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よい年をお迎えください(2012)
よい年をお迎えください
Saven Satow
Dec. 30, 2012
夏子先生 じゃあまたらい年ね。いい新年をむかえましょう。
ヨシエ 先生も、よいおトシをおとりください!
夏子先生 ドーモ気になるいいかただな──
あすなひろし『青い空を白い雲がかけてった』
仕事納めが過ぎると、この挨拶が街のあちこちから聞こえてきます。
よい年をお迎えください。
これは未来に向けられています。実は、日本語の挨拶は未来を示しているものが少ないのです。
「明けましておめでとうございます」や「おはようございます」、「こんにちは」などはすでに起きた出来事に対して使われています。
一方、西洋では、未来に向けられた挨拶が少なくありません。英語には、”good”を用いる挨拶が多くあります。それらには、未来のニュアンスが含まれています。”Good night”は「おやすみなさい」としばしば訳されますが、「よい夜をお迎えください」という意味で夜の別れの際にも交わされます。英語に限らず、他の言語でも”good”に相当する単語の入った挨拶は、概して、未来志向です。
なぜそうなのかはわかりません。語源をたどったり、比較文化論を持ち出したりして説明することも可能でしょう。ただ、挨拶は人間関係を潤滑にする機能がありますから、発せられること自体に意味があります。ですから、内容をあれこれ分析してもあまり建設的ではないのです。
けれども、言語は暗黙知の典型例です。意識しないで使っていますが、明示化して考えると、自分の認識が相対化されます。
例を挙げましょう。
私は彼女が来ると思います。
何の変哲もない文です。ところが、この文の「私」と「彼女」を入れ替えた場合、次のような書き換えが必要になります。
彼女は私が来ると思っています。
「私」と「彼女」を入れ替えたら、動詞の形も変えなければならないのです。「彼女は私が来ると思います」は非文になってしまいます。「思います」は三人称が主語の時には使えません。「思います」は今そう考えるとういう意味です。他方、「思っています」には前からそう考えているというニュアンスがあります。
私が来ると彼女が思っている根拠は今ではなく、その前に求められます。今どうなのかは私には確認しようがありません。三人称が主語の際に、「思います」は不適当で、「思っています」しか使えません。「思います」は、実は、一人称が主語の時しか用いられないのです。
例外は二人称が主語の疑問文です。
あなたは彼女が来ると思いますか。
これは相手の今の思いを訪ねているのですから、「思います」が使えるのです。日本語を論理的ではないと批判する人がいます。しかし、この使い分けは非常に論理的です。言語が論理的であるかどうかではなく、使う人がそうであるか否かが問題なのです。
「思います」だけでなく、「信じます」「や「考えます」。「感じます」にも同様の規則があります。意見や感想、信条を伝える動詞に見られるのです。
こうした書き換えを日本語のネイティブ・スピーカーが学校教育で学習することはあり得ません。いつの間にか覚えているのです。ただ、非ネイティブが日本語を学ぶ際には明示的ルールとして理解する必要があります。
人は身近な物事ほどわかったつもりになるものです。思いこみや思いつきでそれについて語ってしまうこともざらです。言語はその典型例です。意識的にならないと、自分の恣意に囚われてしまいます。その反面、自覚すると、自分の認識がよく見えるようになるものです。使うだけでなく、外国語として日本語を考えると、つまり外から自分を見ると、わかることが大いにあるのです。
言語行為の中でも挨拶は最も身近です。その挨拶の中で未来に向けた数少ないものが年越しの際に使われるのなら、おそらくそれは一年の内でも大切な出来事ということになるでしょう。語源や習俗に関する知識がなくても、そのくらいは気づきます。そう思いながらこの挨拶を発すると、ちょっと違う感慨を覚えるものです。
よい年をお迎えください。
〈了〉
参照文献
あすなひろし、『青い空を白い雲がかけてった3』、少年チャンピオン・コミックス、1981年