「マリオUSA」がつないだ記憶
すすけたファミコンソフトを手に取った。指を滑らせると、その部分だけホコリが取れてきれいなピンク色が姿を見せた――
あれは半年ぶりに祖母の家を訪ねたときのことだ。2018年から翌年にかけての年末年始だったと記憶している。
家の重たい茶色の扉を開けると、玄関のたいそう懐かしい香りがした。木の匂いだろうか、うまく言葉では言い表しにくいけれど、なんとも柔らかな香りだった。めっきり訪ねる頻度が減ってしまっているから、その分感じるものも鮮烈だったのだろう。
高校生くらいまでは、年に3回は祖母の家を訪れていた。西日本にある祖母宅は関東からおいそれと行けるような距離ではなく、夏休みなどに家族で数泊しに行くというのが恒例となっていた。巷でいうところの典型的な帰省である。距離が離れている分、非日常的な感じが強くて、日々の鬱屈な暮らしにやや飽きかけていた私は年数回の帰省を楽しみにしていた。
東京での暮らしとは何もかもが違うのだ。
例えば、祖母宅には座敷なるものがある。家の中に仏壇があるというそれだけで、まだ精神的にも幼かった私は妙な高揚感を抱いていた。
そして外に出てみると、緑の多いこと多いこと。近くの空き地では拳くらいのサイズのカエルがゲロゲロ言って跳ね回っていたし、水田地帯では夏になるとトンボの大群が飛び回っていた。たぶん日本の田舎というのはどこもそんな感じなのだろうけど、見たこともない草花や昆虫なんかに目を輝かせる日々であった。
旅行でも田舎に赴くことはよくあるけれど、帰省は「暮らし」である点が決定的な違いだろう。祖母と一緒に数km離れたスーパーまで食材を買いに行ったり、畑の世話をしたりする。もともと父親が生まれ育った土地なので、父の土地勘もかなりある。ここで暮らすのも悪くないかもな、なんて思うようにもなったりして、東京に帰る日は本当に悲しかった。強制的に現実に引き戻される感じに耐えられなかったのだろう。
しかし時が経つにつれて、徐々に祖母のところに訪れる頻度が減っていった。
私が大学に入った頃くらいからだったか、祖母がネコを飼い始めた。厳密にいえば、その数年前くらいからすでにネコを飼っていたのだけれど、そのときはまだ庭で野放しにしているだけだった。
「絶対に家の中には入れないんや」
とあのとき祖母は言っていたが、その数年後、つまり私が大学生に上がった頃合いくらいには、ふつうに食卓の上にネコが乗るようになっていた。いともあっさりと家の中にネコを入れるようになってしまったのだ。
これを嫌ったのは母と弟である。二人は軽度のネコアレルギーを持っていたため、ネコが家の中に入り込んでいるのを見て「もう行きたくない」と言った。祖母は「さみしいから」という理由でネコを家に入れてしまったらしく、これに関してはもう誰も責めることはできない。
そういうわけで母と弟はそれを最後に祖母宅へは行かなくなり、「家族で帰省」という恒例行事はあっけなく終わりを迎えた。
しかし父親はその後もそれなりの頻度で祖母宅を訪れていた。訪れるというよりは帰ると表現した方が適切かもしれないけれど、今までよりも多く帰るようになった。
理由は簡単だった。
祖母がボケ始めたからだ。
少し前の記憶が飛ぶようになってしまっている。忘れっぽいというレベルをちょっと超え始めていた。
本当に薄情な孫だと自分でも思う。そんなボケた様子を目の当たりにするのが怖くて、そして何よりもつまらなかったから、私はだんだん祖母の家から足が遠のいていった。家に行っても、昔みたいに祖母とは楽しく話せないだろう。しかもネコが家の中を縦横無尽に駆け回り、あちらこちらで排泄をするというひどい有様だったから、ますます行きたいという気持ちは薄れていくばかりだった。
しかし2018年の年末、さすがに顔でも出すかと思い、父とともに祖母宅へ訪れた。ここで冒頭の扉を開けるシーンに戻るわけだ。
半年前にも一度訪れてはいたが、あのときは旅の途中で宿代を浮かしたいという不純な動機で立ち寄っただけであり、慌ただしく1泊しかしなかった。だから今回のようにのんびりと羽を伸ばすようなつもりで帰省するのは本当に久しぶりだったのである。
家の構造は完璧なまでに覚えていた。何がどこに置かれているのかも全部覚えていた。どのスイッチでどこの電気が付くのかもしっかりと覚えていた。
そう、自分は覚えていた。
しかし――
