戦後経済と日本文学(4)(2009)
7 戦後復興と高度経済成長
1945年8月15日、国民は玉音放送によりポツダム宣言を日本が受諾したことを知り、9月2日、GHQによる占領統治が始まる。
賀川昭夫は、『現代経済学』において、戦後の経済変動の軌跡を次のように区分している。
期間 実質平均年成長率
戦後復興期 1945~54 9%
高度経済成長期 1955~73 9.2%
安定成長期 1974~85 4.0%
バブル経済期 1986~91 4.9%
平成不況期 1992~ 1.2%
日本はこの戦争を通じて近隣アジアならびに太平洋地域に多大な破壊をもたらしたが、自身も大きな損害を被っている。戦死者185万人、負傷・行方不明者67万人、空襲などにより離散者875万人に上る。また、国富は40%が喪失し、1935年の水準にまで下落、原材料ストックは4分の1が失われ、1935年の80%にまで落ちこんでいる。さらに、鉱工業生産力は最盛期のわずか10%しかない。
このような状況に加えて、膨大な数の失業者の発生が見こまれている。敗戦と共に、軍人360万人と軍需産業従事者160万人が職を失い、外地から650万人が着の身着のままで引揚げてくる。彼らも食っていくために、何としてでも仕事にありつかねばならない。
けれども、敗戦国日本は経済制裁を受けている状態であり、原材料と燃料は国内だけで調達しなければならず、市場も内需頼みという有様である。
しかも、1944年と45年は米が不作で、例年の60%しか収穫できていない。農家も自分たちが生きてためにと米をなかなか外には出さない。都市の食糧不足は深刻化し、1946年5月19日、戦後初のメーデーでは腹をすかせた労働者の怒りが爆発する。米よこせとデモ行進し、後に「食糧メーデー」と呼ばれることになる。このままでは秩序の維持は不可能であると危機感を覚えた最高司令官ダグラス・マッカーサーは、「暴民デモ許さず」の声明を出しながらも、ワシントンにさらなる食糧援助をするか増派するかどっちか選んでくれと打電する。当局は、賢明にも、前者を選択する。この小麦の援助は朝鮮戦争により米国内でも食糧が不足したときまで続く。
1947年、後に経済白書と呼ばれる年次経済報告は、国家財政は赤字、代表的企業も赤字、国民の家計も赤字であり、日本経済は「縮小再生産」の道を辿りつつ、「インフレ」の危機に襲われていると切羽詰った現状を明らかにしている。
インフレは、庶民が給与だけでは生活できないレベルにまで進行する。旧制中学卒の公務員の初任給が500円である。ところが、肉うどんの価格が5円、卵が6円であり、それぞれが月給のほぼ100分の1に相当する。かりに両者を300倍すると、前者が15万円であるのに対し、後者は1500円と1800円である。今日では、1800円の卵を探すのは至難の業である。また、その頃、後の三島由紀夫夫人杉山瑤子と一緒に疎開していた女性が結婚することになったが、式場は日本橋三越である。売るものがないので、昼は式場、夜は進駐軍のダンス・パーティーの会場として貸し出されている。ハネムーンは熱海だったが、米持参である。手ぶらでは、旅館にも泊まれない。こうしたインフレの下、人々はいわゆる筍生活を余儀なくされている。
1948年12月、GHQは日本経済自立のために、経済安定9原則を提示する。それは、均衡予算・徴税強化・資金貸出制限・賃金安定・物価統制・貿易改善・物資割当改善・増産・食糧出荷改善の9項目であり、これを遵守させる目的で、総司令部はデトロイト銀行頭取ジョゼフ・ドッジを招請して具体的な政策立案に当たらせる。彼は赤字歳出を許さないと強硬な姿勢で、1ドル=360円の単一為替レートを設定、1949年度の予算は超緊縮均衡予算となる。それまでは物品別に異なる為替レートが用いられている。このドッジ・ラインにより、インフレは抑制されたものの、デフレが始まり、中小企業は倒産し、失業者が街に溢れ、赤旗が各地で林立する。革命の雰囲気さえ漂っている。
