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なぜ『いだてん』は不評なのか(2019)

なぜ『いだてん』は不評なのか
Saven Satow
Mar. 05, 2019

“The fact is stranger than fiction”.

 人間の成長過程を描く散文フィクションを教養小説、それに歴史の変動を重ね合わせて扱うものを大河小説と言います。NHKの大河ドラマはこれをテレビ・ドラマに移植したものです。中心的登場人物の成長過程に焦点を当てつつ、歴史的出来事を取り扱うスケールの大きさが最大の魅力でしょう。

 アリストテレスの『詩学』に従うなら、大河ドラマは叙事詩の系統に入ります。これと対をなすのが抒情詩の系統です。両者の違いは視点の位置にあります。前者は世界の外部ないし境界に視点があります。その語りは鳥瞰的です。他方、後者は視点が世界の内部にあります。その語りは主観的になります。

 演劇は、ほぼ登場人物だけが語りますので、抒情詩の系統に属します。演劇が歴史的出来事を扱う場合、その特性上、全体ではなく、部分に限定されます。それにより演劇は実際の出来事をめぐる一般的認識に対するアイロニーとして利用されることがあります。アドルフ・ヒットラーによる突撃隊粛清を扱った三島由紀夫の『わが友ヒットラー』はその一例です。

 宮藤官九郎脚本の大河ドラマ『いだてん』が不評です。テンポが速すぎるとか演戯がわざとらしいとかうるさいとかなど厳しい感想が局に寄せられています。その原因は叙事詩系である大河ドラマを抒情詩系の演劇の手法を過剰に取り入れて制作しているからでしょう。

 宮藤官九郎は演劇のアイロニー性をチープさとして展開します。そこが彼の作品の魅力です。ついでに言うと、同様に演劇の手法によって大河ドラマで失敗した脚本家として三谷幸喜を上げることができます。彼はセコさが特徴です。彼らが大河ドラマを手掛けると、安っぽかったりセコくなったりします。スケールの大きさが魅力のドラマですから、これでは視聴者には不満が募ります。宮藤官九郎や三谷幸喜がその個性を生かそうとした大河ドラマでは、川島雄三監督の『幕末太陽傳』(1952)を見たことのある視聴者にとっては嘲笑するほかないものです。彼らは自分たちの目論見をはるかに超える傑作がすでに発表されていることを真摯に受けとめるべきでしょう。

 演劇は、観客に意識を舞台と一体化させるため、不可解さや突拍子のなさで始まることが少なくありません。驚きや謎によって観客の注意を舞台に惹きつけるのです。一方、大河ドラマは長丁場ですから、視聴者にゆっくりと作品世界に入ってもらうようにします。刺激的な幕開けはそれを妨げてしまうのです。

 また、演劇は暗転を使わない限り、場面を移動できませんので、舞台への人の出入りによって物語を展開します。一方、ドラマは編集ができますから、場面を自由に移動することが可能です。長丁場のドラマで、人の出入りによる展開を多用すると、作品が忙しくなります。

 もちろん、演劇とドラマの共通点もあります。それはいずれも音声を通じて内容を鑑賞者に理解させることです。演劇は抒情詩系ですから、考えるまでもありません。

 テレビはながら視聴が前提です。食事をしたり、雑談したり、台所にビールを取りに行ったりしながらテレビを見ます。画面に集中していなくても、内容がわかる工夫が必要です。音声だけで話が理解できるようにしていなければなりません。ですから、セリフが多くても、ドラマは気になりません。この点に関しては、ドラマは映画より演劇に近いのです。

 ながら視聴のドラマは、スクリーンに集中する映画よりも、1枚の画像の情報量が少なくなります。速いカメラの切り替えによって不足分の情報量を補います。また、ドラマは、映画に比べて、アップが多くなります。アップはロング・ショットよりも時間が速く見る者に感じられます。こうした理由からドラマは全体的に映画よりもテンポが速い印象になります。

 ドラマの作品世界はカメラを通じて示されます。演劇と違い、人がいないショットも効果を持っています。そうしたカットが作品のリズムをつくったり、場面の情報や気分を伝えたりします。そういったカットがありますから、ドラマの脚本は同じ時間の長さでも演劇よりも分量が少なくなります。ですから、ドラマ1回分の脚本の分量が時間内には窮屈であると、人のいないカットは少なくなります。

 また、ドラマでは、セリフの長さも、カットに合わせますので、概して演劇よりも短くなります。セリフがカットをまたぐと、コミュニケーションがうまく成立していないなどの効果が生じてしまいます。ですから、通常は台詞の長さがカットに収まるようにしています。

