ツイッターは燃えているか?(2010)
ツイッターは燃えているか?
Saven Satow
Apr. 14, 2010
「パリは燃えているか?(Brennt Paris?)」
アドルフ・ヒトラー
MSN産経ニュースの2010年3月20日配信『ツイッターで脱・悪童!“元祖芸能人ブロガー”水道橋博士インタビューにおいて、水道橋博士が掲示板やブログとツイッターの違いについて次のように述べている。
「ツイッターって、反論がほとんどないんですよ。“芸人のくせに子供の話なんてするんじゃねえ!”と書かれてもおかしくないのですが、そういうことは極めて少ない。掲示板とは違って、偽悪ぶる必要がないのでしょう」。
日本の掲示板には、芸能人に対する罵詈雑言がよく見られるし、彼らのブログも執拗な誹謗中傷の書き込みによって炎上させられることも少なくない。ところが、ツイッターではそうした悪質な行為が稀だというわけだ。
なお、「偽悪(Dysphemism)」は修辞法の一種である。プロレスのヒールを思い出せばよい。「銀髪鬼」フレッド・ブラッシーは、噛みつき口撃で力道山を始めとする対戦レスラーを血まみれにし、中継を見ていた老婆がショック死したという伝説の持ち主であるが、リングを離れると、妻の三耶子・ブラッシーによれば、穏やかで礼儀正しい紳士である。ただし、自伝の中ではヒールとして偽悪に徹している。
確かに、これは興味深い現象である。従前のネットの風景を思い起こせば、ツイッターが燃えていてもおかしくない。こうしたマナーの高さが著名人の間で09年末から急速に広まった理由の一つだろう。2009年12月24日から孫正ソフトバンクグループ義代表取締役社長もツイッターを始め、今でも快適に続けている。
ツイッターのつぶやきの大半には、従来の情報発信サービスと違い、その短さのために、メッセージ性がない。しばしば連続的に更新されている。何らかの内的心理状態を発しているかに見えるが、「終わった。さあ寝よ」や「電車まだ来ねえなあ」のように、やさしたる重要性はない。言うまでもなく、事件や出来事の当事者・観察者として、特定不特定の誰かに伝える目的で発せられているメッセージもある。
メッセージ性の乏しい表現の特徴として、区切ることが難しい、あるいは区切る意味がないことが挙げられる。その典型が間投詞である。「おはよう」や「もしもし」、「えー!」、「エンヤーコーラヤットドッコイジャンジャンコーラヤ」なごを分割することは不可能である。
分けることが困難であるのは、こういった短い単語だけではない。「天高く馬肥ゆる秋」や「犬も歩けば棒に当たる」もそうである。「天高く馬肥ゆるかもしれない秋」とか、「ウ犬も歩けば細い棒に当たる」とは言えない。いずれもそれだけで完結し、独立している。それだけ長かろうが、一語だということになる。
スティーヴン・ミズン(Steven Mithen)は、ネアンデルタール人の研究を通じて、こうした分節化されていない言葉によるコミュニケーションを「hmmmmm」と呼んでいる。これは、本来は、「あっそ」くらいの意味の間投詞であるが、「全体的(Holistic)」・「多様式的(Multi-modal)」・「操作的(Manipulative)」・「音楽的 (Musical) 」・「ミメーシス的(Mimetic)」の頭文字をつなげたものである。
ブログの場合、しばしば全体の趣旨ではなく、読者があるフレーズや単語から全体を主観的に判断して非難・賛同することが少なくない。あるいは読む前から、独善主義に支配されて悪口雑言を書き込むこともある。ブログは、物語性・論理性の強弱があるとしても、主観的な意見や感想の告白の場である。各文章は全体を構成する要素であり、それぞれに分割できる。この分割可能性のため、何が書かれていようがいまいが、ブログ自体がその人の全体の一部として解釈され、攻撃される危険性がある。2009年2月にコメディアンのスマイリーキクチのブログが炎上した事件がその一例である。これに加わった面々は悪意と言うよりも、根も葉もない噂を信じ、義憤にかられて攻撃している。
ブログの文章が多細胞生物だとすれば、ツイッターのつぶやきは単細胞生物である。それぞれが分割できない自律した個体である。つぶやきを立て続けにアップしても、動画のように連続していると言うよりも、スライドショーの感じである。一つをとり上げて、全体を解釈することはできない。たとえその人物に悪感情を抱いていたとしても、hmmmmmなつぶやき、すなわち間投詞に悪口雑言を浴びせかけることは難しい。
単細胞生物と多細胞生物は共生している。同様に、ツイッターとブログにもその方向性が見え出している。単細胞生物は外部環境の変化に自ら即応しなければ生存できない。単細胞生物は地球のいかなる場所にも生息している。高温、低温、高圧、低圧、高酸性、高アルカリ性、高塩濃度、放射線、紫外線などにも適応し、有機体の体内から深海、火山、南北極、成層圏にも微生物が生息している。一方、多細胞生物は外部環境の変化を個体全体で応答し、個々の細胞が直接さらされることを最小限に抑えようとする。そのおかげで、細胞が分業化でき、生命体のサイズを巨大化させ、複雑な生命活動を可能にしている。ツイッターも状況を選ばず、発信できる。けれども、コンテクストに依存しているため、複雑な表現はできない。それに対し、ブログはツイッターよち多様な表現が可能である。しかし、両者が対立しているわけではない。ツイッターとブログには、お互いのリンク機能がある。
単細胞生物も仲間を求めて集まる。ジュール・ヴェルヌの『改定二万里』で触れられている「ミルクの海(Milky Sea)」は、「発光バクテリア(Luminescent Bacteria)」の一種がインド洋などで集まり集団で発光する現象だと判明している。おそらく、それによって多細胞生物の魚介類を呼び、その体内に生息するためでないかと推測されている。しかも、恣意的に光るわけではない。自分と同種のバクテリアの生息密度を感知して、それに応じて発光をコントロールする「議決定数感知(Quorum Sensing)」に基づいている。単細胞生物もコミュニケーションをするというわけだ。単細胞生物は増殖にパートナーを必要としない。コミュニケーションは生殖に先立つ。
よく読んでみると、メッセージ性があると思われるつぶやきでも、実際には、間投詞的である。ツイッターは間投詞のメディアである。ツイッターは、今、ミルクの海をつくりつつある。
〈了〉
参考文献
石川統、『生命環境科学Ⅱ 環境と生物進化』、放送大学教育振興会、2002年
三耶子・ブラッシー、『吸血鬼が愛した大和撫子─フレッド・ブラッシーの妻として35年』、栄光出版社、2005年
フレッド・ブラッシー他、『フレッド・ブラッシー自伝』、阿部タケシ武訳、エンターブレイン、2003年
スティーヴン・ミズン、『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』、熊谷淳子訳、早川書房、2006年
MSN産経ニュース、「ツイッターで脱・悪童!“元祖芸能人ブロガー”水道橋博士インタビュー」
http://sankei.jp.msn.com/economy/it/100320/its1003201203000-n4.htm