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ドラゴンアイの季節(3)(2020)

5 竜神

 満天の星空に、輝く大きな竜の瞳-。八幡平市と秋田県にまたがる八幡平(1613メートル)山頂付近で「ドラゴンアイ」が夏の夜に、神秘的な風景を織りなしている。
 雪解けの鏡沼の雪が竜の目に見えることから名付けられた自然の造形美。9日昼、夏空と強い日差しで直径約50メートルの鮮やかな青い目玉が残雪に映えた。日没後、辺りが闇に包まれると、瞬く星の輝きで目玉は深い青色へと表情を変えた。
 今年は5月半ばから形ができ始め、今月8日には中央の瞳の部分が解けて完成に近い形となった。八幡平パークサービスセンターによると、今後の天候次第だが、1週間程度は見られるという。
(「竜の瞳 映える星 八幡平山頂」2020年6月10日付『岩手日報』)

 日本では昔から竜は水のあるところに棲んでいるとされている。その竜も在来と言うより、大陸からの外来である。しかし、いつ来たのかはっきりしない。それに、民衆はそんなことを気にしない。竜は昔々からいつの間にかそこに棲んでいる。

 沼に棲む竜は水を司る神として竜神様と日本各地で崇められている。仏教において竜は八大竜王なども含めて仏法を守護する天竜八部衆の一つとされ、恵みの雨をもたらす水神のように扱われている。古くからある民間信仰は、八幡神もそうだが、仏教によって再構成され、庶民にとってのそうしたシンクレティズムが規範になっている。

 干ばつになると、村人は沼の近くで雨乞いを始める。すると、竜神様はその願いを必ず叶えてくれる。降るまで雨乞いが続けられるからである。だから、竜神様は決して村人の願いを裏切ることがない。

 竜神と聞くと、子どもの頃に読んだ石ノ森章太郎の『龍神沼』(1957)を思い出す。これは石ノ森漫画の中でも傑作のひとつである。本人も気に入っていたと見得て、石ノ森は『マンガ家入門』においてストーリーマンガのテキストとして取り上げ、物語の作り方や構成、構図などを解説をしている。石ノ森作品特有の陰影の美しさがうっそうとした森や古い沼の幻想性、思春期の淡い恋心などを高い完成度で表現している。なお、この版はサンコミックスの『龍神沼』と違い、スクリーントーンが使われていない。

 石森プロは、公式サイトにおいて、『龍神沼』のストーリーを次のように紹介している。

 山間にある小さな村は、龍神祭と呼ばれる夏祭りの準備に活気を呈していた。龍神祭を見るために、都会の少年・研一は村に住む親戚の家を訪れた。一年前訪れた際、龍神祭を見逃したことを残念に思い、再度訪れたのだった。
 滞在先には、研一より少し年若い、ユミが待っていた。ユミに案内され、準備中の祭りの開催場所を見に行く。神社の近くにある沼で白い着物の少女を見かける。ユミによれば村にそんな少女はいないという。その夜、火の玉が落ちて、二軒の家が焼けた。神主によれば龍神さまのお告げに従わないためのたたりだという。不審に思う研一。火事現場でまたも白い着物の少女を見かけた。次の日、沼にスケッチに出かけた研一は少女と出会い、話そうと近づくが、林の木立の中に溶け込むように姿を消してしまう。少女への思いが募っていく。
 祭りの当日、着飾ったユミにも気が付かない研一に、ユミはすねてしまった。なだめて出かけた研一だが、祭りの会場で見かけた少女を追い、ユミとはぐれてしまう。林の中で少女の姿を追い求めるが、力尽きて寝込んでしまう。目覚めた研一は沼の近くではぐれたユミを見つけるが、ユミは泣いて拒絶する。そのそばを村長と神主が、悪巧みの成功を言い募りながら通っていく。悪巧みを聞かれたために、研一とユミを亡き者にしようとする村長。そのとき、白い着物の少女が現れ、龍神の名を汚したと村長に告げる。青空が一転、雷雨となる中、命をもって罪をあがなえと村長に迫る少女。しかし、研一のひとことが少女を押しとどめる。「き きみが 人を……殺すなんて だめだ やめて…… やめてくれ」。少女は龍神の姿を現し、天に昇って行った。

 「悪巧み」は土地開発ではなかったかと記憶している。この後のエピローグは、確か、研一が汽車に乗って帰るシーンである。その際、何かを言おうとしてやめたユミの横顔がどこか寂しそうだったことが印象に残っている。

 この龍神は美しい。怒りの中であっても美がある。しかし、マンガという制約もあり、ドラゴンアイと比べて、崇高さには欠ける。美しいが小さな神である。鏡沼のほとりでドラゴンアイを見ている時に覚える隠れた竜の上に乗っているのではないかという畏れはない。

 日本各地に竜をめぐる昔ばなしが認められる。中には竜と蛇の区別が曖昧なものもある。さまざまな内容の伝承があるが、竜は仏教道徳を体現している。日本の昔ばなしでは、全般的に言って、武力による問題解決を肯定しない。知恵や仏の力がそれを可能にする。強大な武力を持った竜も同様で、その行使は仏教によって評価される。竜の認知行動が人間に対してではなく、仏教道徳にとってどのような意味であるのかが物語のメッセージである。特に、昔ばなしの竜は「調伏」、すなわち「調和制伏」に関連している。それは、内においては己の心身を制して修め、外には悪を教化して成道に至る障害を取り除くことである。

