「汚れた手」としての政治(8)(2022)
第8章 賽の河原
倫理学における犠牲の伴う判断ジレンマとして「トロッコ問題(Ttrolley Problem)」がよく知られている。ある人を助けるために他の人を犠牲にすることは許されるのかというモラル・ジレンマである。フィリッパ・フットが1967年に提起したしたこのジレンマ資料は直観主義と功利主義の倫理思想を改めて問い直す。
「トロッコ問題」の内容は次の通りである。暴走するトロッコの軌道上に5人の作業員がいて、そのまま放っておけば5人は轢死してしまう。自分が分岐器を作動させれば、トロッコは別の軌道に入る。しかし、その先にも1人の作業員がおり、トロッコにより轢死する。この場合、「自分」はどのような選択をすればよいかと問う問題である。
実際の問題は穴がないように厳密に構成されている。また、この問題のヴァリエーションも考案されている。さらに、近年では、AIによる自動運転の設計の際にも考慮しなければならない問題として扱われている。
自分が何もしなければ、5人は命を落とす。他方、自分が線路を切り替えれば、5人は助かる。ただし、その代わりに、自らの行為により1人が死ぬ。
自分が功利主義者なら、死者数が減るので、線路を切り替えるべきであると行動する。確かに、1人は亡くなるが、自分の手で5人を助けられるなら、見殺しにすることはできない。しかし、直観主義者はそう考えない。切り替えずに5人がなくなったとしても、それは事故の結果である。ところが、別路線に引きこんだなら、自分の手で1人の人間を殺すことになってしまう。すべての人間は主体として扱わなければならないのに、その人は5人を助けるための客体とされる。
いずれの場合でも、人が死ぬ。どちらの選択が絶対的に正しいわけではない。だから、ジレンマである。どの選択肢も自分のせいで人が命を落とすことになる。5人の場合であれ、1人の場合であれ、その遺族に向かって言い訳ができるはずもない。後味の悪さや後悔が残る。それを仕方がなかったと強弁するのは見苦しい。罪悪感やうしろめたさに向き合うほかない。
功利主義は結果によって行動を正当化する倫理学である。また、直観主義は普遍的な動機によってそうする。正当化であるがゆえに、いずれも正しさを判断基準にしている。一方、前近代はよい生き方、すなわち美徳を倫理の目的とする。そのため、卓越主義者は、トロッコ問題において、別の態度である。自分の行動が共同体規範の認める美徳に沿っているかによって道徳的と判断する。結果や動機ではない。それに対し、近代は正しい生き方、すなわち正義を重視する。
アリストテレス は実質倫理学を説く。よい生き方の認識はその実践につながる。他方、近代はメタ倫理学の時代である。価値観が多様である以上、倫理について考えることが必要になる。その際、内在的倫理と外在的倫理の視点があり得る。さまざまな科学の発展に伴い思いもよらぬ事態に直面する。新たな倫理、すなわち公共的正当化が求められ、それは応用倫理学と呼ばれる。内在的はその専門家らの見方であり、外在的は社会の見方である。両者が議論することで新たな倫理が生まれる。
前近代においては社会と個人が規範を共有しているので、こうしたコンセンサスの形成は必要としない。そうした美徳の行動をとればよいから、トロッコ問題はモラル・ジレンマになり得ない。
近代は価値観の選択が個人に委ねられている。そのため、価値観の対立・衝突が生じるようになる。「価値観の多様化」という門切節はその激化を意味しているのであって、「なぜ今倫理なのか」とモラルが再検討される。歴史的に見て、倫理が問い直されるのは伝統が揺らいだ時である。事実、アリストテレスにしても、ポリスの自明性が崩れ始めヘレニズムに向かう時代の中で倫理学を考察している。
倫理は認知行動の公共的正当化である。倫理学は価値観の対立・衝突を解消ないし妥協の道筋を用意する。政教分離の近代においても、政治に倫理が必要とされるのは、それが公共性にかかわるからである。
