国会から叩き出せ!(2015)
国会から叩き出せ!
Saven Satow
Sep. 24, 2015
「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」。
大野伴睦
その光景は『スミス都へ行く』の議会演説シーンに重なって見える。奥田愛基SEALDsメンバーは、2015年9月15日の参院特別委員会中央公聴会において、安保法案について語る。
「あのー、すいません。先ほどから、寝ている方がたくさんおられるので、もしよろしければ話を聞いてほしい」として、「ボクも2日間くらい寝られなかったので、帰ったら早く寝たいと思っています」と切り出す。
また、「私たちの調査によれば、日本全国で2000件以上、数千回を超える抗議が行われています。累計130万人が路上に出て(安保法案反対の)声を上げています」。「たくさんの集会があの町でもこの町でも行われています」。「声を上げずとも疑問に思っている人はその数十倍以上いるでしょう」。
さらに、「強調しておきたいことがあります。私たち政治的無関心といわれてきた若い世代が動き始めているということです」と述べた上で、こう言い放つ。「この国の民主主義のあり方について、この国の未来について、主体的に一人一人、個人として考え、立ち上がっていったものです」。
SEALDsのメンバーはこれまでも街頭で演説を行っているが、彼らはいずれも雄弁家ではない。今回も同様だ。しかし、そのたどたどしい熱い叫びは心を打つ。思いを言葉にしようと全力だからだ。
それは安倍晋三の言葉と対極にある。思いこみの野次や思いつきの答弁、使い回しの演説など彼の言葉には存在の耐えられない軽さしか感じられない。彼の発言を活字にして読むと、異常者ではないかとさえ思える。
『スミス都へ行く』はフランク・キャプラー監督による1939年のアメリカ映画である。民主主義の理想を描いた名作であるが、米政治の腐敗を扱っているため、占領政策に支障をきたす恐れがあるとGHQが判断、上映を認めていない。
9月15日の中央公聴会をNHKは中継していない。安倍政権下の言論は外国の占領と同じ状態というわけだ。占領と同様の統治体制を独裁と呼ぶ。どちらも住民の意思が政治判断に反映されないからだ。安倍政権は独裁体制である。
世論の圧倒的な反対を無視し、2015年9月19日、安保法案が参院で可決される。しかも、かねてよりこの法案に対して法曹界から違憲であると指摘されている。世論の支持もなく、違憲の法案を国会議員が成立させたわけだ。
安保法案の論議や可決で明らかになったのは賛成派、すなわち政府並びに議員の自由民主主義へのコミットメントの低さだ。自分たちだけが政治を担っていると錯覚している。今日の民主主義は多元主義、すなわちポリアーキーである。民主主義は進化する。
5年間隔で実施される国際プロジェクト「世界価値観調査」は政治参加を投票に限定していない。請願書署名やボイコット活動、デモなど直接的に政治にかかわる多様な行動もそれと捉えている。幅広い政治参加の手段を持つことが自由民主主義において重要だ。それを狭めようという政治家の発言や行動は民主主義の進化に貢献するどころか、妨害している。
そもそも代議政治はパターナリズムではない。議員は選挙によって有権者から白紙委任状を渡されたわけではない。
近代国家と経済社会を関連づけ、いずれの基礎付けを行ったのがジョン・ロックである。彼は人民に革命権を認める。人民の抵抗は近代国家と経済社会の存在意義から必須として導き出される。
人間は本来的に自由である。けれども、そのため、利害対立する場合がある。生命と財産を保障するために国家が必要とされる。紛争を調停したり、利害を調整したりする仕組みが要るからだ。
財産は個人が労働によって獲得したものである。所有権は基本的人権であり、国家も侵すことができない。だから、税は国家権力が人民から取り立てるわけではない。人民が社会をよりよくし、自らの利益のために協賛して納める。これを租税協賛説と呼ぶ。
社会契約説は仮説であり、歴史的に国家がこの主張通りに形成されたわけではない。けれども、これが近代国家の理論的根拠である。その否定は近代体制への挑戦を意味する。