 神奈川県に伝わる「五頭竜伝承」は改心して人々を守護するようになった竜の物語である。また、長野県の「黒姫伝説」は嘘をつき、武力を振るった大名に対する怒りとその娘への恋慕を抱く竜の物語だ。さらに、秋田県の「八郎太郎伝承」は利己的な行いのために、竜になってしまった青年の物語で、「調伏」のためにその姿のまま八郎潟で生きていくことになる。

 長野県に伝わる「泉小太郎伝説」は人間の父と竜の母の間に生まれた少年の物語である。少年は竜の母の力を借りて松本盆地を切り開く。また、千葉県の「印旛沼の竜伝承」は、干ばつに苦しむよき人々が住む村に人間の姿をした竜が雨を約束してそれを果たすものの、雷神の怒りを買って身体を三つに切り裂かれてしまう物語である。村人は三つになった竜の頭・腹・尾をそれぞれ龍頭寺・龍腹寺・龍尾寺に納めて供養している。

 昔ばなしは言語的・道徳的規範を共有する共同体の間で共時的・通時的に口承されてきた文学である。規範を具体的に理解・確認することが伴うので、そこには社会的メッセージがある。竜をめぐる昔ばなしにもそれが見出せる。さまざまな伝承があるが、先に挙げた仏教道徳の体現は共通している。それが竜の伝える社会的メッセージである。

 よすよす、昔語りな。何すんべな。んだな、『爺媼岩(じじばばいわ)』の話っこするが。
 昔あったずもな。北上の立花さな、ほれ、北上川を珊瑚橋で渡った辺りな、そごがら花見さ行ぐ展勝地迄の辺りまでが立花な、まんず仲のいい爺さんと婆さんが住んでらったど。
 ある年の6月、そづは旧だがら、今だば、7月が8月なんだな、雨降って来たがら、たサイカチの木の根元さ雨宿りすべど思っただ。サイカチは莢っこ煮だすどシャボンみでになるがら、昔は選択どか食器洗いさ使ったおんだ。すたら、そごさ赤ん坊泣えでらったど。
 子どもいねがったがら、喜助ず名前つけで、爺さんと婆さんで二人すて育でるごどにしたど。早えもんで、それがら10年経ったど。喜助は立派ぬなって、たいすた働き者で、親孝行になっただ。んだども、その年、村さ雨さっぱり降らねで、井戸や池干上がってすまったど。飲む水さも困ってすまったども、なんにもさいねおな。
 すたっけ、ある晩げな、喜助がは爺さんと婆ささんさ身の内話始めだだ。「おら本当はなっす、天さ住む竜の子でごぜえます。10年間修業せねばねくて人間の世界さ降りで来たのでごぜえます。これがら天さ戻って雨降らせでまいります。おらのごど今まで育てでけでありがどうごぜえますた」。
 そう言ってな、家の外さ出だ喜助は竜の姿さ戻って、天さ上ってっただ。爺さんとと婆さんは一所懸命喜助のごど追っかけだど。走えで走えで、とうとう北上川と和賀川の一緒になるあだりまで行ったど。喜助がめねぐなったっけな、天がゴロゴロ鳴って、稲光がピカーと光ってな、雨ザーザー降ってきたど。
 喜助をのごど忘れられなくてな、爺さんと婆さんは二人すて、そごさ座て、何日も何日もじっと天を眺めでらったどて。嘆ぐごど嘆ぐごど。見でるのも辛えくてな。すたっけな、二人は、いづのが間にだが、硬ぐなって岩さなってすまったど。この岩がな、ほれ、あのイェン承知のレストハウスの前さある「爺媼岩(じじばばいわ)」ず話だ。今度な、展勝地で蕎麦っこ食いさ行ぐ時に、お父さんさ頼んで見で来な。どんど晴れ。

6 フォー・シーズンズ
 鏡沼には四つの季節がある。清少納言は『枕草子』において「春はあけぼの」と言うが、ここでは違う。それは、木々の深緑と空の群青が水面に映える碧色の季節、瑠璃色の水面を紅や黄、緑の葉のクラスターが囲む茜色の季節、雪と氷に覆われた白色の季節、竜が冬眠から目覚めるドラゴンアイの季節である。この第四の時期は白色と碧色の混じったクリームソーダの季節だ。

 八幡平アスピーテラインが11月上旬から翌年の4月中旬まで通行禁止になる。ほとんどの人にとって鏡沼を見ることができるのは半年ほどの間だけだ。四つの季節は均等ではない。ドラゴンアイの季節は5月末から6月上旬の間の1週間である。新暦ではそうだが、4月上旬に当たる。その意味ではこの季節を春と呼ぶこともできよう。だが、その呼び名には躊躇せざるを得ない。と言うのも、この季節は竜が冬眠から目覚めるからそう呼ばれるのであって、その逆ではないからである。

 俳句において「竜の玉」は冬の季語である。これはジャノヒゲの別名の「竜の髭」の実のことだ。竜の髭は常緑多年草で、厳寒の頃に瑠璃色の実をつける。この実は硬く、石の上に落とすとよく弾む。かつては子どもたちが弾み玉としてそれで遊んだものだ。

 それになぞらえるなら、「竜の目」が季語になろう。他にもこの季節を示す季語が思い浮かぶ。それはあの笑い声である。八幡平のふもとの雑木林から響き、冬眠している竜を目覚めさせるあの笑い声だ。

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