 演劇の脚本をそのままドラマにすると、人が出てくるシーンばかりでセリフもカットも長いですから、視聴者は疲れたり飽きたりします。これでは楽しく見ることができません。

 こうしたリテラシーの違いが演劇とドラマにはあります。具体例をいちいち挙げませんが、演劇の手法を多く使って大河ドラマを制作したら、視聴者に不評となるのも当然です。『いだてん』は失敗作と言わざるを得ません。

 ただし、朝ドラでは演劇の手法が生きます。主人公が時代の流れの中で社会の片隅に暮らしていますから、これは抒情詩系に属します。また、1回の放送時間も15分と短いですので、展開が忙しく、人がいるカットだらけになるのが自然です。宮藤官九郎脚本の朝ドラ『あまちゃん』が成功したのは手法と題材、番組形式が合っていたからです。

 ところで、70年代からテレビ・ドラマの歴史に残る名作を数々手掛けた脚本家として山田太一を上げることができます。彼は、1972年4月に始まる『藍より青く』の脚本を担当しています。あさま山荘事件の中継10時間があった同年2月28日に、その物語の説明をしにNHKに足を運んでいます。

 ところが、番組スタッフは中継に気をとられ、彼の話を聞くどころではありません。山田太一は、1992年10月31日にこの中継を振り返る番組『テレビの一番長い日』がNHK BS2で放送された際、そこで次のように述べています。

 つまり、結局、そりゃあどんな名画だって、ルノワールだろうとゴッホだろうと、どっか街に置いといたり、野原に置いといたりしたら、そりゃあ街の方がずっと複雑で素晴らしいし、野原の方がずっと素晴らしいわけですね。現実とはそういうもんだと思うんですよ。強いもんだと思うんですね。
 しかし、われわれは現実だけではやっていけないわけです。で、ついルノワールを見たくなり、ゴッホを見たくなり、とまではいかなくたって、落語を聞きたくなりね。そりゃあ事実と比べればひ弱なもんです。
 われわれは事実だけでは生きていけないですね。それは原生林の中で裸で生きていけないのと同じで、やっぱり人工的な衣服をまとい、人工的な家を作って生きなければ生きられないように。しかし、人間はフィクションが事実より弱いことを知っていても、フィクションを求める存在だというように思うんですね。(略)
 何て言うかな、テレビっていうのはフィクションのひ弱さというものをあからさまに感じさせるメディアだと思うんですね。それ以前はね、フィクションは事実にとても勝てないからね、隔離してやってたんですよ、演劇の小屋であるとか、映画館であるとか、一応事実を排除して、現実を排除して暗闇に入れてね、フィクションを見せてったんですね。
 で、外に出ると、また味気ない現実がある。しかし、味気ないけど強い現実だ。だから、逃げこみたくてまた暗闇に入る。
 この構図が非常にうまくいってたんですが、テレビってのは隔離しないで事実の中にフィクションがある。これ、かないっこないわけですね、みなさん、ご飯食べながら、電話しながら、そんな中でフィクションを見るわけでしょう。隔離がないところで、だから、つまり、野原にゴッホを置いたようなもんなんですよ。
 だから、テレビでかなり高級なフィクションをやったって、野原のゴッホと同じで、みんな入っていけないんですね。だから、もうこっちの欲を言えば、ドラマが始まる時には、暗くしてね、そして、みんな電話したり風呂入ったり雑談したりご飯食べたりしないで、じっと見ていて欲しいわけですね。
 でも、そんなことできないから、野球放送やニュースと同じ次元でフィクションが試されるわけですね。これはものすごく厳しい世界に入ったっていうことをね、それほど僕はそれまで意識的ではなかったんですけれども、あさま山荘にあんなに惹きつけられる、あんな単調な絵にみんなが惹きつけられてしまうことの無念さでだんだん意識的になりましたですね」。

 長い引用になりましたが、非常に示唆に富む発言です。なぜ山田太一が長きに亘って優れた脚本を書き続けられたのかの理由の一端がこれによりわかります。

 「現実」は強く、その世界は厳しいものです。それに対し、フィクションはQOL(活の質)に属します。「現実」だけでは生きられませんから、フィクションを求めます。ただ、それは弱いので、「現実」と隔離した空間で鑑賞することになります。ところが、テレビは、お茶の間にありますから、この構図を崩してします。フィクションであるドラマが「事実」に属する「野球放送やニュースと同じ次元」で競うことになります。テレビ・ドラマはこの環境の下で制作されなければならないのです。

 その「事実」を扱いながら、それを「闇」や「アンダーグラウンド」などと呼んだり、アイロニカルにデフォルメしたりする表現者がいます。しかし、それは強い「事実」を貶めようとする弱いフィクションのルサンチマンです。山田太一はそうした姿勢をとりません。「事実」を貶めても、よいドラマはつくれません。それには、「事実」と「同じ次元でフィクションが試される」ことを意識しなければならないのです。
〈了〉

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