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「希望の国、日本」とGNC(2006)

「希望の国、日本」とGNC
Saven Satow
Dec. 12, 2006

「人が恐れているものは、希望するものよりも簡単に近づいてくる」。
プリリウス・シルス

 2006年12月11日、日本経団連の将来構想「希望の国、日本」、いわゆる御手洗ビジョンが明らかになっています。来年の1月1日に、正式に公表されるのですが、その内容は、御手洗富士夫会長がロナルド・レーガン政権下のアメリカに滞在した経験が色濃く反映され、安倍晋三首相の「美しい国、日本」と多くの点で重なります。

 御手洗ビジョンでは、企業収益の拡大を通じて、所得や都市=地方の格差などの「弊害を克服する」ための企業減税の必要性を強調しています。しかし、労働者の給料が上昇していないことによる国内消費の伸び悩みが市場の懸念材料の一つとなっているのです。それでいて、政治寄付の拡大のための法改正も謳っています。これでは、減税に伴う収益がどこに行くか想像しただけでもぞっとします。

 御手洗ビジョンは愛国心に根ざす公徳心の涵養を説いています。しかし、これでは、現在、企業の間でも最も重要とされる環境問題に対処できません。環境問題は、従来の公害問題と違い、グローバル性・カオス性・未来性があります。地球温暖化を例にとってみましょう。

 公害はある領域に一定濃度以上の有害物質が滞るために起きています。けれども、地球温暖化はそれ自体では必ずしも有毒ではない二酸化炭素が地球全体に拡散し、複雑なメカニズムによって、地球を温暖化し、将来、予想の困難な弊害をグローバル規模で巻き起こす問題です。愛国心に根ざす公徳心の涵養ではなく、地球の住人であるというコスモポリタニズムに根ざす公共心の涵養の方がはるかに有意義です。

 また、憲法9条を変更し、集団的自衛権の行使を認めるべきだと言いつつ、東アジア全域での経済連携協定促進も記しているのには、首を傾げたくなる人も多いでしょう。集団的自衛権の相手として念頭にあるのは米国でしょう。東アジアと経済連携を強化すると同時に、アメリカの戦争に巻きこまれる用意をするというのは結びつきません。

 ヨーロッパはEUで統一していくと同時に、チェコとスロバキアが分離独立したり、ウェールズやスコットランドの自治権限が大幅に拡大したりしているように、小国化しています。国家間の相互依存性が高まり、欧州内での戦争の危険性がないからです。国益だけを考えていると、逆に、真の利益である公共の福利を損ねてしまいかねません。御手洗ビジョンはこのEUの経験を踏まえている提言とはとても言えません。

 90年代は「迷える10年」です。企業経営者は人件費の抑制に躍起になり、また倫理観の欠如と非難されても仕方のないような不祥事が相次いでいます。その彼らが将来像を提言すること自体がおこがましいと思えなかったのかと問わずにいられません。ちなみに、“The Lost Decade”の”Lost”は「迷える」であって、「失わアれた」ではありません。

 2000年、サン・マイクロシステムズ社の共同創業者でチーフサイエンティストのビル・ジョイが『ワイヤード』誌に「未来はわれわれを必要としているか(Why the future doesn’t need us)」という衝撃的な論文を発表しています。彼は、同論文の中で、自らも寄与してきたコンピュータ技術も含めた科学技術──中でも、遺伝子工学・ナノテクノロジー・ロボット工学──の秘めた危険性について警鐘を鳴らし、次のような五つの倫理規範を提唱します。

1 医療の「ヒポクラテスの誓い」にならい、科学者・技術者が大量破壊兵器につながる研究開発への非従事を誓う。
2 新技術の危険や倫理問題を検討する国際的な場をつくる。
3 製造者責任の概念を広げ、民間企業も技術の結果責任を負う。
4 危険と判断された技術や知識を国際的に管理する。
5 危険な知識の探求や技術開発はしない。

 この「未来はわれわれを必要としているか」という問いは、科学技術の問題を超えて、政治全般にも投げかけられるものです。そもそも未来がこんなわれわれを必要としていてくれるのだろうかは重い問いです。

 御手洗ビジョンには、こうした根本的かつ謙虚な認識が欠けています。企業自身が未来に向けて自らを戒める姿勢が不十分です。「希望の国」ではなく、「昨日の国」の間違いではないかと思ってしまうほどです。

