パンデミックを書く(3)(2021)
第3章 パンデミック作品
欧州で何度か大流行したペストは腺ペストである。これはヒト=ヒト感染しない。ペストと言えば、従来はこの腺ペストを意味している。ところが、1911年に満州で流行したペストは肺ペストで、ノミが媒介しなくても、患者が空気感染によって他の人に移す可能性がある。この感染予防対策として考案されたのが「マスク」である。以後、マスクは感染症からの個人防護具として医療現場のみならず、社会的にも認知されていく。
ただ、地域や時代によってマスク着用に対する人々の意識は異なる。スペインかぜの頃の日本社会は、当局が啓蒙活動を積極的に行っても、必ずしも普及していない。
スペインかぜを扱った数少ない小説が菊池寛の『マスク』である。新型コロナウイルス感染症の流行は「マスクのある風景」をノーマルにしている。この状況下、同作品は改めて読み直されている。彼の出身地の香川県高松市にある菊池寛記念館が特別展示「菊池寛とマスク」を開催、市も公式ホームページ上でこの短編を公開する。
『マスク』は、1920年7月、雑誌『改造』に発表され、スペインかぜの感染予防に躍起になった菊池寛自身の日々を振り返る短編小説である。菊池寛は当時まだ30歳だったが、心臓が弱かったため、スペインかぜにかかって40度ほどの熱が続けば「もう助かりつこはありませんね」と医師から告げられる。怯えきった彼は、その冬、極力外出せず、家族にも控えさせる。菊池寛は予防策としてうがいを徹底し、やむを得ず外出する時には、「ガーゼを沢山詰めたマスクを掛け」て用心している。しかし、巷の人々の多くはマスク着用や外出の自粛を躊躇しがちである。そのため、彼は、せきをする来客があると、「心持が暗く」なる。
菊池寛は、こうした風潮に対して、「病気を恐れないで、伝染の危険を冒すなどということは、それ野蛮人の勇気だよ。病気を恐れて、伝染の危険を絶対に避けるという方が、文明人としての勇気だよ」と批判する。そう思う彼は、感染者が大幅に減っても、マスクを着け続ける。
なお、内務省の『流行性感冒』が述べている通り、「ガーゼを沢山詰めたマスク」に感染することを防止する効果はない。また、うがいも回数が限られるため、効果は期待できない。鼻や口の粘膜に付着したウイルスはごく短期間に感染するとされ、うがいでは間に合わず、現在は予防策として推奨されていない。菊池寛がインフルエンザを発症しなかった主因はマスクではなく、おそらく外出自粛を始め他者と距離をとっていたことのように思われる。
「病気を恐れないで、伝染の危険を冒すなどということは、それ野蛮人の勇気だよ。病気を恐れて、伝染の危険を絶対に避けるという方が、文明人としての勇気だよ」。この菊池寛の意見は、感染がこれほど広がっているにもかかわらず、多くが自分だけは大丈夫と楽観的に考えていたことを物語る。
パンデミックによって社会はシビアな状況だが、自分だけは大丈夫という認知は「楽観バイアス(Optimism Bias)」と呼ばれるものだ。100年後の現在でもそれはしばしばみられる。
複雑な状況では慎重なリスク計算と評価が必要になる。しかし、見通しの悪い道路ほど確認を怠るように、計算量が多い時ほど面倒になり、思考をショートカットしてヒューリスティックに依存してしまう。多元的な批判的思考ではなく、直観による即断即決や過去の経験からの類推を判断の根拠にする。考える過程を軽視して早く結論に飛びつこうとする。その際、動機づけられた認知により自分の願望に沿った情報を信じ、結論を導き出す。状況は深刻だが、自分だけは大丈夫だといった楽観バイアスもそこに潜む。情報は自身の信念を強化するものが優先的に選ばれるので、それに沿った結論が導かれる。
楽観バイアスは「正常性バイアス(Normalcy Bias)」と似て非なるものだ。新型コロナウイルス感染症はたいしたことがなく、風邪のようなものだと思うのが正常性バイアスである。主にパンデミック初期に見られた「コロナ否認主義(COVID-19 denialism)」もこれに含まれる。一方、新型コロナウイルス感染症は危険な感染症であるが、自分だけは大丈夫と思うことが楽観バイアスだ。
楽観バイアスには「コントロール欲求(Desire for Control)」や「知覚された行動のコントロール(Perceived Behavioral Control)」が影響しているとされる。これは「コントロール感」とも呼ばれる。人間は程度の差こそあれ判断や行動は自分で決めたいという欲求を持っている。しかし、自らハンドルを握っているなら安全だが、他の誰かの運転は信用できないので危険だというように、それはしばしば自分に甘く、他人に厳しい態度につながってしまう。