そんな1950年、朝鮮戦争が勃発する。それに伴い、在日米軍を主体とする国連軍が日本に大量の物資・サーヴィスを発注する。1952年までの3年間で10億ドルもの特別需要が生まれ、ドッジ・ラインで青息吐息の日本経済は息を吹き返す。この特需で最も重要なのは、事実上、経済封鎖が解除され、貿易が復活したという点である。これにより、縮小再生産から拡大再生産の道へと歩み始めることになる。
この朝鮮戦争を始めとして、戦後の節目となる出来事を挙げるとしたら、それらは次のようになろう。
分岐点
1950年 朝鮮戦争
1965年 昭和40年不況
1971年 ニクソン・ショック
1973年 第一次オイル・ショック(第4次中東戦争)
1979年 第二次オイル・ショック(イラン・イスラム革命)
1985年 プラザ合意
1997年 金融危機
2008年 リーマン・ショック
1956年、通産省は経済白書に「もはや戦後ではない」と記す。この名文句は、日本経済は戦後復興期から自立的な経済成長の時期に移行しなくてはならないという決意表明である。ここから高度経済成長が始まる。
高度経済成長は、要約するならば、旺盛な設備投資による経済成長の時代である。企業は、幸先がいいとなれば、イノベーションを活発に行い始める。まず、現場に新しい機械を導入し、それで儲かったなら、次には工場を建て替える。さらに売り上げが伸びたら、工場群を新設する。設備投資によって国民所得が上昇し、それを消費に使う。国民所得は設備投資に依存し、消費は遅れて増加する。この経済成長において、設備投資が先であって、消費はその後である。設備投資が経済を引っ張り、消費が後押しする。
この経済成長期に普及するのがいわゆる「カンバン方式」である。在庫をできる限り、つくらない。このトヨティズムはトヨタにとどまらず、鉄鋼や機械部品など関連産業にも波及する。日本は在庫を最小限にする方式に支えられた高品質低価格の商品で世界の市場を席巻する。しかし、この在庫に対する神経質さは、新自由主義が支配的になると、希薄になり、リーマン・ショックの際に、本家のトヨタの経営を脅かすことになる。
戦後の代表的な好況期には次のようなものがある。
期間
神武景気 1954年11月~57年6月(31ヶ月)
岩戸景気 1958年6月~61年12月(42ヶ月)
オリンピック景気 1962年10月~64年10月(24ヶ月)
いざなぎ景気 1965年10月~70年7月(57ヶ月)
バブル景気 1986年12月~91年2月(51ヶ月)
いざなみ景気 2002年2月~07年10月(69ヶ月)
高度経済成長期には、四つの大きな景気があり、神武景気・岩戸景気・オリンピック景気・いざなぎ景気とそれぞれ呼ばれている。いずれも日銀が公定歩合を引き上げることで意図的に終息させているが、前の三つといざなぎ景気では理由が異なっている。
神武景気からオリンピック景気までの場合、政府・日銀の政策判断は国際収支の悪化を懸念材料としている。景気がよくなれば、原材料や機械の購入により輸入が増加する。ところが、国際競争力のある製品がまだ十分でなかったため、外貨準備高が少なく、国際収支の赤字が増加する。この状態が続くと、日本の支払能力が疑われ、円の信用度が下がる危険性が増す。輸出先も通貨が切り下げられそうならば、それを待ってから買う方が得であるから、日本製品は売れなくなり、貿易赤字はさらに悪化する。この悪循環を断ち切るために、日銀は公定歩合を引き上げ、過熱した景気を冷ます。すると、輸入は激減し、また企業も在庫を減らすために、値引きして製品を輸出するので、国際収支は改善していく。こういう過程を注意しながら、日銀は、頃合いを見計らって、公定歩合を再び引き下げ、経済はまた好況へと向かう。昭和30年代は、このようにして好不況を繰り返している。
