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オオカミと銃(2012)
オオカミと銃
Saven Satow
Dec. 03, 2012
「だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています」。
坂口安吾『文学のふるさと』
フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(1960)の影響の拡大と共に、グリム版の『赤ずきん』への評価が下がっている。これは17世紀末にシャルル・ペローの編纂した童話に基づいているが、両者の間に相違点が認められる。グリム兄弟によるペロー童話からの変更には教育的配慮という動機があり、それによって『赤ずきん』の持っていた性や暴力などの生々しさが隠蔽されてしまったというわけだ。
もっとも、読者への配慮という点であれば、ペローにも見られる。『赤ずきん』はペローの独創ではなく、彼が民間伝承を再構成した作品だということが今位置では明らかになっている。それらは、ペロー以上に残酷で、卑猥である。赤ずきんがオオカミに騙されておばあさんの肉を食べさせられたり、服を脱がされたりしている。また、民話の段階ではなかったと思われる教訓をペローは物語末に付記している。
グリム童話は第7版まで重ねられているが、初版は1812~15年に亘って出版されている。『赤ずきん』は初版から収録されている。
グリム版『赤ずきん』は次のような物語である。
赤ずきんと呼ばれる女の子がお使いを頼まれて森の向こうのおばあさんの家へと出かける。その途中でオオカミと出会い、口車に乗り、道草をする。狼は先回りをしておばあさんの家へ行き、彼女を食べてしまう。赤ずきんがおばあさんの家に着く。しかし、おばあさんに化けていたオオカミに赤ずきんは食べられる。満腹になったオオカミが寝入っていたところを通りがかった猟師が気づく。鉄砲で撃とうとするが、お腹のふくらみを不思議に思い、ナイフで割くことにする。お腹の中からおばあさんと共に救出された赤ずきんは自分の行動を反省し、よい子になると決心する。
グリム版から初めて加えられたのが猟師による救出である。ペロー版では、赤ずきんがオオカミに食べられて物語はおしまいである。この変更を教育的配慮だけに求めるのは、両者の間の人間とオオカミの力関係の逆転を見逃している。ペロー版では、オオカミが人間よりも力が上である。一方、グリム版においては、猟師が二人を救出するように、人間がオオカミよりも強いとして扱われている。
古来より欧州では、オオカミが人間を超えるパワーを持った存在として見なされている。紳的な場合もあれば、魔物の場合もある。いずれにせよ、オオカミは人間よりも力関係が上と考えられていることは共通している。ペローが童話を編纂した17世紀でもその認識は続いている。トマス・ホッブズは『リヴァイアサン』(1651)において戦争する相手を「オオカミ」と呼んでいる。「万人の万人に対する戦争(bellum omnium contra omnes: the war of all against all)」はオオカミどもの争いというわけだ。
ところが、グリム兄弟が童話集を刊行した19世紀初頭において、人間とオオカミの力関係が逆転する。オオカミは恐るるに足らず。その最大の理由が銃の普及である。
18世紀に欧州において猟銃が普及し始める。施条式ではない火打ち式(フリントロック式)銃、すなわちマスケットである。これは製造コストが安く、信頼性も高かったため、軍隊を始め銃の主流となっている。さらに紙薬莢の発明で銃の射撃間隔も短縮されている。18世紀後半にはフランスでは、工場内に限定されていたものの、銃の部品の規格化も始まっている。大西洋革命によって銃が急激に進歩し、主要国での生産量も増大している。
マスケットが人間とオオカミの力関係を逆転させる。ペローの頃では、猟師が赤ずきんとおばあさんを助けに行きたくても、オオカミにはかなわない。ところが、グリムの時代の猟師の手にはマスケットが握られている。オオカミなんぞ引き金を引くだけでイチコロよ。