しかし、祖母は覚えていなかった。私の名前は当然覚えていたようなのだが、大学の名前は何度も私に尋ねてきた。前にここに来たのはいつだったか、とも聞いてきた。
自分は覚えているのに祖母は覚えていない、ただそれだけなのに、不思議と胸が苦しかった。ああ、やっぱり以前のように円滑にはコミュニケーションが取れないんだな、と思うと、なんだか悔しい気持ちもした。
ミャアア・・・
冷蔵庫の上に我が物顔をして乗っかっていたネコが小さく鳴いた。
そんな複雑な気持ちで過ごしていたわけなんですが、何の気なしに客間の棚を整理していたら懐かしいものを発見した。
埃を被った、クリーム色とチョコレート色の物体。
かの任天堂の世紀の大作、ファミリーコンピュータだった。
まだあったのか・・・、と、ところどころすすけた筐体をぼんやり眺めていると、とある記憶がふやふやと蘇ってきた。そういえばあのソフトはどこにあったかな、と近くの棚を探すと、目的のものはすぐに見つかった。
「スーパーマリオUSA」のソフトである。
あれは小学生くらいの頃だっただろうか、ファミコンで遊んでみようという話になった。もちろん我が家にはDSがあるだけでファミコンなんてものは存在しないから、物珍しさからやってみようということになったのだ。
母と弟と協議した結果、数個あるソフトの中から選ばれたのはスーパーマリオUSAだった。マリオのアクションゲームならばDSのソフトでも同系列のゲームがあるから、とっつきやすいと感じたのだろう。
ところが、このマリオUSAというゲームは従来のマリオのアクションとは一線を画すものとなっていた。
本来のよくあるマリオは、「クッパ」とかいう狡猾な緑亀に拉致監禁された純情な「ピーチ姫」を身命を賭してマリオが救出するというストーリーだ。マリオは多くの場合敵陣に乗り込んでいくわけなのだが、道中のギミックや敵をうまく対処しながら進む。敵を踏んだり、穴に落ちないようにジャンプしたりするのだ。
一方「スーパーマリオUSA」はそうではない。クッパはおろかピーチ姫すらも出てこない。敵の顔ぶれも全く違う。なんなら大ボスは全然知らない黄緑色のワニ「マムー」で、あろうことかピーチ姫はプレイヤーが操作可能な冒険の主人公として出演している。
我々は最初大いに戸惑った。自分たちの知っているマリオとは何もかもが違いすぎる。まず敵を踏んで倒すことができない。敵の頭上にマリオが乗っかるだけで、本来なら倒れるはずの敵はのうのうと頭にマリオを乗せたまま闊歩しているのだ。さすが1988年発売のゲーム、分からないことだらけだと思った。
次第に全容が明らかになっていったのだが、どうやらこのマリオUSAは敵の上に乗っかって敵を持ち上げ、それを投げて捨てるとかいうとんでもないアクションゲームらしいということが明るみになった。従来通り穴や敵をジャンプでかわすこともできるが、敵を倒そうとするには何かモノをぶつけないといけない。それはその辺に生えているアイテムでもいいし、敵でもいい。投げてぶつけるというのがこのゲームの根幹にあるということが分かってきた。
とまあこんな調子で何とかゲームを進めていき、どうも最初のボスらしき生き物の場所まで辿り着いた。このボスは「キャサリン」という名前の雌のピンクの恐竜で、口からタマゴをポンポンと吐き出してくる。
だが、ここで行き詰まってしまった。母も弟も私も、キャサリンの倒し方がさっぱり分からなかったのだ。とりあえず頭上に乗っかってみるも、一切ビクともせずに単調なペースで卵を吐いてくるだけだった。コイツを倒さないと次に進めないのは明白だったのだが、どうしてよいかさっぱり分からなかったのでもうお手上げ状態だった。
と、ここでとある名案が頭に浮かぶ。このソフトを買った当初を知っている父や祖母なら、キャサリンの倒し方を知っているのではないか。
さっそく聞いてみた。
「コイツどうやって倒せばいいの??」
「なんやったっけな、コレ」
「覚えとらへんがな」
「ワハハハハハ」
いや、笑い事じゃないんですけど。
とまあこんな感じで何一つとして有意義な情報は得られず、またゲームも詰んだままで、あっという間に東京へ帰る日になってしまった。それならば残された方法は、希望は、一つしかない。
新幹線の駅まで着いてきてくれた祖母に対し、私はこう告げた。
「次行くまでにキャサリンの倒し方を調べておいてよ」