制御欲求により「自分は対策を十分に行っている」、「自分は危ないことはしない、」、「自「分は運がいい」と感染リスクを低く見積もる。その反面、他者に対しては厳しい目を向け、「対策を十分に行っていない」、「危ない行動をとっている」、「ああいう人たちが感染を蔓延させて自分を危険にさらしている」と責め立てる。状況悪化の原因を自分以外に求めて糾弾、場合によっては、正義感を気取って他者に嫌がらせを始める。
コントロール欲求が極度に強いのが独裁者である。彼らは自分以外を信用せず、強権的に他者を抑え込もうとする。他者を自分でコントロールしないと気がすまない。反面、自分自身の行動には極めて甘い。
コントロール感の強い独裁者は楽観バイアスに囚われて判断する。彼らは、他者が歯向かっているわけではないので、パンデミックを甘く捉える。むしろ、それこそが自分を陥れようとする騒動とさえ思う。不都合なことが起きると、強権で解決してきたから、その深刻さに気づいても、合理的な判断ができない。問題点の指摘や科学的提言をなかったことにする言論統制を強化、場当たり的な政策を繰り返し、事態をさらに悪化させる。
巷が楽観バイアスに囚われていることは確かでも、『マスク』の主人公は過敏になりすぎてその逆のバイアスに陥っているように見受けられる。彼は明らかにコントロール感が強い。ハイリスクであるため、必死に感染予防に励む主人公と裏腹に、世間は必ずしもパンデミックを実感していないため、甘い行動をとる人も少なくない。彼はその姿に戸惑い、苛立ち、不安になる。しかし、両者の意識は離れているかに見えて、制御欲求の強さは類似して、状況のもたらすものに背いていない。こうした主人公と世間との認知行動のずれが読者にとって感情移入の入口である。
菊池寛が描いているのは自分にとってのスペインかぜである。パンデミックの全体像を捉えていないが、主人公と世間との認知行動の違いがその当時の社会の気分を伝える。こういう時代や社会の雰囲気は客観的記録の史料からは伺い知ることが難しい。
スペインかぜの小説はあまりないものの、架空のパンデミックを描いた作品は少なくない。小説に限らず、マンガや映画でも見受けられる。現実のパンデミックは表現しにくいが、架空のそれはやりやすいというわけだ。その代表的作品として小松左京の『復活の日』(1964)を挙げることができる。これは1980年に映画化され、邦題は現代のままだが、英題は“Virus”である。物語のあらすじは次の通りである。
196X年2月、イギリス陸軍細菌戦研究所で試験中だった猛毒の新型ウイルス「MM─88」がスパイによって盗み出される。しかし、スパイとウイルスを乗せた小型機がアルプス山中に墜落する。春が訪れて気温が上昇するとMM─88は増殖を始め、瞬く間に全世界に拡散していく。この謎の感染症は感染力が極めて強く、致死率も高い。けれども、予防法・治療法が発見できない。半年後、夏の終わりには35億人の人類のみならず多くの脊椎動物も絶滅する。生き残ったのは、南極大陸に滞在していた各国の観測隊員約1万人、海中を航行していたために感染をまぬがれた米ソの原子力潜水艦[乗組員たちだけである。南極の人々は「南極連邦委員会」を結成、再建の道を模索、種の存続のために女性隊員16人による妊娠・出産を義務化、アマチュア無線で傍受した医学者の遺言からこのウイルスについての知識を入手、ワクチンの研究を開始する。
4年後、日本観測隊の地質学者の吉住は、アラスカ地域への巨大地震の襲来を予測する。その地震をホワイトハウスに備わるARS(自動報復装置)が敵国の核攻撃と誤認すると、モスクワも同様のシステムにより報復攻撃を始める。吉住とカーター少佐はARSを停止するためにワシントンへ向かい、ホワイトハウス地下の大統領危機管理センターへ侵入するが、到着寸前に地震が発生、核戦争が勃発、世界は二度目の死を迎える。しかし、中性子爆弾の爆発によってMM─88から無害な変異が生まれ、南極の人々を救う。
6年後、南極の人々は南米大陸南端へ上陸、小さな集落を構えて北上の機会を待つことにする。そこに、ワシントンから南極を目指して歩いてきた吉住が現われる。精神を病み、変わり果てた姿の彼を人々は歓喜を持って迎える。被災地に多くの文明の遺産があるので、人類社会の再建は原始時代からのやり直しよりも早くなるだろうと物語は幕を閉じる。