19世紀からライフルが普及し始め、半ば以降に連発も容易になると、オオカミに対する人間の優位は一層確かなものになる。とうとうオオカミを絶滅させないために、人間が保護に乗り出すことになってしまう。最近では、オオカミが減ったことにより、鹿などが増えすぎて生態系を乱しているので、再導入が試みられている。
武器は攻撃に特化した道具である。これにより動物や他の人間との力関係を逆転できる。今から約1万年前に農耕や牧畜、土器に代表される生産技術の転換が起き、それは「新石器革命」と呼ばれている。対人を目的とした武器が出現するのもこの時期である。武器を向ける相手は具体的な敵である。使用者はある共同体に属している。武器を用いれば、力関係において優位に立てるから、支配の拡張を可能にする。共同体において権力を占有する者によって、武器を使う人間自体も道具と化す。かくして人間が人間を支配する抽象的な空間が形成される。新石器革命からわずかに遅れて都市や原初的な国家が誕生する。
武器の使用対象は具体的・直接的である。けれども、武器の進歩が起きると、抽象的・間接的な支配空間も変容する。『赤ずきん』の変更を教育的配慮や子どもの美化に対する悪意の観点からだけで読んでいては、こうした文明史的転換を見逃してしまう。
ペローからグリム兄弟への変更は、〈子供〉の誕生という文脈だけで理解できるものではない。自然と人間との関係の変容も読みとる必要がある。『赤ずきん』に関して数多くのパロディ作品が搭乗しているが、それらは自然と人間のコンテクストが無視されており、素朴なアイロニーにとどまっている。シャルル・ギュオーやデ・ラ・メア、ヨアヒム・リンゲルナッツ、ジェームズ・サーバーなどが挙げられるけれども、彼らは自分たちの暗黙の前提に無自覚である。暗黙知を認知する気のない文学読解は恣意的解釈にすぎず、自己の優越感を味わっているだけだ。
教育的配慮による理解は赤ずきんに焦点を当てていことから生じている。しかし、『赤ずきん』のコンテクストはそれだけではつかみきれない。確かに、昔から伝わる民話や童話、物語はそれだけを読んでも楽しめる。けれども、それらが暗黙の前提としている歴史的・社会的コンテクストに目を向けるとき、さらなる理解を見出す。古典を読む場合、それが属しているコンテクストをかなり注意深く意識しなければならない。
『今昔物語』に収められている寸白の受領の説話をその一例として紹介しよう。寸白とはサナダムシのことである。寸白の生まれ変わりの男が信濃守になって任国に赴任し、境迎えの宴席が用意される。ところが、信濃守は胡桃の料理を見ると、苦しそうな表情を浮かべる。これを怪しんだ古老が、彼に無理強いして胡桃入りの酒を飲ませたところ、水になって流れ失せてしまう。
この物語は、前知識のない現代の読者には、奇譚に思える。奇想天外な思いもかけぬ物語で、多義的な想像力の冒険だ。しかし、その理解は見当外れである。胡桃は、当時、サナダムシの虫下しに効果があると信じられている。また、信濃守がサナダムシの生まれ変わりだという設定の意味も明確である。境迎えの宴席は、受領と任地の人々が初めて対面する場である。そこでお互いに相手の腹の内を探り合う。腹の中を探るのだから、サナダムシは非常に適切な比喩である。この物語は一義的で、曖昧さなどない。
政治が相手の腹の探り合いだということは、むしろ、今日にも通用する。時代を超える本質的な洞察である。また、安倍晋三がお腹の病気で首相の職を途中で投げ出したている。それを想定していないと承知しているけれど、思わず、ニヤリとしてしまう。
古典は現代の読者を想定していない。そこにはわれわれと共有していない暗黙のコンテクストがある。しかも、その範囲は広い。それに着目する時、読者自身の暗黙の前提も意識され、認識に厚みが加わる。これが古典を読む意義の一つである。
〈了〉
参照文献
池上洵一編、『今昔物語集』全4巻、岩波文庫、2002年
市川定春、『武器事典』、新紀元社、1996年
内堀基光、『「ひと」学への招待』、放送大学教育振興会、2012年
鈴木晶、『グリム童話─メルヘンの深層』、 講談社現代新書、1991年
菱川晶子、『狼の民俗学』、東京大学出版会、2009年
トマス・ホッブズ、『リヴァイアサン』全2巻、永井道雄他訳、中公クラシックス、2009年
青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/