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旅の終わり

ずっと海外留学へ行きたかった。中学でも高校でも大学でも、留学のチャンスがある。留学へ行くには選考がある。普通に学力が足らなくて落ちたこともあったが、それ以前に留学へ行きたい理由がうまく話せないのだ。私は留学に行くのは当然だと思っている。海外はあるのに、行かないのはおかしいという発想である。しかしこれでは選考に残れないし、やっと行けると思ったらコロナが流行ったので、日本から一歩も出たことがないままとうとう大学を卒業してしまうのだ。つまり居心地の悪い状態にある。

冒頭では学力が足りなくて落ちたこと「も」あったが、と書いたが、これは見栄っ張りで学力がほとんどの要因だったのかもしれない。しかし移動について日頃考えていることがある。

本当に現実逃避のために旅に出たとき、その旅が終わるときは死ぬときなんだなと思っている。戻る場所がある限り、逆に言えば(「拠点」に対する)「旅先」がある限り、旅はいつか終わる。実際に戻らなくても、心の中には「いつか来る終わり」があると思う。戻る場所から逃げるために旅をする場合、戻る場所を定めたら、旅というプロセスは苦痛を増幅させるものでしかないのだろう。いつか来る苦痛を先延ばしにしているだけだからだ。しかし、最後に死ぬことを前提にしていれば問題ない。

死を前提に旅をする場合、そのきっかけは「死ぬ前に美しいものを見ておきたい」というような考えだろうか。あわよくば、その美しいものが自分を受け入れてくれ、故郷と苦痛を一生忘れさせてくれ、死の結末から逃れられるかもしれないと考えるのだろうか。しかし、やはり死を前提に出た旅の結末は死のみだと思う。なぜなら、どこまで行っても人間の世界は人間が構成しているし、自然に立ち入ることはできないし、人間は均一だと思うからだ。別の社会に期待することは、別(なように見える)他の人間に期待することと何も変わらず、しかも人間は結局誰も同じだと思う。

どこへ行っても死なないためにどうすれば良いんだろうか。思うに、ある特定の社会や土地と自分を結び付けていることが、全ての元凶である。結びつきというのは家でも、方言でも、愛着でもなんでも良く、その上で精神的に結びついている、拠点や故郷と捉えている特定の土地があることだ。
自分のいる社会というのは、この世に今ある空間の全てであると考えるのが良いと思う。行ける空間全てが自分の故郷で、その中でどう動こうと、何も変わらないのである。液体の流動と同じことである。
逆の考え方もできる。この世の全ては自分から切り離されたものであり、世界のなかで全ての概念は個として存在していて、相互に結びつきなどない。だからその中でどう動こうと結局同じで、本質的な影響はない。個体の移動のようなものだ。つまり、旅には始まりも終わりもない。というより、旅自体がないのだ。

冒頭の話に戻るが、世界の中で自分がどう動こうが何の意味もないのである、この世の場所は均一で、移動による影響もない。故郷や旅先という概念を廃したとき、私は流動が自然状態だと考える。だから、別の社会があるならそちらへ移動することが自然だし、一方で、移動なのだからもとに戻ってくることもありえるだろう。だから、外国があるのだから留学することが自然という発想に至った。のだと思う。

旅の途中で死にたくなることはあるのだろうか。幸せで美しくて今死にたい!となる気分は、感覚的に理解できる。でも同時に、こういうのがもっと他にもあるんじゃないかと思うので実行されない。

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