1965年は節目の年である。日本は、明治維新以来の悲願だった国際収支の黒字の常態化を達成する。外貨の流出を気にする必要がなくなり、経済政策の中心が金融政策から財政政策へと移行する。この年から海外渡航が原則自由化され、Made in Japanだけでなく、人も海外に飛び出していく。
1964年10月、東京オリンピックが終了すると、政府・日銀は金融の引き締めを図る。ところが、想定外の大型倒産が相次ぐ。この年、サンウェーブと日本特殊鋼がつぶれ、翌年には山陽特殊製鋼が当時としては史上最悪の負債総額500億円で倒産する。大幅赤字に転落して、取り付け騒ぎが起きた山一證券は、田中角栄蔵相の指導力による日銀特融で何とか生きながらえる。
実は、この間、慌てた日銀は公定歩合を1%以上も下げたのだが、効果はほとんどなく、結局、65年7月に、戦後初の建設国債、いわゆる赤字国債の発行を決断する。これを受け、株価は上昇に転じ、不況から脱却する。こうして経済政策の主体が金融から財政へと変わる。
金融政策と財政政策は、経済政策としては同じよう効果を発揮する。ただし、財政支出の増大が民間投資を圧迫するクラウディングアウトが完全に生じているときには、財政政策は有効ではない。金融政策を選択しなければならない。一方、将来に対して悲観的見通しが支配知る場合、投資や消費が抑制されるため、金融政策ではなく、財政政策の方が効力を示す。
経済政策には、認知の遅れ・実行の遅れ・効果の遅れという三つの遅れが伴う。経済状況が変化しても、指標として表面化するまでに時間がかかるなどして政策当局が認識されるのに遅れが生じる。政策発動の必要性が認知されると、通常、それを実行するまでには政府・与党内部での調整や国会での議論、関係機関との折衷などが待っている。政策が実行されたとしても、実際に効果が出るまでにはしばらく時間がかかる。金融政策は実行の遅れは少ないが、効果の遅れは大きいとされているのに対し、財政政策はその逆である。皮肉なことに、財政政策が主力となった後の70年代、永田町は保革伯仲の時代に突入している。
いざなぎ景気はこのような状況から、これまでの景気以上の長期に続く。1967~68年頃に、日本は完全雇用を達成する。68年の日米の学生運動の間には、社会的・経済的背景の点で大きな隔たりがある。しかし、公害とインフレという二つの問題が深刻化する。日銀は戦後初めてインフレ抑制のために、公定歩合の引き上げに踏み切り、いざなぎ景気は幕を閉じる。
高度経済成長期は1970年をすぎてからも続くが、実質的に60年代で終わっている。1970年代、日本を含めた先進諸国は世界的な同時ショックを三度も味わう。日本経済は、安い原油と実力以上に低く抑えられた円の対ドル為替レートを背景に、奇跡とまで称された経済成長を達成してきたが、その三度の危機によって両輪が奪われてしまう。
8 危機とバブル
第2次世界大戦後、ドルは世界における基軸通貨、すなわち公共財としての地位を維持してきたが、ヨーロッパ各国や日本が経済復興を遂げ、アメリカは膨大な軍事支出・援助支出を続け、その上、1950年代後半から国際収支の赤字幅が次第に拡大し始め、ドルに対する信任がゆらいでいく。1971年8月15日、突如、リチャード・ニクソン大統領はドルと金との交換を停止すると表明する。事実上、このときに固定相場制が崩壊したのだが、各国の当局者は対応に追われ、紆余曲折をたどる。しかし、とうとう、73年2月、主要国がすでに全面的な変動相場制に移行していた現状に、日本も追随する。
ニクソン・ショックにより、急激な円高ドル安が進み、輸出関連産業が大打撃を受け、日本経済は不況に陥る。1970年代を通してドル安基調であり、日本企業はそれに対処するため、生産性の向上とイノベーションに励み続ける。
1973年10月6日、第4次中東戦争が勃発すると、OPECは原油の公示価格の大幅な値上げと減産、イスラエル支援諸国への禁輸を発表する。ヨム・キプール戦争は10月26日にイスラエル側の勝利で終決したが、減産カルテルは続き、翌年の1月には原油価格を2倍にすると産油諸国は決定する。