 希望はパンドラの箱に最後に残っていたものです。実は、迷える10年に希望はすでにあるのです。90年代以降ほど日本文化が世界に浸透した時代もありません。

 アメリカのジャーナリストのダグラス・マクグレイは、2002年、『日本のグロス・ナショナル・クール(Japan’s Gross National Cool)』を発表しています。「グロス・ナショナル・クール(GNC)」は、「グロス・ナショナル・プロダクト(Gross National Product: GNP)」、すなわち国民総生産を捩って、クールさを国力の指標に見立てています。「日本はスーパーパワーを再生している。政治経済の逆境というよく知られた状況に反し、日本の国際的な文化影響力は静に成長してきている。ポップミュージックから家電まで、建築からファッションまで、そしてアニメから料理まで、日本は、80年代の経済パワーがなしとげた以上の文化的スーパーパワーを示している」。クール・ジャパンというわけです。

 今、外国人たちが日本語を学び始める動機のトップはアニメやマンガから興味を覚えたからです。アニマンガは日本のGNCに最も貢献している産業の一つです。

 アニマンガの成長は、不世出の天才なくしてありえません。言うまでもなく、それはマンガの神様、そう手塚治虫です。

 彼のペンから生み出された未来像が実現していくのを目にしたのは、一度や二度ではないでしょう。彼ほど未来を語れる人はいません。その意味で、手塚治虫は予言者でもあります。

 手塚治虫のいない戦後日本は想像できません。一人の人物がある産業を発展させて、それを全世界が日本文化の代表と認知させ、世界各地の文化に影響を与えています。おそらく戦後どころか、日本の歴史始まって以来の出来事です。カール・マルクスほどとは言いませんが、手塚治虫は歴史における巨人の一人です。

 最近でこそ認知されましたが、マンガは何度も有害であると糾弾されています。手塚治虫はその矢面に立たされているのです。「権力や圧力の庇護があって、漫画家は何ができようか」(手塚治虫『ぼくはマンガ家』)。アニマンガ産業はまさに民間主導で発達しています。

 マンガに対する風向きが最初に変わったのはアニメ『鉄腕アトム』の放送開始からです。実は、マンガ害毒論はマンガを読まない人たちが唱えていたものなのです。そのマンガをアニメ化した番組を見て大人たちの認識が変わり、マンガも悪くないと思うようになっています。アニメ『鉄腕アトム』はクオリティが低いのですが、こうした歴史的意義があるのです。

 政官財がここに目をつけ、自惚れと助平心からとりこもうとしたら、「クール・ジャパン」はたちどころに「フール・ジャパン」に堕ちるでしょう。この文化を育んでこなかったものに限って、身の丈をわきまえないことをしたがります。「グロス・ナショナル・フール(Gross National Fool: GNF)」を増すだけです。安倍首相や御手洗会長らは日本をGNF大国にすべく邁進しています。

 手塚治虫は、『マンガの描き方』において、「漫画は庶民の批評精神」であり、その倫理を次のように述べています。

 しかし、漫画を描くうえで、これだけは絶対に守らなければならぬことがある。
 それは、基本的人権だ。
 どんなに痛烈な、どぎつい問題を漫画で訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、だんじて茶化してはならない。
 それは
 一、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと
 一、特定の職業を見くだすようなこと
 一、民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと
 この三つだけは、どんな場合にどんな漫画を描こうと、かならず守ってもらいたい。
 これは、プロと、アマチュアと、はじめて漫画を描く人を問わずである。
 これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです。

 これは、ロボット三原則ならぬマンガ家三原則です。 短くはありますが、含蓄ある倫理規定です。愛国心に根ざす公徳心の涵養を唱える御手洗ビジョンとは比較になりません。この神の言葉に立脚して、マンガは発展しています。もちろん、これを守らないマンガ家もいます。そんなものを支持するファンもいます。しかし、未来は現在の自分自身を戒め、律するものにしかないということをこの倫理規定は示しているのです。
(了)
参照文献
柏倉康夫=林敏彦=天川晃、『情報と社会―ここから未来へ 』、放送大学研究振興会、2006年
手塚治虫、『マンガの描き方―似顔絵から長編まで』、光文社文庫、1996年
同、『ぼくはマンガ家』、角川文庫、2000年
札野順、『技術者倫理』、放送大学教育振興会、2004年

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