国家が人民の生命・財産を守らなかったら、あるいは社会の意思に反した統治を行ったら、人民は抵抗する権利を持つ。そんなことのために、人民は納税しているわけではない。契約違反に対して抗議するのは当然だ。デモやストによって政府や議会を転覆させることに問題はない。
政治家がパターナリズムを理由に、統治を進めたり、人民の抗議を無視したりすることは許されない。近代政治の理論的基礎に反する。独裁をパターナリズムと言いくるめても無駄だ。
医療現場でもインフォームドコンセントが常識となっている時代に、政治家がパターナリズムの発言や態度をしているなどアナクロニズムも甚だしい。安保法案賛成派議員の自由民主主義へのコミットメントの低さは恥ずかしい限りだ。
曲がりなりにも、日本は近代民主主義に関して東アジアで最も長い伝統を持っている。合衆国大統領は民主主義の意義をしばしば語る。ところが、安倍晋三は、日本の首相でありながら、そうした言及がない。せいぜい民主主義的手続きに沿って制作を進めているとする程度だ。しかし、日本が誇るべきは民主主義の伝統である。
日本の政治家であるなら、民主主義の伝統を誇り、その進化に寄与する態度が必須だ。明治憲法下でも、民衆は街頭に繰り出し、政府への抗議行動を展開している。しかも、立憲主義擁護のために倒閣を目標とした運動が2度起きている。これが護憲運動である。
近代日本政治の基本原理は立憲主義である。護憲運動とは立憲政治を守る運動だ。第1次は1912年、第2次は1924年にお生きている。前者は桂太郎内閣を総辞職に追い込み、大正政変と呼ばれる。後者は清浦奎吾内閣を揺さぶり、総選挙は護憲三派が勝利、憲政情動論が確立する。
主権が天皇にあるとの学説さえあった旧憲法においても、臣民は立憲主義をないがしろにすることを許さない。そのような内閣が出現したなら、立ち上がり、打倒せねばならぬ。これが近代日本の民主主義の伝統だ。
立憲主義を順守せぬ者は日本の民主主義に参加する意義はない。国会は立憲主義に基づく民主主義の場である。民主主義の進化に貢献する者のための公共空間だ。
しかし、のど元過ぎれば熱さを忘れると賛成派の政治家は高をくくっている。彼らは民主主義の伝統に誇りを持ってもいないし、進化に貢献する気もない。そうした認知など通用しないと奥田メンバーは公聴会で次のように告げる。
「法案が強行採決されたら、全国各地でこれまで以上に声が上がり、連日、国会前は人であふれ返るでしょう」。「次の選挙にも、もちろん影響を与えるでしょう」「私たちは政治家の方の発言や態度を忘れません。3連休を挟めば忘れるだなんて、国民をバカにしないでください」。
政治家はデモが怖い。デモに行く人は選挙に参加して投票するからだ。デモが大きくなればなるほど、政治家は動揺し、政治が変わる。政権が利用できると最も軽蔑しているのはデモにも行かず、自分たちを支持する有権者だ。たとえ個々の政策に反対しながらも、内閣を支持する有権者は強権的な政権には後押ししてくれているも同然だ。デモは政治を変える。怒り、騒げば、政治を変えられる。民衆は自分たちの力を知らなすぎる。民衆が激怒して街に出れば、どれだけ恐怖政治を敷いていたとしても、いかなる政権も転覆できる。それは歴史が教えてくれる。
強行採決された以上、運動は続く。それは立憲主義の伝統と民主主義の進化のための運動である。反原発・反基地運動は決して風化することなく継続している。それらも共闘している。今やこれは護憲運動である。だから、こう叫ぶ。
国会から叩き出せ!
〈了〉
参照文献
「『選挙にも影響』SEALDs奥田さん“渾身公述”に国会議員は戦慄」、ゲンダイネット、2015年9月16日配信
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/164096
「反原発・反基地も合体…燃え広がる安倍政権『倒閣運動』第2幕」、現代ネット、2015年9月24日配信
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/164366