おりしも、田中角栄首相が日本列島改造計画をぶち上げ、不動産や建築資材等への投機のため、インフレが急速に進んでいたときである。原油価格の高騰はインフレをさらに加速させ、消費者物価指数は、74年、23%も上昇してしまう。福田赳夫蔵相が命名した「狂乱物価」抑制のため、日銀は公定歩合を引き上げる。企業の設備投資は冷えこみ、同年、マイナス1.2%と戦後初めてマイナス成長を経験する。
生産の減少や失業者数の増加などの経済活動の停滞と物価の上昇が併存する従来と違うタイプの不況に陥る。この状態は「スタグフレーション(Stagflation)」とめいめいされるが、それは「停滞」を意味する「スタグネーション(Stagnation)」と「インフレーション(Inflation)」を合成した造語である。
スタグフレーションには、社会の石油への依存が進んだ結果、生まれた現象だとも言える。石油というのは、労働や資本と同様の生産要素であると同時に、最終財という二面性がある。石油はプラスチックや電力となって間接的に購買されたり、自動車や暖房の燃料として直接的に購入されたりする。原油価格の高騰は、限界費用を上げるため、総供給曲線を上昇させ、所得効果を通じて総需要曲線を下降させる。原油価格の急激な高騰は景気後退とインフレを同時に進行させてしまう。
スタグフレーションへ対応するためには、政府が総需要を増やすような金融・財政索をとることは好ましくない。このタイプの不況では、失業率の増加と物価上昇が起こる。生産量を元の水準に戻すことができたとしても、物価も上昇してしまう。むしろ、生産性の向上を推進する技能訓練・教育を推奨する公共政策が効果的である。「省エネ」はその代表例である。
日本政府は奇策ではなく、この総需要の抑制という手堅く、オーソドックスな政策をとる。その結果、日本経済は5年ほどで回復している。
1979年、イランでイスラム革命が起き、同国からの原油輸出が中断される。このときも、日本政府・日銀は先の危機とほぼ同様の総需要の抑制という対応をとる。欧米諸国と違い、イランと友好的な関係を続けた外交努力も認められるが、これにより、日本の傷は浅くすんでいる。この回復の速さが、80年代に日本的経営が賞賛され、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と讃えられた一因であったことは見逃せない。
他方、アメリカは経済統制に走る。74年、ニクソン大統領はガソリン節約を目的とした自動車の最高速度を55mphに制限する法案に署名する。彼の辞任後、石油価格を始めとして統制は多岐に亘る。原油価格の高騰に伴い、物価が急騰し、アメリカの国内産業はパニックに陥る。燃費の悪い大型車に偏重してきたビッグ3は、日本の小型車に市場を奪われ、製造業は生産性が悪く、急速に国際競争力を失い、失業率は急激に上昇する。
ドワイト・アイゼンハワー大統領から国防長官に指名されたチャールズ・ウィルソンGM最高経営責任者は、1952年、その資格を審査する議会の公聴会で、「ゼネラル・モーターズにとってよいことはこの国にとってもよいことです(What's good for General Motors is good for the country)」と証言したが、両者の利益は乖離し始める。デイビッド・ハルバースタムは、『覇者の驕り』の中で、「米自動車産業がモノを生産することから利益ばかりを追うことに変わっていった」と批判している。多くの地方自治体の財政が逼迫し、78年、クリーブランドが大恐慌以来都市として初めて破産する。
