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電子書籍と学校図書館(2012)

電子書籍と学校図書館
Saven Satow
Aug. 05, 2012

「世界を理解するには、それを組み立ててみなければなりません。それも一回ではなく、三回組み立てねばなりません。最初は筋肉を使って、次にヴィジョンによって、そして最後に、目の前の現実を超越させてくれるシンボルによって、世界を組み立てるのです」。
アラン・ケイ『教育技術における学習と教育の対立』

 「灯火親しむべし」といかない季節であるが、マスメディア上で電子書籍の話題は熱く語られている。ほぼ毎日と言ってよいけれども、まだ物珍しさから日常へとは至っていない。市場規模や事業連携、リーダーをめぐる現状と将来性が多い。産業から電子書籍を見がちで、それを必要としている場面への眼差しは数少ない。

 学校図書館は電子書籍を最も求めている領域の一つである。今日の教育は学校教育から生涯学習までと幅広い。学習に書籍は欠かせない。学術研究から情操教育まで用途はさまざまである。図書館はその要求に応えなければならないが、なかなか難しい。

 遠隔地に住む人が図書館を利用するのは容易ではない。放送大学を始め通信制教育を受ける機会は格段に増したが、印刷教材だけでは不十分である。けれども、学習に必要な書籍が揃った図書館が近所にあるとは限らない。意欲の点で、生涯学習の学生は一般よりも非常に高い。それが読書環境をめぐる地域間格差によってそがれるのは、教育の意義を揺るがしかねない。

 また、すべての図書館が同じように蔵書を拡充することはスペース・予算上の制約がある。被災地域の学校図書館を中央大学付属中等・高等学校のレベルにすることは不可能である。図書館にとって、蔵書数は非常に重要である。それは学術研究のためだけではない。子どもたちに読書の楽しみを体感してもらう目的もある。図書館にある書籍は読まなければならないと言うよりも、読んだ方がいいと思われるものである。十分な選択肢を用意していなければ、子どもたちに読書の楽しみがわかない恐れがある。

 しかも、ある書籍を誰かが借りている間、他の人がそれを読むことができない。図書館によってはリクエストが多い、もしくは授業の副教材の書籍を複数所蔵しているケースもあるが、そういった本は需要過多であるので、待たないと借りられないのが通常である。また、絶版ないし品切れの書籍となると、買い増しはできないし、コピーを繰り返せば貴重な蔵書が痛む。加えて、百科事典のような館内でのみ利用される書籍であっても、排他性の事情は同じだ。

 電子書籍はこれらの問題を解決できる。ネットワーク化された図書館がコンテンツを用意し、生徒・学生が端末で接続して、必要な書籍を閲覧する。これなら、遠隔地に居住していても必要に応じて本を読めるし、小規模の図書館であっても論理上蔵書数を増やせるし、同時に多人数が同じ本を利用できる。電子書籍はモバイルな図書館である。

 電子書籍の図書館としての活用はインターネットの理念「自立・分散・協調」に非常に即している。ネットを通じた新たなサービス・商品の普及は、この理念にどれだけ適合しているかで占うことができる。この理念を実現しようとするものがインターネットから浸透する。

 情報科学者のアラン・ケイは、グーテンベルクの印刷術の歴史的意義を書物のモバイル化だと主張する。彼は、『ともに未来を発明しよう』において、グーテンベルクの活版印刷機が登場したときに、もし市場調査をしたとしたら、浸透しないと結論づけただろうと言っている。印刷機が貴重であるため、印刷物は高価であり、写生本に太刀打ちできない。そもそも識字率が低く、しかも一部のエリート層にとって議論すべき課題はキリスト教に限定されている以上、印刷術は普及しないというわけだ。

 しかし、アラン・ケイは、アルダス・マニュティウスとマルティン・ルターがこの状況を一新したと指摘する。前者は聖書以外の利用方法を考案し、書物の小型化に成功、携帯を可能にしている。また、後者は信者が聖書を理解するためには、自分自身で読む必要があると考え、印刷物を自己解釈メディアとして位置づける。二人は印刷術をモバイルというヴィジョンから認識している。

 こうした歴史を踏まえ、アラン・ケイは、『パーソナル・ダイナミック・メディア』において、コンピュータをモバイルから捉え直している。未来のコンピュータはA4サイズ程度の片手で持てるくらいに小型化され、持ち運べる図書館であり、美術館であり、博物館であり、工房であるだろうと予言する。電子書籍は、確かに、アラン・ケイのヴィジョンの実現化の一つである。

 余談ながら、19世紀のアメリカでは、紙幣がモバイル博物館として期待された時期がある。その頃、田舎に住む農民は美術品など見たことがない。世界の近代化の最先端を切り開く合衆国の国民がこれではいけない。彼らを啓蒙するために、1896年、連邦政府はアメリカの歴史や芸術の象徴的イラストを刷り込んだ銀の兌換紙幣を発行している。これは教育用紙幣ということで、「エデュケーショナル・シリーズ(The Educational Series)」と呼ばれている。

 電子書籍が普及すれば、図書館や司書が不要になるわけではない。多種多様な背表紙を見ているだけで、読んでみたいと思わせることもある。研究に必要な書籍と偶然めぐり合うことも少なくない。また、さまざまな利用者のニーズに豊富な知識と経験で応えるガイドがいなければ、本の世界に迷ってしまう。映画『ライブラリアン』のフリン・カーソンのような人物とも会ってみたいものだ。さらに、図書館は出会いやコミュニケーションの場でもある。電子書籍は教育上の機会の平等に寄与するのであって、読書の楽しみを効率性の観点から奪うものではない。

 電子書籍について語られる際に、見落とされる点がまだある。その一つが読書のスタイルである。

 活版印刷は読書の姿を変える。それまで声を上げて読むこと、すなわち音読や素読、読誦が一般的である。また、書物を書き写すのも読書の一種である。読書は筋肉を使う作業を通じた知識の身体化を指す。しかし、この習慣はグーテンベルク革命が衰えさせる。活版印刷は書物を個人で所有することを可能にする。自由で平等な個人が自立して考えるという近代の理念、すなわち個人主義とも相まって、黙読が読書の通常の姿となる。識字率も上がり、大人には誰かに読んでもらう必要がなくなる。一人で、黙って、活字を目で追う内面的作業が読書であるという共通理解が人々の間に形成される。

 電子書籍はおそらくこうした読書の様相を変容させるだろう。確かに、リーダーに向かっている姿は黙読が依然として主流である。しかし、活字書籍についても電子メールによって感想を誰かに伝えたり、ブログで意見を発表したり、SNSのコミュニティに参加して交流したり、二次作品を表わしたりしている。「協読」とも呼べるスタイルが定着しつつある。

 インターネットは自立・分散・協調という新しい公共性をもたらしつつある。読書は、それを受けて、個人主義的・内面的作業でなくなっていくに違いない。印刷時代と違い、書物は共有するものだ。自立・分散・協調のネットワークの中で読書は象徴的行為として行われる。コンピュータならびにインターネットは、だからこそ不安を覚えるのだが、脳の拡大でもある。電子書籍端末は読むだけでなく、書き、音声出入力に対応、視聴し、表現して、送受信するメディアである。電子書籍はそうした内外のニューロネットワークのアクセス・ポイントである。「ニューロリーディング」が促進されるであろう。

 読書に新たな楽しみが加わる。それが電子書籍の真の意義である。
〈了〉
参照文献
浜野保樹監、『アラン・ケイ』、鶴岡雄二訳、アスキー出版局、1992年

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