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月間総合誌の退潮(2009)

月刊総合誌の退潮
Saven Satow
May.,13, 2009

「私も、確信をもって未来についてコメントする齢に達した。予測が間違っていたとわかったときは、もうこの世にはいないからね」。
ジョン・K・ガルブレイス

 月刊の総合誌の休刊が相次いでいる。これには、確かに、個々の事情を考慮する必要もある。しかし、『論座』に『諸君!』、『月刊現代』、『月刊PLAYBOY日本版』と多岐に亘っている状況を見れば、月刊総合誌自体が退潮していると考えるべきだろう。

 けれども、論壇が衰退しているわけではない。学者や作家たちはブログや新書を通じて意見を発表している。その新書もブログで初出した作品をまとめた体裁も多く、ウェブに論壇が移動しつつある。もっとも、ブログと言っても、自分の考えを公表するのが主目的で、ネットの持つ双方向性が十分に生かされてはいない。

 月刊総合誌の発行部数は、最近、低迷し、各出版社がプレステージとして販売を続けていたというのが実情である。しかし、90年代から続く出版不況に追い討ちをかけるように、今回の金融危機による販売不振と広告収入の減少がその余力を奪っている。雑誌の休刊や統合がさらに進むと見られている。

 紙媒体において、手紙が18世紀、書籍が19世紀を代表していたとすれば、20世紀に最も中心的だったのは雑誌である。ヴォルテールを始めとする18世紀欧州の知識人たちは手紙を使ってお互いの意見交換をしている。また、19世紀の思想家や科学者は、チャールズ・ダーウィンがそうしたように、書籍を著わして自説を展開している。

一方、20世紀では、論文から小説、批評、マンガまで大半がまず雑誌に掲載される。20世紀後半の科学分野のみならず、社会全般に至るまで影響を与えた最大の科学的発見は、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによるDNAの二重らせん構造の解明であろう。この画期的な研究を世界に最初に知らしめたのは、1953年の『ネイチャー』誌171号である。20世紀は雑誌の黄金時代である。

 雑誌の時間が出版界を支配していることは書籍の新発売のサイクルを見ても明らかである。雑誌を発行しない出版社であっても、新書や文庫などを毎月決められた日に定期的に発売している。

 過去の事件や出来事を掘り下げる調査報道は、本来、新聞の役割に属する。しかし、それを雑誌が担ってきたという日本の特殊事情もあり、総合誌の衰退がノンフィクションの危機と関連して論じられている。

 ただ、雑誌を考える際に、しばしば誤解されているのが発行間隔と記事の速さの関係である。新聞やテレビ、ラジオ、インターネットと比べて、雑誌は発行間隔が長いので、記事が遅いと言われている。しかし、実際には、雑誌の記事が最も速い。

 速報性という点から見れば、発行間隔の短いメディアの方が速いのは間違いない。現在最速なのはTwitterだろう。ムンバイのテロを最初に世界に伝えたのもこのTwitterである。
けれども、それはすでに起きた事件や出来事を速く伝えているだけであって、記事の内容の時間は過去に属する。逆に、先導性という点では、発行間隔の長いメディアの方が速くなる。

 6月の始めに、月刊の女性ファッション誌が「やっぱり清楚に見られたい!」と題してこの夏の流行の特集記事を掲載したとしよう。これは一ヶ月以上も未来を先取りしている。

 一方、日刊の新聞は、土浦あたりでも見かける時期に、流行を事後的に特集する。それを見て、「ええ、今頃こんなの特集してんの!そんなのとっくに終わってるよ!」とセレブ好きの女性たちは呆れてしまう。また、男性週刊誌が「誰も言わないのなら、本誌が書こう!」と閣僚の女性スキャンダルをすっぱ抜いた場合、それは新聞の一面にその辞任が報じられることを先行している。

 言うまでもなく、先物である以上、外れる危険性もある。そのため、未来を扱う雑誌の記事の精度は新聞ほど要求されない。それは読む側が眉に唾をつけつつ、あれこれ吟味しなければならない。

 発行間隔が長くなるほど、その媒体は未来を語りうるだけでなく、それがセールス・ポイントとなる。ただし、専門性が高くなると、発行間隔とは別に、記事の内容の持つ時間が現在となる。専門家とは研究成果を論文で発表する人のことである。学術誌は現在進行中の学会の動向をきめ細やかに紹介する。世界恐慌をめぐる論文を経済史の学会誌に投稿した場合、その主眼は支配的な学説の補完ないし・修正、批判であり、研究の最前線にいることをアピールしている。

 一方、総合誌であれば、同様のテーマであっても、未来予測が執筆意図となる。このままでは世界恐慌が繰り返される危険性がある、もしくは状況が当時と今とでは大きく違う以上、それは過剰反応だなど過去を扱いながらも、未来への見通しを提示する。発行間隔の長い総合性の強い雑誌が最も未来を見据えた記事を掲載できる。

 専門性が高度化したため、総合誌がその現状に対応できないことも確かだろう。従来から門外漢の識者がさまざまな問題に対して主張する場を提供してきたが、そうした直観や感性はもはや通じない。実際、総合誌では、肩書はあるものの、学界では相手にされないような極論や暴論、偏見と先入観、まがまがしいイデオロギーに基づく意見、論理性や検証性を欠いた直観などが幅を利かせている。雑誌の執筆者で冷戦終結を予測できた人はいないし、中には、終わっていないと主張する人もいる。こういった内輪だけで通じる話をしている人には進化が乏しく、未来を語ることなどできない。

 月刊総合誌の退潮は未来を語ることが難しい時代になったことを表わしている。『ロスジェネ』や『POSSE』など若者自身が主に労働問題を論じる雑誌は活気があるが、記事の内容の時間は現在である。また、『月刊現代』の精神を継承し、ノンフィクションに専門化した『月刊プレミア』というムックが今秋から講談社より刊行される予定である。ノンフィクションの最前線を提示する場になりそうだ。雑誌は未来を捨て、現在に特化することで生き残りを計っていくのが主流になるだろう。

 しかし、皮肉なことに、今は未来について考えることがかつてないほど求められている時代である。地球温暖化を代表とする環境問題は未来性を帯びている。未来を語ることが難しくなったのは,それが一つではないからである。異なった条件から導き出される複数の未来に関するシナリオを提示する必要がある。当然、未来の記事は読者にも積極的な姿勢が不可欠である。過去や現在の記事以上に受身であってはならない。

 未来に関する書き方や読み方の変更が迫られている。月刊総合誌の退潮はその現れであり、問われているのはジャーナリズムやノンフィクションの未来だけではない。時間の多様性を具現化する雑誌の登場が待ち望まれている。
 〈了〉


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