辞任したニクソンに代わってジェラルド・フォードが大統領に就任したが、選挙で選ばれていなかったため、指導力を発揮できず、有効な経済政策を打ち出せない。インフレ抑制には熱心だったけれども、1975年初め、失業率は大恐慌以来最高の9%弱に達している。にもかかわらず、この共和党政権は雇用創出を高所得者層の減税により購買力の向上に期待している。次のジミー・カーター大統領は、環境対策に熱心でありつつも、金融界の望む政策をとり、規制緩和によって景気浮揚を試みている。今では忘れられているが、当時、彼は、グローバー・クリーブランド以来、最も共和党に近い民主党大統領と見なされている。しかし、イラン革命により、彼の経済・外交政策が大打撃を受け、二期目を務めることなく、ホワイトハウスを去る羽目になる。その後、カーターは最も偉大な元大統領として精力的に世界を飛び回っている。
カーターに代わって就任したロナルド・レーガン大統領は、ポール・ボルカーFRB議長と共に、インフレ抑制を優先し、金融引き締め、ドル安基調を是正すべく、高金利政策に方針転換する。このドル高円安を背景に、日本からアメリカ市場に向けて自動車・家電製品が続々と輸出される。しかし、連邦政府は、高金利政策と膨大な軍事費により、財政赤字と貿易赤字、いわゆる「双子の赤字(Twin deficit)」に陥る。85年初めにはアメリカの貿易赤字が放置できないほど深刻化してしまう。
レーガン政権は対外的に無茶な要求を繰り返す。1980年代、途上国が債務危機に陥ったとき、アメリカはIMFにその諸国ではなく、自国の銀行を救済させている。貸し付けたアメリカの品行が危なくなれば、世界経済に重大な悪影響を及ぼすというのがその理由である。また、日本には、自由防衛期待性を建前として維持するために、自動車の「自主的」な輸出規制をさせている。
1985年9月、ニューヨークのプラザ・ホテルで、各国が協調してドル安に誘導する合意が結ばれる。日米の金融当局は1ドル=240円の為替レートを200円程度に下げたい思惑だったが、円高ドル安が急速に進み、87年には、1ドル=140円台に突入する。
ドルが世界経済を牽引する時代は、ニクソン・ショックですでに終わっている。今やドルを世界経済が支えなければならない。ドルの信用度が凋落したとしても、北米市場は、言うまでもなく、世界最大規模であり、その消費が世界経済に与える影響は大きい。
日銀は、この円高を抑えるべく、87年、公定歩合を2.5%にまで思いきりよく下げる。この金融緩和により、バブル景気が本格化し、株価と地価が高騰する。株価は、1982年10月から上昇基調が続いていたが、86年春より急騰し、89年末に4年前の約3倍、3万8915円に達する。一方、地価は、83年頃より東京都心の商業地が上昇に向かい、その後、東京圏から大都市圏へとこの動きは拡大し、さらに全国へと及ぶ。東京・名古屋・大阪の三大都市圏(の商業地の公示地価は、86年から跳ね上がり、91年には3倍にまで上昇する。
実は、バブル経済は、株価と地価(住宅価格)が3倍を目指して急騰する現象である。 今回の金融危機にも、同様の動向が見られる。アメリカの株価はITバブルの始まった95年から07年までに3倍を超え、住宅価格は97年より06年までに3倍に到達している。
日本では「地価」、アメリカにおいては「住宅価格」としてデータを集計・公表するのは、不動産に関する民法上の認識の違いによる。日本の場合、地主と住宅の所有者が異なっている物件も少なくないように、土地と住宅を別個に考える。この発想は、先進国の中では例外的である。他方、アメリカにおいては、住宅の建てられていない土地の取引もあるが、上部構造と下部構造がセットで扱われるのが一般的である。不動産をめぐる認識は、基本的人権が所有権から始まったことを考えれば、その国における近代化を考察する際の重要なテーマの一つとなりうる。