政治的実践は価値の選択である。マックス・ヴェーバーが『職業としての政治』で言うように、それを担う政治家には情熱と責任感、判断力が不可欠だ。近代化学を始め学問研究の発展により予測可能性が高まっている。選択はそれを論拠になされなければならない。ただ、ある価値を選べば、繰り返しになるが、他を犠牲にせざるを得ない。自然現象ではないので、その結果に政治家は責任を取らなければならない。
マックス・ヴェーバーは、『職業としての政治』の中で、政治をめぐる倫理を二つに分けている。それは「心情倫理」と「責任倫理」である。『汚れた手』のエドレルの選択を「心情倫理」によって拒否することは、予測された悲惨な結果をもたらしかねない。しかし、その選択が他に比べて効用があることを証明しなければならない。「結果責任」は他の選択の犠牲に対して負うものだ。
ジレンマの中で選択した決断は、相対的に妥当と認知した上での行動である以上、絶対化するのは倒錯である。これしかなかったと開き直ることは後知恵にすぎない。その選択肢をめぐる葛藤を引き受けることが決断を正当化する。このジレンマはたんなる逡巡ではなく、いずれを選んだとしても、そこにパレート最適があり得ないものだ。決断した後にうしろめたさを抱かざるを得ない。
その判断は善と悪の二項対立の選択ではない。しかし、そうした認識を持つ時、うしろめたさは消える。それが「モラリズム」の効果である。だから、社会が複雑化してジレンマが増すと、「モラリズム」ははびこる。
このうしろめたさは、たとえるなら、「賽の河原」である。それに終わりはない。いつまで後ろめたくしていればよいのかという問いはその本質を理解していない。うしろめたく思い続けることが救済である。15年戦争の戦争責任や謝罪もこの好例だ。
「賽の河原」は親に先だって死んだ子どもが苦を受けると信じられている冥土の河原のことで、「西院(斎院)の河原」とも呼ばれる。ここで子どもが石を積んで塔をつくろうとすると、鬼がそれを崩し、責めさいなむ。これが繰り返されるが、やがて地蔵菩薩が現われ、その子を守り救う。何度も崩されながらも続けられる石による塔作りは無意味に見えて、実は功徳である。この説話は『地蔵和讃』や『賽の河原和讃』などを通じて、民衆に広まっている。ただし、賽の河原は、仏典のなかに典拠がない。日本中世に生まれた俗信と思われ、『法華経』の「方便品《ほうべんぼん》」における童子が戯れに砂で塔をつくっても功徳があると説く経文に由来するとされている。
賽の河原の教えはシシューポスの神話にも通じる。神を欺いたため、シーシュポスそ々の怒りを買い、大きな岩を山頂に運ぶ罰を受ける。しかし、彼がそれをやり終えると、すぐさま岩は転がり落ちてしまう。何度繰り返しても、結局は同じである。
カミュは『シーシュポスの神話』(1942)において、この神話を人間の姿として解釈している。人間はいずれ必ず死ぬ。死ねばすべてが終わりであるにもかかわらず、人間は生き続ける。この神話はそうした人類全体の運命を描いている。人間は不条理が受け入れられることにより世界が無意味であることを認知する。けれども、その際、個としての人間は、シシューポスのように、世界に対する反抗によって自由になり得る。
しかし、賽の河原では、死ねばすべてが終わりではない。罪に対する罰は永遠である。だが、それを引き受ける時に救済がある、そう理解した方がよいだろう。能動的に罪滅ぼしの反復作業を永遠に繰り返そうとすることにより救済があり得る、
絶対的な価値観はない。選択をある価値観によって正当化して居直る時、「汚れた手」としての政治は恣意的になる。「うしろめたさのモラル」(森毅)が見失われた政治は独裁に堕落する。「汚れた手」は「うしろめたさのモラル」に基づいていなければならない。
「汚れた手」を洗い流すことはできない。しかし、汚れたままにしておくこともできぬ。賽の河原で子どもが石を積むように、うしろろめたさを忘れずに、手を洗い続けるだけである。”Irrécupérable!”