もちろん祖母の家にインターネットなどというものは存在しないから、要は実際にゲームをプレイして調べておけ、ということでもある。今思い返すとなかなかとんでもない孫だ。60もそこいらのお婆にマリオのクリアを要求しているのだ。くそガキと言われても仕方がない。
それでも、孫には異常に寛大だった祖母は
「やっといたるで」
と笑って応えてくれて、新幹線の窓越しにお見送りをしてくれたのだった。
東京の我が家にはマリオUSAは無いので、あっという間にキャサリンのことは忘却の彼方へと飛ばされてしまった。次の帰省まではほぼほぼ忘れた状態にあった。
・・・
そして来たる帰省のとき。
祖母の家に帰ってみて久々に思い出した。マリオUSAの存在を。あのピンク色のソフトを見て思い出した。そうだ、自分たちはキャサリンが倒せなかったのだ。
そういえば祖母に倒し方を研究するよう頼んでいたような記憶があるぞ、と思い出し聞いてみた。すると、
「あのタマゴ、乗れるんやで」
と驚愕の返答が帰ってきた。
さっそくソフトを大急ぎで起動し、キャサリンのいるところまでプレイした。そして本題のキャサリン戦。
ポンポンと吐いてくるタマゴめがけてジャンプしてみると、
おお、乗れるじゃないか。しかもボタンを押すとこのタマゴは持てるということも判明。その持ったタマゴをキャサリンに上手くぶつけると倒すことができる、という話だった。
いやね、ふつうは敵の吐いてくる物体に乗れるとは思わないじゃんか。ぶつかったらダメージを食らうのがよくある展開じゃないですか。
これはマリオUSAの本質を理解できていなかった我々にも多少の非がある。発想が乏しかった。そう思った。
このときの祖母には心の底から脱帽した。孫である私の「キャサリンの倒し方を調べておいてね」という発言を守ったのだから。おそらく祖母は我々が東京へ戻った後もマリオUSAを何度もプレイしたはずだ。
たぶん面白くもなんともなかっただろう。むしろ苦痛だったんじゃないかとも想像できる。
しかしそれでもプレイを続け、そしてちゃんと倒し方を発見した。そこにあったのは孫との「約束」を守りたいという一心だったんじゃなかろうか。
このことに気付いたのはしばらく時間が経った後である。
当時小学生だった私は、もちろんキャサリンの倒し方を教授してくれた祖母にお礼を言ったが、そのときはまだそこまで深くは考えられていなかったと思う。
時間を今現在に戻してみる。見慣れた祖母の家。当時とあまり変わった点は見いだせない。
でも祖母は変わってしまった。
そう、あのときのように「覚える」ことのできていた祖母は、変わってしまった。
当時のような、約束を「覚えていた」祖母は、変わってしまった。
きっと今、同じように「キャサリンの倒し方を調べておいてね」と伝言しても翌朝には覚えていないだろう。
まだ「覚える」ことができていた祖母の姿。マリオUSAのピンク色のソフトを見ると、それを鮮明に思い出すことができる。
マリオUSAが当時の祖母の様子を現在までつなぎ止めてくれていることに気づき、このソフトを大切にしようと私は心から思ったのである。
そして回りをよく見ると、置かれている様々なものに思い入れがあることに気付いた。あの置き時計で足の小指をぶつけて大泣きしたこと、ほうきで蛍光灯をつついていたら大量の埃が机に落ちてきて母に怒られたこと、押し入れの布団にダイビングをして遊んだこと・・・
たとえ祖母の記憶がどんどん消えていってしまったとしても・・・・・・、ここにたくさんの"証拠"がある限り、そしてその"証拠"に私が意味を見出し続けられる限り、
きっと、ここでの楽しい思い出は色あせないと思う。
だから、また来ようと思った。
祖母の症状を改善させようとか、思い出させようとか、そんな前向きな感情ではないけれど、この家に来る意味を私はあのとき見いだせたんだと思う。
そういう意味で、私はマリオUSAというゲームに対してすごく感謝しているし、生涯忘れられないゲームだと感じている。
もうファミコンは接触不良を起こしてしまっていて、プレイすることが叶わなそうなのが本当に残念でならない。もう一度ファミコンに電源が入るなら、そしてソフトの中身が生きているのなら――
ぜひまたあのピンク色の恐竜「キャサリン」を、倒してみたいと思う。
おしまい
お読みいただきありがとうございました。
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