バブルの原因は何かという問いは経済学者の間で盛んに議論され、さまざまな説が提示されている。ただ、大幅な金融緩和によるカネ余りがバブルを引き起こす一因であることは確かであろう。準大手の投資銀行ソロモン・ブラザーズの元副社長ヘンリー・カウフマンによれば、バブルを防ぐには企業・家計・金融部門の負債残高の対名目GDP比率が急増しないようにつねに監視・規制することが不可欠である。日本のバブル期において、企業と家計の負債残高の名目GDPに対する比率は、85年度の264%から89年度には319%に50ポイントも上昇している。アメリカでも、同様に、負債残高の名目GDP比率は97年から07年までに50ポイント増えている。さらに、金融部門の負債残高の名目GDP比率も日米ともに上昇している。日本の経験を踏まえるならば、9・15を迎える前に、連邦政府とFRBはもう少し打つ手はあったはずである。
カウフマンは1980年代前半にすでに今回の金融危機の到来を危惧している。準大手のソロモン・ブラザーズは、おりからの債権の自由化を受けて、「モーゲージ債」と呼ばれる金融の新商品を販売する。これは各種の債権を投資銀行が購入し、さまざまな方法を用いて新しい債権へと組み直したもので、後に複雑化、すなわち不可視化する。従来、投資銀行は仲介業務を主な事業内容としてきたが、この「自己勘定」と呼ばれるビジネスは初めての独自のモデルとウォール街で脚光を浴びる。しかし、自己資本に乏しい投資銀行はその資金を外部から調達しなければならず、レバレッジに依存することとなる。それに対し、ソロモンの副社長ヘンリー・カウフマンは、金融はあくまでもバイプレーヤーに徹するべきだという信念に基づき、このハイリスクな手法は恐ろしい危機を招くと取締役会等で警告する。けれども、同調する声は一切なく、彼はその地位を追われる。
新たな金融商品を考案したとソロモンのトレーダーたちは他の投資銀行から高額な報酬でヘッド・ハンティングされ、それを防ぐために、ソロモンも巨額なボーナスを提示し、他者もツイヅいる。投資銀行業界はサラリー・キャップのないフリーエージェント制へとなし崩しに突入したようなもので、売り上げをほとんどこの人件費に費やす有様となってしまう。とうとう自社株を賞与として提供することも常態化する。金危機後、ウォール街は賃金の硬直性という現代経済学における基本的な課題など人事だと言わんばかりの態度を示し、全米から怒りをかうことになる。
80年代後半、企業は余ったカネを本業の設備投資よりも、不動産や証券の購入に回している。金融機関もそれを積極的に推奨する。財テクをしない経営者はバカだと思われる雰囲気が巷に漂う。バブル前夜に殺害された豊田商事の永野一男会長は、産業をヒエラルキーとして捉え、いわゆる実業よりも虚業の方が高級だと考えている。彼によれば、製造業が最も下位に属し、次が商品を流通させる商社、その上が銀行や保険会社、最高位に位置づけられるのが投機だというわけだ。経営者は永野理論通りに邁進する、
しかし、バブル経済では、株価と地価の高騰はあっても、消費者物価はさほど上昇していない。おまけに、年平均経済成長率にしても、4.9%であり、安定成長期をわずか1%弱上回っているにすぎない。加えて、本業以外には無謀なまでに手を伸ばしたものの、次世代を牽引する産業も生まれてもいない。はじけた途端、あれもこれもと拡大方針をとった企業は設備・雇用・債務が共に過剰になってしまう。こうしたデータを見るだけでも、健全な設備投資の経済成長に対する影響力の大きさを改めて実感するのみならず、バブルの空疎さがわかる。
いつの時代・社会でも、バブルには過信がつきものである。狂信者を冷静にさせるのは難しい。もっとも、バブルに踊りながらも、こんな馬鹿騒ぎがいつまでも続くはずはないと感じていたものも少なくなかっただろう。崩壊に向かっていく途上、おかしいと思いながらも、この生活を失いたくないから疑問をさしはさまない。そのときが遠くないとしても、もう少しだけパーティを楽しんでいたい。
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