『復活の日』に限らず、架空のパンデミックを扱う場合、そこに登場する感染症は概して感染力が強く、致死率も高い。それは感染症法の1類に分類される疾病だ。こういう疾病は政治・経済・社会のシステムを壊滅的にするので、核戦争同様、影響に関する詳細な記述が不要となる。『復活の日』が両方を入れているように、いずれも文明の破壊や人類の滅亡をもたらし、作品世界を単純化させる。作家はアナーキーやプリミティブな状況、すなわち自然状態をイメージして作品世界が描ける。
感染症法は病原体の毒性や感染力に応じて感染症を五つに分類している。ペストやエボラ出血熱は最も危険な1類、結核やジフテリアが2類、コレラや腸チフスが3類、A型肝炎や狂犬病が4類、季節性インフルエンザやアメーバー赤痢が5類にそれぞれ属する。新型コロナウイルス感染症は、新型インフルエンザ同様、いずれにも定められていない。ただ、政府はCOVID-19を2類相当と扱っているが、『毎日新聞』2021年8月18日00時17分更新「首相、コロナの危険度分類引き下げに慎重『対策、十分に必要』」によると、5類への引き下げを画策している。
現代のパンデミックは影響が急性的ではなく、慢性的である。さまざまなところにじわじわと変化を強いる。その影響は、コロナ禍による意外なニュースに連日直面するように、個々人の想像力を超えている。パンデミックを取り入れた小説はまったくパンデミック的ではない。むしろ、サメをウイルスの隠喩として見るならば、映画『ジョーズ』の方がパンデミック的である。
スティーヴン・スピルバーグ感得『ジョーズ』(1975)は映画史に残る傑作である。原作は前年に出版されたピーター・ベンチリーの同名小説であるが、映画の方がパンデミックの隠喩として捉えることができる。
よく知られた作品なので、詳しい内容解説は不要だろう。夏のバカンス地として知られるアメリカ東海岸の島が舞台である。海水浴場の浜辺に突如巨大な人喰いサメが出現、犠牲者をこれ以上出さないために、新任の警察署長ブロディが閉鎖しようとする。しかし、観光地としての利益を求める業者や市当局によって対応が遅れ、犠牲者が増えてしまう。事態のシビアさをようやく実感した市長らの後押しもあり、ブロディと漁師クイント、海洋学者フーパーの三人がサメ退治に乗り出す。激闘の中でクイントは亡くなるが、ブロディはサメを爆殺、フーパーと共に喜びを分かち合う。
サメを新型コロナウイルスに置き換えてみるなら、これはパンデミック下の状況に似ているとわかるだろう。「新型肺炎」が出現した当初、事の深刻さを認識していたのはごく一部である。専門家がそれに気づき、対策を政府や社会に提言しても、大したことはないと高をくくり、経済活動を優先するため、規制に消極的である。日本の場合、ここに東京五輪開催が加わる。対応の遅れから専門家が危惧していた通りの被害が出てしまう。
『ジョーズ』では、実は、サメの犠牲者は一桁である。少数と言っても、海水浴場にサメが出現して死者が出たとなれば大事である。新型コロナウイルス感染症による死者数は、3年間で最低でも2000万人とされるスペインかぜと比較すると、必ずしも多くない。COVID-19による全世界の年間死亡者数は感染症の中で最多で、2020年の公式人数はおよそ180万人である。ただし、記録漏れの可能性があるので、実際は少なくとも300万人とも推計されている。従来、世界で最も死者数の多い感染症は結核である。2016年の結核による世界の年間死亡者数がおよそ170万人だ。しかし、パンデミック作品において死者数はこの程度で済まない。
死者数が少ないことを理由に、当局や専門家、世論に対して過剰反応だとの主張も少なくない。斎藤太郎ニッセイ基礎研究所経済調査部長による『東洋経済オンライン』2021年4月16日4時30分更新「新型コロナへの過剰反応をいつまで続けるのか 感染者や死者が少ない日本で弊害のほうが拡大」がその一例である。対策を一定水準維持しなければ、感染者数が増加、死亡者数も後追いする。また、回復後に後遺症のあるケースも少なくない。感染者数が増えれば、医療資源を圧迫、他の病気や怪我の治療を難しくする。しかも、感染数が増加すると、変異が生じる可能性が高くなり、この状況をさらに悪化させる。「医療崩壊」が端的に示している通り、実際のパンデミックは死亡者数だけを見て、影響の程度を決めつけることはできない。だからこそ、『ジョーズ』が『復活の日』よりもパンデミックの実態に近い。カミュも含め作家は感染力・毒性が強い感染症を登場させて極限状況を描くと言うが、実際には書きやすいからで、社会性のある読者にはパンデミック考察の参考には必ずしも適さない。