これはこの世のことならず
死での山路の裾野なる
賽の河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬ幼子が
賽の河原に集まりて
父上恋し母恋し
この世の声とは事変わり
悲しき骨身を通すなり
かの幼子の所作として
川原の小石を取り集め
これにて回向の塔を積む
一重積んでは父のため
二重積んでは母のため
三重積んでは故郷の
兄弟わが身と回向して
昼は一人で遊べども
日も入りあいのその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする
娑婆に残りし父母は
追善さぜんの務めなく
ただ明け暮れの嘆きには
むごや悲しや不憫ぞと
親の嘆きは汝らが
苦言をうくる種となる
我を恨む事なかれ
黒金棒を取り立てのべ
積たる塔を押し崩す
また積め積めと責めければ
幼子のあまりの悲しさに
まこと優しき手を合わせ
許したまえと伏し拝む
汝ら罪がなくなく思うかや
母の乳房がいでたれば
泣く泣く胸を打つ時は
八幡地獄に響くなり
母は終日疲れにて
父が抱かんとする時は
母を離れず泣く声は
天地奈落に響くなり
言いつつ鬼は消えうせる
峯の嵐の音すれば
父かと思うて馳せ登り
谷の流れを聞く時は
母かと思うて馳せ下り
辺りを見れども母はなく
誰とてそえいをなすべきや
西や東に駆け巡り
石や木の根につまずいて
手足を血潮の染めながら
おさな心のあじきなや
砂を敷きつつ石枕
泣く泣く寝入る折からに
また精霊の風吹けば
皆一同に起き上がり
ここやかしこと泣き歩く
その時能化の地蔵尊
ゆるぎいでさせ給いつつ
何を嘆くか幼子よ
汝ら生命短くて
冥土のたびに来るなり
汝ら父は娑婆にあり
娑婆と冥途は程遠し
我を冥途の父母と
思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣の
もと裾の内にかき入れて
哀れみ給うぞ有り難い
まだ歩けぬ幼子を
錫杖の枝に取り付かせ
忍辱慈悲の御肌へ
抱きかかえて撫でさすり
大悲の乳房を与えつつ
泣く泣く寝入る哀れさよ
たとえがたき御涙
袈裟や衣に慕いつつ
助け給うぞありがたや
わが子を不憫とおもうなら
地蔵菩薩を念ずべし
南無大聖の地蔵尊
(『賽の河原地蔵和讃』)
〈了〉
参照文献
アウグスティヌ、ス、『アウグスティヌス著作集』9、子晴勇訳、教文館、1979年
岩井宏實、『暮しの中の神さん仏さん』、河出文庫、1989年
マックス・ヴェーバー、『職業としての政治』、脇圭平 訳、岩波文庫、1980年
マイケル・ウォルツァー、『正しい戦争と不正な戦争』、萩原能久監訳、風行社、2008年
カフカ=サルトル、『世界文学全集』20、河出書房新社、1989年
アルベール・カミュ、『カミュ全集』5、新潮社、1973年
同、『シーシュポスの神話』、清水徹訳、新潮文庫、1982年
カミュ=サルトル、『革命か反抗か―カミュ=サルトル論争』、佐藤朔訳、 新潮文庫、1969年
ジャン=ポール・サルトル、『サルトル全集』7、人文書院、1981年
高橋和夫、『世界の中の日本―グローバル化と北欧からの視点 』、放送大学教育振興会、2015年
フリードリッヒ・ニーチェ、『ニーチェ全集』4、ちくま学芸文庫、1993年
林泰成、『道徳教育論』、放送大学教育振興会、2009年
松原隆一郎他、『社会と産業の倫理 』、放送大学教育振興会、2021年
森毅、学校ファシズムを蹴っとばせ』、講談社文庫、1989年
柳原正治、『国際法〔改訂版〕』、 放送大学教育振興会、2019年
山岡龍一、『西洋政治理論の田朗」、放送大学教育振興会、2009年』
ジョン・ロールズ、『正義論』、川本隆史他訳、紀伊国屋書店、2010年
C. A. J. Coady, "Messy Morality: The Challenge of Politics", OUP Oxford, 2008