政・民主政が混合して権力バランスをとっているという主張には否定的である。変容を破ることがイギリスのよさであり、だからこそ、変化の激しい近代に適合的だと言う。

 バジョットは国政には「威厳の部分」と「機能の部分」があると説く。これは権威と権力とも言い換えられる。「威厳の部分」は統治の正統性であり、自発的服従、すなわち愛国心を調達する。他方、「機能の部分」はその正統性を利用して統治を実行する。英国では前者が君主、後者が内閣に当たる。また、アメリカにおいては大統領が両者を担っている。

 議院内閣制は立法と行政が連携しているので、統治が機能的に行える。内閣は立法に選出された「委員会」である。内閣は強い権限を背景に迅速に行動できるから、変化に対応しやすい。

 それに比べて、大統領制の権限分立は統治の効率性に欠ける。議院内閣制より即応性に劣る。これは、いわゆるねじれのことである。大統領の与党と議会の多数派が異なる場合、統治が停滞する可能性がある。

 バジョットは、言うまでもなく、権力の暴走の防止についても語っている。内閣の権限は議会の多数派に依拠している。そのため、議会は必要に応じて多数派の判断によって内閣を交代できる。議会は任期にとらわれず内閣を取り換えられるので、その権力を制御している。議院内閣制のよさは内閣を必要に応じて短期間でも交代させられることにある。

 このように、議院内閣制の変化への即応性には内閣を素早く交代できることが含まれる。内閣はあくまで「機能の部分」なので、頻繁に変わっても問題はない。人々の国家に対する忠誠は「威厳の部分」が担っており、内閣交代はそれに影響しない。他方、大統領制は任期に縛られ、トップ交代が必要になっても、それに対処できない。しかも、大統領は「威厳の部分」と「機能の部分」を兼ねており、ころころ変わると、人々の愛国心も揺らぎかねない。

 確かに、こうしたバジョットの議論は、戦前の経験を踏まえると、すんなり受け入れることなどできない。統帥権の独立に基づいて、軍部は「機能の部分」を無視、「威厳の部分」である天皇を利用して暴走している。国民は「威厳の部分」に命を捧げることを誉であるとされ、それに異を唱える者は「非国民」と周囲からも白い目で見られている。

 しかし、議院内閣制のよさとして内閣交代の柔軟性を挙げていることは注目に値する。この制度の内閣は権限が強く、暴走の危険性がある。それを防止するのが任期にとらわれずに議会が内閣を交代させられることだ。議院内閣制において長期政権は必ずしも好ましいことではない。変化に対応する柔軟性が失われ、統治が硬直してしまい、権力が暴走する危険性があるからだ。実際、マーガレット・サッチャーもトニー・ブレアも、政権末期、世論の支持のみならず、身内からも離反され、二進も三進もいかない状況に陥っている。

 従来、日本の国会は首相を比較的短い期間で交代させてきたが、これは権力の暴走を抑止する効果があったと理解できる。短期政権を揶揄する声が世論にも高かったのだから、政治家がそれを意図して首相を頻繁に変えてきたわけではないだろう。言わば、経験による暗黙の知恵である。日本の伝統には短期政権が適している。長期政権で、西日本豪雨災害への後手後手の対応ばかりの安倍晋三内閣がそれをよく物語っている。
〈了〉
参照文献
ウォルター・バジョット、『イギリス憲政論』、小松春雄訳、中公クラシックス、2011年

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